幸せな日常U・前


 雪人は友達と遊びに出かけてしまっていて、雅人も誰かの結婚式か何かに出席しなければならないとかで、朝からいない。しかもその結婚式は南條家経営のホテルで行われると言うことで、当然直人もいない。
 そんな、誰も家にいない三学期が始まってすぐの日曜日の朝、10時。
 「・・・暇」
 一人で過ごすには南條家の屋敷は広すぎて、この静けさは暇すぎて少し寂しい。綾乃はクッションを抱きしめて、リビングの長いソファに身体を横たえてボーっとテレビを見ていた。大きな窓から差し込む光は暖かくて、程よく効いた暖房も相まって1月の終わりだという事を忘れさせる。
「今日はのどかですね」
 そこへ松岡が紅茶を運んで来たので、綾乃は慌てて上体を起こして椅子に座りなおした。
「かまいませんよ?」
「いえ・・・」
 気の抜けただらしない格好を見られた綾乃は、ちょっと恥ずかしげに頬を染めるが、それほどくつろいでいるのかと松岡はそんな綾乃の仕草が逆に嬉しくなっている。
「お昼はどうしましょう?」
「うーん・・・、あまりおなか減っていないので、いらないです」
 起きたのは9時過ぎて、朝を食べてごろごろしているだけではおなかが空くはずもない。
 宿題も昨日終わらしたし、今日は特に出かける予定も立てなかった。薫は何か予定があるとか言っていたけれど、翔はもしかしたら暇しているかもしれないしメールでもしてみようかと綾乃が考えを巡らしていると、静かな室内に電話のベルが鳴り響いた。
「誰からでしょうね」
 松岡は電話に出るためにサイドテーブルへと足を向ける。綾乃はその背中を見送りながら、紅茶を口に運んだ。ほどよい甘さが体中に染み渡る。
 ――――おいしぃっ
 松岡の入れた紅茶を飲むようになってから、綾乃は市販の紅茶を不味く感じてしまい飲む事がなくなっていた。
「はい、南條・・・ああ、直人様。え?今は綾乃様が・・・・・・はあ、はい、わかりました、少々お待ちください」
 綾乃は"直人"という言葉に続き自分の名前を言われて、一体何だろうと松岡に目を向けた。すると、松岡が子機を持ちながら綾乃の方へ向かってくる。
「綾乃様、直人様からの電話なのですが、何か忘れ物をされたとかで届けて欲しいとおっしゃっているのですが、綾乃様にお頼みしてもよろしいでしょうか?」
「僕?はい、別にいいですよ」
 今日は特に何の予定もない綾乃にとって、お使いくらいはまったく問題ない。
「はい、綾乃様が行けるとおっしゃっています。――――直人様の机かベッドの上にある書類の入った封筒ですか?少々お待ちください、今見て参りますから」
 松岡はそう言うと、電話を持ったままリビングから出て行った。
 どうやら予定が出来てしまいそうだと綾乃は思う反面、もしかして直人の仕事現場が覗けるのかも?と興味心がむくむくと沸いてきた。こんなチャンスはきっと滅多にないだろうと思うと、わくわくすらしてくる。
 綾乃はそそくさと紅茶を飲んでしまうと、上着を取りに自分も部屋へと向かう。室内は本当に暖かくて気持ちよいのだが、外は寒いに違いないと少し厚手のジャケットを手に部屋を出ると、ちょうど直人の部屋から戻ってきた松岡と出会った。
「あ、それですか?」
 松岡の手にしているA4サイズの封筒を見る。
「はい。これをホテルまで届けてくれと。今日の夜のパーティーの進行表とかお客様のラインナップとか、一覧忘れたみたいです」
 松岡はしょうがないと、少し顔を崩して笑う。
「わかりました。じゃぁ、僕道とか場所とかわかんないので教えてください」
「ああ、今タクシーを呼びました」
「え!?」
「場所は新宿区の方ですから、時間はそんなにかからないでしょう」
「え、じゃぁタクシーなんてそんなの勿体無いですよ」
 そんな電車で行けば片道ン百円で済むだろうところを、タクシーで行けば何千円とかかってしまう。そう思うとそれはもう絶対に勿体無いと綾乃は思ってしまうのだが。
「大丈夫ですよ。それに直人様も急ぎとおっしゃっていましたので、駅から歩くことを思えば」
「・・・はぁ」
 庶民の綾乃にはタクシーはなんとも贅沢な乗り物の様な気がするのだが、松岡にはそうではないのだ。その上直人から出来るだけ早くと言われれば、迷うことなくすんなり行けるタクシーを利用する方が早くて楽だろうと言うのが松岡の当然の考えなのだ。
「いつも利用していますタクシー会社に電話しましたから、来るまでリビングでお待ちください」
「はい」
 こうなっては綾乃の口を挟む余地はない。
 綾乃と松岡が再びリビングに戻って、松岡はメモにホテルの住所を書き示し、綾乃には往復のタクシー代にと2万円ほど手渡した。
「ホテルに入りますと左手にフロント、右手にロビーがございます。そのロビーを奥に進みますと広い庭に出る事が出来ますので、その庭を奥までお進みください。道なりにいけばパーティー会場に繋がっています。そこで直人様がお待ちになっていらっしゃるそうです」
「わかりました」
 綾乃は松岡の言葉を頭の中で反芻しながら頷いた。2万円を財布に仕舞って鞄に入れて、その鞄の中に届ける封筒も一緒に入れる。
 少しドキドキしながら待っていると、ほどなくしてチャイムの音が鳴り続いてクラクションの音も聞こえた。
「タクシーが来たようですね」
「はいっ」
 松岡の言葉にソファから立ち上がった綾乃は急ぎ足で廊下を歩いて玄関を出た。一緒について出てきた松岡がタクシーの運転手にホテルの住所を告げる。
 タクシーの後部座席に一人乗り込んだ綾乃は、この時になって少し緊張してきていた。一人でタクシーを乗ることも、一人で仕事場へ行くことも、よく考えればなんだか凄い事の様に思えてきたのだ。
「では、お気をつけて。もし帰りが遅くなる時は連絡をください」
「はい」
 ちょっと緊張した面持ちの綾乃に、その初々しさがなんとも微笑ましくて松岡は目を細めて笑顔を浮かべる。そして、走り去るタクシーを、姿が見えなくなるまで見送った。






