13

「17階よ」
「最上階?」
 エレベーター前で迷いなく階を告げる美貴に、剛が聞き返す。
「ええ。ここは林の持ち物なの。彼がここに来る時はいつも最上階のスウィートよ」
 言われて剛は17階のボタンをせわしげに何度も押す。
「剛、説明しろ。一体どういう事なんだ?」
 何故ここに剛がいるのか、今からなにをしようとしているのかまったく説明されていない晃一は苛立ちの声を上げる。
「わからない」
「わからない?」
「ただ、俺の知り合いが昨日電話してきて、今日11時に迎えに来いって言ってきた。普段そいつから電話なんてかかる事ないし、俺に頼みごとするなんて考えられないのに」
「それで?」
「声がおかしかった。全然違ってた。だから、朝からそいつの事見張ってた。わざとバレるようにしてたのに、全然気づきもしなくて、顔色も悪かった。いつもの、どっか余裕ぶった嫌味な顔じゃなくて、余裕もなくて、今にも崩れそうだった。声を、―――声をかけようと思ったのに、かけれなかった。あいつは、林の事すごい嫌いそうにしてたのにっ」
 思い返しながら今更ながら後悔の思いが込み上げてくる。どうして声をかける事が出来なかったんだろう。そこに、いたのに。
「一緒にいるって証拠はあるのか?」
「ない。全然ない。ただの偶然かもしれないけど――――でも、俺の勘は絶対一緒だって言うんだ」
 説明するのも面倒なくらい気がせいて、その口調はつい早口になっている。
「その子、綺麗?」
 突然美貴がこの場には関係ないような事を口にした。しかし、剛には今それを不審に思う余裕も今はなかった。
 目は、上の数字が上がっていくのをただ見つめている。
「綺麗だぜ。めちゃくちゃ。いっつも自信満々でプライド高そうだけど。綺麗な奴だなって思う。――――でも、たまにそれがただの強がりなんじゃなかって思う時があるけど」
 自分の記憶に残る由岐人を思い浮かべて剛は言う。
 17階まですんなりあがればいいのに、ところどころ人が止まったりしてイライラして、やっとの思いで17階にたどり着くと、ドアが開くのも待てないと手でこじ開けるようにして、剛が一気に走り出そうとする。
 その腕を美貴が掴んだ。
「何っ!?」
「落ち着いて聞いて。剛クンがその子とどういう関係かは知らないけど。私が林を追っているのは彼の仕事上の事なんだけれど、そのうちにいろんなことも耳に入ってきたの。その一つに彼の性癖の事があるわ」
「・・・性癖?」
 その言葉に剛は不愉快気に眉を寄せる。
「そう。――――林は綺麗な男が好きでね、それをいたぶるのが好きなの」
「・・・・・・いたぶる?」
「ええ・・・そういう趣味じゃない子に、弱みを作って脅したりして、金をちらつかせたりして―――――早く言えばSMの強要よ」
 美貴のその言葉が終る前に剛はその腕を振り解いて、勢いよく一歩を踏み出した。考えるよりも先に身体が反応した。思考なんて、だいぶ前からもうついていっていない。
 ただ今は、早く行かなければと思うだけ。
 早く。
 早く―――と。
 なのに、今度は晃一にその先を止められる。
「どけっ!!!」
 兄に向かって剛はこんな口を利いたのは初めてだった。けれどそんな事どうでもいい。行く手を阻むならそれは兄でもなんでもない、ただの邪魔者でしかなくなっていた。
 剛は今にも襲い掛かりそうな瞳で兄を睨みつけた。
「待てって。どうやって中に入るつもりなんだよ!!すんなりドアを開ける思うのか?」
「―――っ!!」
「いいから落ち着け、ここは俺たちに任せろ、な?」
「でもっ!!」
 早くしなければ。きっと、きっと待っているから。
「いいから、静かにしろ。お前はドアから見えないようにドアの影に立っていろ。そして何があっても俺が合図するまで動くなっ。いいな?」
 晃一はそういうと、剛をその場所に立たせ、美貴は背中を向けてエレベーター付近に立つ。そして晃一は何故準備しているのかしらないが、スーツの内ポケットから眼鏡を取り出しはめて、さらに白い手袋をつけて、チャイムを押した。
 それからのほんの数秒は剛には永久にも感じられたが、2度目のチャイムですぐに声が聞こえた。
「誰だ?」
「すいません。私こういう者ですが・・・」
 晃一はスーツの内ポケットからチラリと黒の手帳を見せる。
 するとカチャリと扉が開いたのだが、まだチェーンはついたまま。
 晃一はさらに相手にちゃんと警察証を提示する。もちろん偽物。
「実はですね、警察の方に有力なタレコミがありまして。大変恐縮なのですが、中を拝見させていただけないでしょうか?」
「どういう事だ?私に何か問題があるとでも?」
「いえいえ、違います――――その、捜査内容に関わりますのであまり詳しくはお話できないのですが、この部屋がある事に利用されていると。その証拠の一旦がまだこの部屋にあるはずだと言うんですね。で、それで調べたいのですが、部屋ではなくてキッチンの一角だけなので・・・ご協力願えませんか?」
「・・・・・・」
 晃一の言葉に、林は忌々しげに無言で睨みつけている。
「こちらとしても、その、令状を取ってまででは面倒なんですよねぇ。ないと、入れていただけないという事でしたら仕方ありませんが・・・」
