真夏の日差しを避けるように理事長室にはブラインドが引かれ、室内は適度な冷房を効かせていた。夏休み、大抵の生徒はいない静かな学校で、雅人は久保兄から受け取った封筒を開いて、数枚の書類に目を通していた。
「雑誌の方は回収できる分はしておきました」
「どれくらい出来た?」
「初回出荷の半分くらいです」
 その言葉に一定の満足したのか雅人がゆっくり頷いて、めくっていたページを止める。
「これは、使えるな」
「はい。訴えると言った相手にだいぶ金を払ったようですね―――しかし、そこまで必要ですか?」
 その事実を使えば、篠崎を排除することはいとも簡単ではあろうが、彼は仕事を忠実にこなしていただけでその相手がたまたま運が悪かっただけなのだ。
 それなのに、社会的にも抹殺しようと言うの行き過ぎではないかとあまり表情を表に出すことの少ない久保兄が、僅かに目を見張って驚きを表した。
「綾乃と彼が接触したんだ。しかも、綾乃に興味を抱いているようで」
「それは、またつくづく運のない」
 そこまでくればその本人の運の無さは、もはや本人自信の所為だろうと久保兄も納得せざるをえない。嗅覚がないのなら、つまらない遊びに身を投じるべきではないのだ。
「ああ。だから完全に排除してしまわないとならない」
「わかりました。とりあえず、あの雑誌社には海外支部があるようですので、彼をそちらへ移すように手配しますがそれでよろしいですか?」
「ああ、かまわない。4〜5年は向こうに行っててもらえ」
 その海外支部がどこにあるのか、本当に4〜5年で帰って来るかどうかはもう雅人の知ったことではない。ただ、綾乃が心配して困っているのならば、それを自分が排除するだけ。
 まして、自分も目障りだと思っているのだ。何も躊躇うこともない。
「はい。―――――それと、先ほどのお話のレストランの予約と、部屋の予約は取れました」
 この話は終ったとばかりに急に口調をがらりと変えて、他ではめったに見ることのない久保兄は笑顔を浮かべてメモを渡した。
「ああ、ありがとう」
 雅人も満足そうに頷く。
「2時のお待ち合わせでしたよね。では、1時にここを出られますか?」
「ああ、そうだな。時間になったら教えてくれ」
「かしこまりました」
 秘書は一礼して下がり、雅人は新しい書類に目を通しだした。











   駅の改札から少し離れた場所で、綾乃は今か今かと人その姿が現れるのを待っていた。近くに有名は百貨店やファッションビルがあることから、どこから溢れてくるのかと思うほど人の波が押し寄せてくる。
 自分と同じように、誰かを待っている人もたくさんいるけど、うれしくて2時よりも10分以上前にここに着いてしまった綾乃が一番の古株かもしれない。
「あっ・・・・」
 首をめぐらして、道路の端に目をやると見覚えのある車がこちらに向かってきた。それを認めて、ドキっと大きく胸が鳴った。
 その車は綾乃の目の前に滑り込むように止まって、扉が開かれる。
「すいません、少し遅れてしまいましたね」
「ううん、大丈夫」
 てっきりスーツなのかと思ったら、どこで着替えたのか薄いグレーのノースリーブに黒に細いストライプの入ったジャケットを羽織って、中古加工のされたブラックデニムをスラリと履きこなした大人っぽいカジュアルなスタイルに変わっていた。
 ―――かっこいい・・・・・
 ゆったりしたラインのベージュの7分丈パンツに、カーキのノースリーブと淡いパープル地に★柄プリントを配したノースリーブを重ね着している自分のスタイルを綾乃は思わず見て、子供っぽかったかもと、少し後悔してしまう。
 ―――松岡さんはいいって言ってくれたけど・・・
「どうしました?さ、乗ってください」
「―――うん」
 爽やかに笑う笑顔もまた似合いすぎていて、綾乃は人知れず思わずため息をついて車に乗り込んだ。
「だいぶ待たせましたか?」
 それを待った疲れなのかと勘違いした雅人が少し申し訳なさそうな顔で綾乃を覗き込む。
「ううん、そんなことないよ。だって、遅れたって2分くらいじゃん」
「だって、汗かいてるし。先にお茶でもしましょうか?」
「えっ、いいよっ。先に水着見よ?」
 汗はだいぶ早く着てしまった所為で、それを白状するのもバレるのもなんだかちょっと恥ずかしいから、綾乃は誤魔化すように笑って本来の目的へと促した。