 綾乃がタクシーに揺られたのは30分に満たないくらいの、さして長くない時間。しかし、綾乃はただタクシーの乗っているだけだったのが災いして、なんだか色々考えてしまってどんどん緊張してきていた。
 初めて見る仕事場。
 初めて触れる、南條家と言うもの。それは、家で見せる顔とはやはり違っているのだろうかと、考えは膨らんで。色々想像してしまう。
 穏やかで優しくて、あったかい姿しか知らない綾乃には、大きな家で育ち上に立つ者の世界というのを肌で感じることもなく、ましてや自分の境遇とは違いすぎて、想像する事さえも難しいのだ。
 そう思うと、直人に無事会えるのか、ちゃんと封筒を届けられるのかとそんな心配まで沸きあがってきて、心臓はドキドキとうるさく鳴っていた。
 そんな綾乃が無事辿りついたホテルは、少し歴史を感じさせる佇まいの20階建ての荘厳とした造り。
 タクシーは入り口前まで来て綾乃を降ろしたので、綾乃はその外観はチラっとしか見る事が出来なかったのだが。それよりも何より、自動ドアを通り抜けた綾乃の足が一瞬止まった。
 そこは、広いロビーで前面ガラス張り。ガラスの向こうには広くて綺麗な庭園が見えた。その庭園を眺める形でロビーペースが設けられて、人々が高そうな椅子に腰掛けて一時の休息を楽しんでいた。天井は3階分ほど吹き抜けで、豪華なシャンデリアが存在感を持って架かっていた。全体的に白でまとめられた空間に、外の緑と暖かな日差しが光を作り出していて、綾乃はその光景に圧倒されて、気後れしてしまった。
 ――――なんか、凄い場違いな気がしてきた。
 見渡せばそこには綺麗な装いの女性や、仕事なのだろうかスーツの男の人。それ以外にラフなスタイルの人にさえも、綾乃から見ればなんだか高級感漂う人々に見えた。
 ――――早く用事済ませて帰ろうっと。
 来る前は色々見学してみようかなんて思って、仕事場が覗けるのかもなんて思っていた期待感もいまやめっきり消え失せて、さっさとこの場から立ち去ってしまいたい心境へと駆られていた。
 綾乃は松岡に言われた言葉を思い出して、右の方向へ廊下を歩いて行く。するとすぐに庭に出られるような扉があった。綾乃はそっとその扉を押して外へ出ると、すぐそこからレンガを敷いて作られた路らしいものがあった。顔を上げて先を見ると、なにやら建物に繋がっている様に見える。
 ――――道なりに行くって言ってたし、こっちでいいんだよね・・・
 綾乃は少し不安になりながらもとりあえずその路に沿って歩いて行くと、木々の向こう見えていた建物へと近づて行った。それは2階建てくらいの高さだろうか。しかし2階建てになっているわけではなかった。それだけ天井が高くなっているのだ。
 綾乃が路なりにそのまま進むと、何故か建物の裏手の方へと出てしまった。そこにも庭園は続いていて、それはまるでフランスの古城の庭のような雰囲気になっている。
 ――――あ・・・
 振り返ればちょうど綾乃の後に建物。そして、そこも一面ガラス張り。
 ――――え!?
 その、ガラス張りの向こう。立食パーティーだろうか、室内は白とピンクで飾られて綺麗にセッティングされているその中央付近。
 ――――あの後姿って・・・雅人さん!?
 綾乃は思わず肩からかけていた鞄をぎゅっと強く抱え込んだ。
 だってまさか、ここで会うとは想像していなかった。てっきり直人が待っているもの思っていた。けれどよく考えれば、雅人だってこのホテルに来ているのだから、ここにいてもおかしくない。それなのに、綾乃は抜けている事にそこまでは考えが回っていなかったのだ。
 しかも、その雅人の横には、スラリと背の高い綺麗な女性が立っていた。









next    kirinohana    novels    top