幸せな日常U・中
時間は少しさかのぼって、綾乃がそのホテルに着く少し前。 雅人は自分の仕事の書類をホテルの一室を借りてチェックした後、パーティー会場の確認の為に庭の石畳を綾乃が向かったのとは逆の方向から歩いていた。 暖かな日差しはあるものの、やはりそこは冬。風が随分と冷たく吹き降ろしていた。 ――――こんな日は綾乃とシアタールームで映画を見ていたかった。 ほんの3日ほど前、雅人は前々からの計画を実行に移して、屋敷の奥の使われていない部屋を改造してシアタールームを作ったのだ。綾乃がいない昼間に業者を入れて、壁を防音にして白く塗りなおして、最新のプロジェクターと大画面。それに座り心地にこだわった大きめゆったりのソファを入れた。4人くらいなら並んで座っても問題ないだろう。 まだその部屋の存在は松岡しか知らないから、雅人は今日綾乃と雪人にお披露目をして驚かせる予定だったのに。この計画は来週になってしまいそうだ。 ――――まぁ、今日は雪人もいない事ですし仕方ありませんね。 楽しみは先にとっておくのも悪くはないと雅人は穏やかな笑みを漏らして、目的の建物に足を踏み入れた。 ここは、3年ほど前にホテルの庭を改築して作ったパーティースペースで、木々に隠されるように建てられたそれは、ホテルの敷地内という事を忘れさせてくれるプライベート空間と、静けさを保っていた。使用するのは会社や芸能人のパーティーから、レセプション、結婚パーティー、また今日のような婚約お披露目パーティーなど用途も様々だ。 「おはようございます」 「おはようございます」 受付付近で華のセッティングをしていた業者と挨拶を交わして、雅人は床をチェックする。業者は床に傷がつかないようにちゃんとビニールシートで覆っていた。通路には、あちこちから送られてきた名前入りの美しい花々が奥の方からから順々に飾られていて、照明も黄色身を帯びた穏やかな光を放っていた。 その花々を、置く順に失礼がないか雅人はチェックしながら進んでいくと、奥の控え室から声が聞こえてきた。 今日は、外資系の大手保険会社の日本支社長の娘と国立大の外科助教授との婚約披露パーティーだ。内々のパーティーとの事だったのに100人超の客が来る予定になっているから、ホテルのスタッフや、相手の会社から出向いた社員などが何やら打ち合わせをしているのだろう。 雅人はそちらには顔を出すことなく、パーティー会場への扉を開ける。中には今は誰の姿もなくて、シン・・・と静まり返っていた。セッティングされたテーブルには、白いクロスがかけられて、所々ピンクのクロスやリボンで婚約パーティーと言う趣旨に彩を与えていた。皿やグラスも磨き上げられ並んでいる。雅人はそのテーブルの間をゆっくりと歩いて、クロスに染みがないか、重ねられた皿に不備はないか、照明はどうかと丹念に見渡して行った。 ――――特に問題はないようですね。 本当なら直人の管轄なので、雅人が見て回るような事はしなくていいはずなのに、やはり気になってしまうのは長男ゆえの貧乏性だろうか。 ――――そう言えば、直人は一体どこへ行ったのでしょう・・・ 朝ホテルに入って分かれたっきり、その姿は見かけていない。 雅人はその場で久保に連絡しようか逡巡したのだが、まぁお互い仕事のある身だからと、携帯を取り出すまでにはいたらず。時間までは部屋に戻ってゆっくりしようかなどと考え出した。 「あの?」 その時に突然掛けられた声に、雅人は振り返った。 「あっ、南條さんでしたの。後姿では誰かわからなくて失礼いたしました」 「いえ」 雅人は、隙のない笑みを浮かべて微かに首を動かした。そうしながらも、頭の中では記憶の糸を手繰り寄せる。目の前の女性は黒髪を腰近くまで真っ直ぐにたらして、目鼻立ちのはっきりした少し日本人離れした顔立ち。どこかで見た記憶はあるのだが、それがどこでだったのか――― 「会場のチェックですか?」 「ええ。パーティーは2時からですからね、全て終わっているか確認を。貴方は?」 「私は母に言われてお手伝いに。森下さんが母のデザインのウエディングドレスを着てくださるので」 ――――ああ、思い出した。そうだ。 雅人の目の前に立つ女性は、世界的にも有名なデザイナー仲間夫妻の長女で、この春念願の映画デビューを果たすと噂のその人だった。 「そうでしたか。それはご苦労様です」 「いえ。森下さんのお父様には、父が手がけていますロチェも随分ご贔屓くださってお世話になっていますから。これくらい当然です」 「ロチェは私も好きですよ。大変着心地が良くて」 「まぁっ。ありがとうございます」 彼女は、雅人の言葉に華が開いたかのような笑顔を浮かべて美しく光る髪を揺らした。 「南條さんも今日のパーティーにはご出席されるのですよね?」 「ええ、もちろん」 本当なら来たくはなかったのだが、森下社長引きいる保険会社に繋がりがあって顔を立てる形で断れなかったのだ。 「きっと素敵なパーティーになりますね」 「そうでしょうね。幸せな報告ですから」 保険会社と医者という繋がりを考えると、当人同士の問題以上の力があったのではと思わないでもないが、そんな事は雅人の知ったことではない。 