「そうですか?」
「うん。―――そういえば、雅人さんって運転できるんだ?」
 いつも運転手付きでしか見たことがなかったので、てっきり運転なんてしないものかと綾乃は思っていた。
「もちろんですよ。まぁ・・・・・・久しぶりではあるんですけどね」
「え!?」
「大丈夫ですよ。そんな怯えた顔しないでください」
 思わず吃驚した顔をした綾乃に、雅人は苦笑を浮かべる。
「あはっ、ちょっとびびってるのバレた?」
 綾乃が肩をすくめて笑うと、雅人もしょうがないねと笑って。
「ま、大船に乗ったつもりでいてください」
 ちゃんと練習してきました、とはとても言えない雅人は、嘘でも余裕のある顔を作って綾乃に向ける。
 ドライブといは言えないくらいの、ちょっとした距離だけれど。信号でつまりつまりなので、爽快なとはいかなかったけれど、綾乃は2人っきりの密室の空間がとてつもなく楽しかった。
 こういうのも悪くない。今度はもうちょっと遠くまで一緒にドライブもいいな、などと思いながら、瞬く間に目的地に到着して大きなビルに駐車場に無事に滑り込んでしまった時には、ちょっと残念な気持ちになった。
 到着したショッピングモールは、さすが夏休みというべきかかなりの人ごみだった。
 ―――凄い・・・みんな振り返ってる・・・・・・
 雅人が動くたびに、周りの視線も揺れるのを綾乃はひしひしと感じて、思わず傍らに立つ雅人を見上げてしまう。当の本人はまったく気にしてないようだけれど。
「ああ、ありましたよ」
 雅人が指した方に目をやると、たくさんの色とりどりの水着が並んでいてその端の男物もおいてある。どうみても、女物の3分の1以下くらいしかない量ではあったが。
 雅人はまっすぐにそちらに近づいて行く。
 ―――僕らって、どう見えるんだろ・・・・
 その後姿を見つめて綾乃は考えてしまう。どう考えても100%間違いなく恋人には見えないだろうと思う。弟と一緒にお買い物だろうか?しかし、兄弟にしては似てなさすぎだろうし。
「綾乃?どうしました?」
「あ、ううん、なんでもないよ。早く選ばなきゃ」
 綾乃はなんでもないと、少し慌てた様子でハンガーに吊られた水着に手を伸ばした。その仕草に、雅人は笑いを含んだ甘い視線を向けて、わざと指先に綾乃の指に絡める。
「っ」
 思わず固まってしまう綾乃に、くすくすと笑い声をたてて。
「うぅー・・・・」
「唸らないでください。人なんてどうでもいいでしょう?・・・・せっかくのデートなんですよ?」
 雅人は綾乃に視線を合わせて水着を選んでやる風を装いながら、耳元で低く囁いた。その声に、綾乃は耳まで赤くなって、目の前にある水着を思わず引っ張ってしまう。
「それにするんですか?」
「えっ・・・」
 それは、明らかに綾乃には大きすぎるサイズで、しかも変てこな柄。雅人は一層笑って違う水着を選び出してやる。
「これなんかどうですか?」
 それは、膝より少し上くらいの丈のゆったりしたラインのものオレンジ系のグラデーションボーダーの柄の物だった。
「あ、いいかも」
「でしょう」
「でも、色はこっちの紺の方がいいなぁ」
「それは綾乃には地味でしょう?オレンジの方がかわいいですって」
「かわいいって―――だって、・・・派手じゃない?」
 オレンジといっても、くすんだような色合いなのだがなんだか目立ちそうで、綾乃はちょっと上目使いで雅人を見上げると、雅人はまったく問題ないとでもいうように言い切った。
「全然」
「うーん・・・」
「では、こちらではどうです?」
 次に雅人が見つけ出したのは、形は同じようなので柄がグリーンの迷彩を少しアレンジしたような物。
「ほら、鏡で合わせてみましょう」
「うん」
 さらに奥に設置されている鏡の前で、綾乃は二つの水着を比べてみる。何度か同じ事を繰り返して、結局選び取ったのは。
「いいんですか?」
「・・・うん」
 不本意だったのだが、1番しっくりと似合っていたのはオレンジのものだった。
 ちょっと納得出来ないのか悔しいのか、少しほっぺが膨らんでいる。そんな仕草も、子供っぽさを強調してしまうのだが、綾乃は無意識なので雅人が言ってやらないと直らない。しかし、そんなところもかわいいと思ってしまっている雅人が、注意するはずもなく。