 その言葉に林の顔がピクリと動く。林としても、自身が真っ当な人生から少しばかりはみ出しているのは十分に自覚している。あまり警察に目をつけられたくはない。嫌、むしろ協力的で恩でも売っておきたい立場であるのは間違いないのだ。
「今、客も来てる、・・・・・本当にキッチンのみの立ち入りだけですね?」
 それでももったいぶるのは忘れないのだが。
「もちろんですよ」
 晃一は笑顔で対応する。
 すると扉を閉めて。
 再度、今度は大きく開いた。
 そこに手をかけて晃一は身体を挟み込んで。
「行けっ!」
 その言葉が終わるよりも前に、剛は身体を室内に滑り込ませる。
「っ、なんだ!?」
 突然の事に林は大声をあげるが、いきなり飛び込んできたものにすぐに対応できなかった。その隙に剛は一気に奥へと入り込んで、扉を手当たり次第に開けていく。
「由岐人!!どこだ、由岐人!!!」
 飛び込んだ室内には静寂が満ちている。
 大声で叫んでも返事もない。
 静まり返った部屋。
 乱れの見えないリビング。
 それでも、ここにいないなんて考えられなかった。
 それは4つ目の一番奥の扉だった。
「――――由岐人・・・」
 広い、たぶんメインのベッドルーム。
 部屋の真ん中には大きなダブルベッド。
 シーツはその激しさをうかがわせるくらいに乱れていて。
 裸にされて、麻らしい紐で縛り上げられてベッドに転がされている由岐人の姿があった。
「由岐人っ!?―――――由岐人!!」
 剛はその惨状に一瞬の間呆然と立ち尽くすが、すぐに我に返って由岐人に駆け寄りその身体を助け起す。すると、意識が混濁しているのか由岐人が焦点の合わない瞳を剛に向けてくる。
 剛は焦りと怒りに震える手で、なんとか麻紐を解いていく。
 そこでよく見れば勃ちあがったものは、根元が縛られていて少し変色しているし、身体中に林の体液と思われるものが飛び散っている。
 縛られた痕は赤くくっきりとこすれた傷を作り。
 床に転がっている鞭で殴られたのであろう傷が背中からわき腹に無数の赤い線を引いている。
 白いシーツには、赤いシミが点々と見えて。
「――――ってめぇ!!!」
 どこからそんな声が出るのか。普段のひょうきんな剛からは誰も想像すら出来ない、怒りのオーラが全身からほとばしった。
 あまりの怒りに、頭がちかちかする。
「あ・・・、っよし・・・・?」
 その声に、由岐人が微かに反応を返した。
「由岐人!?由岐人、大丈夫か!!」
「どういう事だ?」
 いつの間にやってきたのか、部屋の入り口には林とその後ろに晃一が立っていた。
 林の声が剛の背中に投げられるその声は当然怒りを含んでいるけれど、今は剛の方が怒っていた。
「それはこっちのセリフだ!!!」
「お前にそんな事を言われる筋合いはないな。これは私と由岐人の問題だ。由岐人は自分からここへやってきたんだ―――――意味、わかるよな?」
 林は剛の腕から由岐人を取り返すべく、室内に一歩足を踏み入れる。
「解けたんなら、そのシーツにでも包んでやれ。帰るぞ」
 その背中に今度は晃一の言葉が投げられた。
 晃一の声も、冷たく冴えた響きしかない。ある程度林について知っていたとはいえ、目の前の光景は晃一にも心の冷える怒が押さえきれない。
 剛は晃一の言葉に慌ててシーツをよせて、傷に触らないように優しく包んで抱え上げた。
 これ以上、人目にさらしたくないその身体。
「・・・んで・・・・?」
 由岐人はその仕草に抵抗することもできず、擦れた声を剛にかける。
「理由はこっちが聞きたい。でも、とりあえず帰ってからだ」
「誰が帰すと言った?帰るのはお前たちだけだっ」
「ふざけんな!!この―――――最低野郎!!!」
 由岐人を抱え上げて、剛は林に臆することなくまっすぐに睨みつけた。
 腹が立って腹が立って。
 せり上がって来るむかつき、怒りが抑えられない。
 そこらじゅうの物をすべて叩き壊してしまいたいくらいに、腹立たしくて悔しくてどうしようもない。
 どうしようもない憤りに唇を強く噛み締めすぎたのか、剛の口腔に鉄の味が広がっていく。
「お前たち警察じゃないな?――――こんなことをしてタダですむと思ってるのか?」
 林はこの突然の乱入者と、せっかく時間をかけて手に入れたモノを持ち去ろうとしているこの状況に、ドスの効いた声ですごんでくる。
「すごんでもダメよ?こんばんは、林社長」
「お前は・・・」
 そこへ美貴がゆっくりと現れた。林も美貴に事を知っているのだ。
「ここ10ヶ月ずっと貴方の事を調べさせてもらったわ。それこそ1冊分の本が出来ちゃうくらいにね。それが出版されたら、貴方は少し困るかもしれない」
「――――脅すつもりか?」
「まさかっ。ただ私たちはその子を連れて帰りたいだけ。そして二度と近づいて欲しくないよ。これは、取引でしょう?」
 上目遣いで笑顔すらうかべて見つめる美貴と、それを見下ろす林のにらみ合いは数秒続いたが。

 林は黙って、ふさいでいた入り口から体をどかして剛が由岐人を連れて行くことを了承したのだった。













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