誰が幸せになろうが不幸になろうが、南條家にとって害を及ぼさないのであればどうとでも好きにしてくれていいと思っている。 「こういうパーティーに出ると、なんだか羨ましくなりませんか?」 「え?」 「結婚とか」 「まだお若いでしょう?」 「22歳ですから・・・若いというのもどうなのでしょうか」 「まだまだお若いですよ。そんな事言われたら、年上の私の立場がありませんよ」 雅人は言葉を返しながら、少しずつその身体を扉の方へと近づけていく。まだパーティーは始まっていないというのに、こんなくだらない会話にいつまでも付き合っていられないという心境なのだ。 「あら、お噂は色々聞きますよ?」 「噂ですよ」 「まぁ、そんな風におっしゃって」 雅人は最初浮かべた笑顔をピクリとも動かさず、無言で返した。 「・・・噂でもいいから、私も騒がれて見たいですけど・・・――――あら?誰かしらあの子」 「え?」 満面の笑みでしゃべっていたその女性の顔が、不審気に眉を寄せた。雅人はその顔に、不審者なのかと慌てて後を振り返って。 ――――綾乃っ!?・・・何故・・・ 驚きに目を見張る。 「何かしら。まさか迷子って事はないでしょうけど」 一面のガラスを挟んで、雅人と綾乃の視線が重なり合った。ビックリして固まっている綾乃の顔を見て、雅人は張り付いた笑みを崩して、優しい瞳に穏やかな笑みをその顔に浮かべた。 「勝手に入り込むなんて」 もうそんな声は雅人の耳に素通りすらしていない。すでにそこにいた事さえ忘れそうだ。 その時、外を風が吹きぬけたのか、綾乃の髪が舞い上がって木々が大きく揺れた。綾乃自身も少し踏みしめるように身体を縮める様を見た雅人は、慌ててガラスに近寄って。 壁際のレバーを回した。 「綾乃」 「あ・・・そこ、開くんだ?」 雅人がレバーを回したことで、一番端のガラスだけが開いた。 「ええ。本当はこのガラス全部壁に収納できるようになっているんですよ。天気の良い日にはオープンにしてガーデンパーティーも開催されます」 「へぇー・・・、凄い」 綾乃は雅人の言葉に思わず天井まで見上げた。このガラスが全て収納できるなんて、なんとも凄い事だと綾乃は感心してしまう。 「そんな事より早く中へ入ってください。寒いでしょう?」 雅人はそう言うと、綾乃の腕を取って中へと導いた。近くで見ると、鼻の頭が少し赤くなっている。 雅人は再びレバーを回して寒い空気が中へ入り込まないようにガラスを閉めた。 「ああ、そこであけたり閉めたり、・・・出来るんですね」 「ええ、全てを閉めている時でも非常用に端だけは手動で開閉出来るんですよ」 変な語尾に雅人は違和感を覚えながらも、何もなかったかのようにいつも通り笑顔を浮かべた。 「ところで、どうしたんです?」 「あ、はい。あの、直人さんにこの封筒を届けるように頼まれ・・・まして。あの、ここで待っていると言われたんですが」 綾乃はそう言いながら慌てて鞄の中から封筒を取り出した。時折視線が自分の後に向けられる事に、雅人はそれでそんな口調なのかと少し笑ってしまう。 「直人が?――――なんでしょう」 雅人は綾乃から受け取った封筒を開けて、中の書類を少し引き出した。 「・・・これは―――、まったく、しょうがありませんね」 そこにある書類に一瞬驚いて、雅人は深々とため息をついた。こんな大切なものを忘れるなんて、まだまだ安心して見ていられないと思わずにはいられない。 「ああ、お話の途中ですみません」 雅人は他人の前で直人に仕事の電話をするわけにもいかないと、いまだにそこに立っている相手に声を掛けた。気を利かせて出て行くかとも思ったが、どうやらもっと厚かましい性格だったらしい。ここでサっと身を引けば、まだ憶えも良いものを。 「いえ」 あろう事か、声をかけられて頬を紅潮させている。空気の読めない人間は雅人のもっとも嫌うところだ。 「急用が出来ましたので、私はこれで失礼させていただきます。また夜のパーティーでお目にかかりましょう」 「あ・・・、ええ」 彼女は、追い出されるのは自分ではなく、目の前のどう見ても場違いな格好の少年だろうと思っていたのだろう。雅人の言葉を一瞬理解できなかった様だ。 しかし雅人はそんな事に構う気がまったくない。雅人はそのまま綾乃の肩を抱いて、パーティー会場から出て行った。 ホテル本館へ戻るために、通路を抜けて再び外へと出た。 「あの、良かったの?お話中だったんじゃ?」 「ああ、いいんですよ。どこで切り上げようかと思っていたくらいですから。それより直人に頼まれてここまで?」 「うん。しかもタクシー。電車で行くって言ったんだけど、もう松岡さんがタクシー呼んじゃってて」 勿体無いでしょう?と言う綾乃の言葉に、雅人は少し目を見張ってから笑った。 「タクシーで良かったです。こんなに寒いのに電車なんかで来たら風邪を引きますよ」 「えー?引かないよっ」 雅人の返事は綾乃が期待したものとは全然違っていたので、むーっと不満気に眉を寄せた。やっぱり贅沢が身についているんだと、綾乃はしょうがないとため息をついた。 |