 むしろ、無意識にこんな風に甘える表情を見せてくれるようになったのを心底喜んでいるくらいなのだから。
 会計を済ませて渡してやると、ちょっとご機嫌になったのか綾乃が頬を染めて笑った。
「ありがと」
「いいえ」
 そんな風に、素直に感情を出してくれることが、雅人にはなによりもうれしくて、本当は人目なんて気にしないで抱き締めてしまいたいのだけれど、そこはなんとか理性を最大限集めてなんとか堪えた。
 自分は困らないのだが、綾乃が困るから仕方がない。
 2人はその後、他の階も回って出たばかりの秋服を見て、雅人は気にいった何着かを綾乃に買ってやった。まだ早いからいいと言う綾乃に、こんな風に一緒に買いに来れる日が今度いつあるのかわからないのだからと、言い含めて。
 中にはジャケットやニットも混じっているのだ。
「もう、雅人さん僕のこと甘やかしすぎだよ」
 たくさんの紙袋を提げて、うれしいけれどどうも複雑な顔を浮かべて綾乃が抗議する。正直、甘やかされ過ぎてて、どうしていいのかわからないのだ。
「いいじゃないですか。私がそうしたいんです。私の我侭に付き合ってください」
 そんな綾乃のことなど全てお見通しのように、雅人がとろけそうなくらい甘い視線を向けて言えば、綾乃は頬を朱に染めて黙ってしまうしかなかった。
「だって・・・」
「ほら、機嫌直して。袋持ちましょうか?」
 買ってもらったのだから自分で持つとがんばっている綾乃に雅人が手を伸ばすが、綾乃は首を振る。
「そうですか?じゃぁもうすぐですからがんばってくださいね」
「うん」
 結局お茶をする間もなく買い物にいそしんでしまって、時刻はすでに6時になろうとしている。綾乃のおなかはすでに空腹を訴えていた。
「早く帰らないと、夕飯の時間に遅れちゃうね」
「今日は、外で夕飯を食べて帰りましょう」
「え?」
「近くにおいしいお店があって、予約しておいたんですよ」
「えっ、でも・・・・雪人君が・・・」
 自分と雅人が2人で外で食事をするとなると、雪人が家で一人になってしまうのではないかと綾乃が心配そうに訴えると、雅人は嬉しそうに笑った。
 1番に雪人の心配をしてくれる、その思いがうれしかったのだ。
「大丈夫。今日は直人が帰って来ていますから」
「・・・・え」
「だから、たまには2人で食事して帰りましょう?」
 デートなんですから、と秘め事のように囁かれて。
「うんっ」
 綾乃は嬉しくて、思わず雅人の腕に額を引っ付けてもたれかかって――――ハタと気付いて慌てて跳びのいた。









「え・・・・ここ?」
 綾乃は思わず目の前にそびえたった、高級感ただようホテルを見上げた。
「ええ、ここの最上階のレストランです。個室の方がいいかと思いまして、個室のある中華にしたんですが良かったですか?」
「うん」
 ―――それはいいけど――――凄い・・・・ホテルの最上階の、中華・・・・・
 全然関係ないが、それっていくらくらいするの?と、綾乃はかなり庶民的な発想が頭に浮かんで、思わず雅人の顔を見上げる。
 その視線に雅人はいぶかしげに首をかしげて。
「どうしました?」
「―――ううん、なんでもない」
 綾乃は若干ぎこちない笑顔を雅人に向けるしかなかった。
「そうですか?――ああ、そうそう、このジャケットを羽織ってください」
「え?」
 雅人は先ほど買ったばかりの袋の中から1枚ジャケットを取り出して綾乃に渡した。
「お店がジャケットを着用してないと入れてくれないんですよ」
「・・・・・・・・・・はぁ・・・」
 ―――やっぱり、次元が違う・・・・
 綾乃は雅人からジャケットを受け取りながら、小さく息を吐いた。
 ジャケットに袖を通して雅人を見上げると、高級感漂うロビーに嫌になるくらい絵になっていて。
 一体自分はどんな風に見えるのだろうと、そんな思いが再び綾乃を捉える。
 きっと、横に並んでも全然絵にもならないのだろうと思うと、気分が落ち込んでしまう。ふと、体育祭のあの日、杉崎の姉と並び立った姿が頭をよぎって。
「じゃぁ行きましょうか」
「・・・・うん」
 振り返って、笑いかけて誘うその仕草全てがかっこよすぎて、綾乃はちょっとどうしようもないやるせない自分を持て余していた。








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