■15■
「いいからっ」 風呂から上がり、傷の手当てをする段階で由岐人は今更ながらに剛に裸を見られるのを嫌がって、その手から包帯を奪おうとしている。 「あのなぁ!背中の傷自分じゃできねーだろ。おとなしくさっさと服脱げ!!」 傷に触るからあまり動かしたくないのに、どうにもその剛の思いは届いていないらしい。いつまでもごねる由岐人に剛は苛立たしげに声を荒げる。 「どうしても嫌っていうんなら、奴にしてもらうか?」 最後の手段と咲斗の名前をにおわすと、由岐人はその動きを止めて剛を睨みつけてくる。悔しそうに唇を噛み締めて睨みあげているのだが、剛はまったく意にかえしていないらしい。 小さく苦笑をもらして、その仕草で先を促した。 「――――卑怯者っ」 小さく由岐人はののしって、与えられたTシャツを脱いだ。 そのTシャツも当然剛の物なので、サイズが少し大きい。 上半身を裸にして背を向ける由岐人の背後に、剛も腰をおとした。 ちょうど今くらいの時間、由岐人は意識なくここに運ばれた。 当然傷口はまだ痛々しく腫れていた。 「消毒するからな」 たぶんシミるだろうからと声をかけると、由岐人の背中が少し強張った。 「―――っつ」 脱脂綿が触れると、途端に由岐人の背中がビクリと反応する。それでも、止めてやるわけにもいかない。剛はできるだけ丁寧にそっと、傷口ひとつひとつ消毒して、傷にこすれないように注意深く包帯を巻きつけていった。 「大丈夫か?」 随分時間をかけてやり終えて、剛がそっと声をかける。 「下手くそっ」 痛かったからなのか、恥ずかしかったからなのか、由岐人が頬を少し染めて悪態をつく。 そんな言葉は今日1日ですっかり慣れっこになってしまった剛は、逆にそんな事が言えるうちは大丈夫だなと安心してしまう。 「じゃぁーもう寝ろ」 まだ傷が痛むのか、今日はベッドから起き上がることも歩き回ることも出来なかった。 当然仕事にも出ていない。 元々今日は休むと連絡しておいたけれど、明日はそうもいかない。さすがに咲斗から電話が入るかもしれない。 どう言い訳したものか。 そんな事に思いを巡らして、それはそれで気の重いと由岐人は思わずため息を漏らした。 「由岐人。何考えてんのかしらねーけど、とにかく今は寝ろ」 今日1日ベッドから起きることもままならず、疲れなのか精神的な打撃の所為なのか、目覚めている時間すらすくなかった由岐人。 剛はとにかく心配で仕方がなかった。はやく元気になって欲しい。そのためにもゆっくり寝てもらおうと、剛は壁際の電気のスイッチを切る。 部屋が暗闇に覆われた、その瞬間。 「剛っ」 小さいけれど鋭い声を聞いて、剛は慌ててベッドサイドに近寄る。 「どうした?由岐――――っ」 ぎゅっと、強く肩を掴まれ、爪が食い込む。 「電気、・・・・・・真っ暗にしないで」 肩に食い込む爪の痛さよりも、震えている方がずっと気になる。その言葉にも。 「わかった。ちょっと待ってろ」 剛は安心させるように頭をポンポンと撫でて、慌てて電気をつけた。途端にまぶしいくらいの明るさに戻る。 その中で見る、明らかにホッとした由岐人の顔。 「―――暗闇が恐いなんて、子供だな」 笑うしかできなかった。 冗談にするしか。 聞きたい事は山ほどある。 由岐人の抱える何かを一瞬垣間見た気がする。 それでも、今は聞けなかった。 きっと答えないと分かっていたから。 きっと聞かれたくないだろうと思うから。 「うるさいっ」 由岐人の顔が機嫌の悪いものになって、バスっと布団に包まれる。 そんな態度にホッとしている自分に剛は苦笑を漏らしてしまうけれど、今はそれでいいと思う。 剛は久しぶりにサイドランプのスイッチを入れて、ほのかに明るい部屋にしてから、出て行った。 眠るまで側にいてやりたいけれど、きっとそれも嫌がるだろうから。 次の日の朝、由岐人はなんとか自分で部屋から出て来た。歩くときに背中の傷に響くのか、顔をしかめているけれど、今日はなんとか剛の手を借りないでもトイレまでは自分で行けそうだった。 「昼、ラーメンでいいか?」 剛は手早く野菜を切り分けながら、おなかが減ったと騒ぐ由岐人に言葉を投げる。 「インスタント?」 「ああ」 「出前がいい」 「あのなぁー、腹減ってるんだろ?出前なんて30分以上かかるだろうが。ラーメンの方が早いって」 「インスタントなんて、・・・・・・最後に食べたのいつだろ?」 世話になっている身分も棚に上げて、由岐人は優雅に新聞を広げながら、遠い記憶を手繰り寄せる。その嫌味な優雅な仕草に、剛は思わずイーっと歯を出して由岐人に向けてからラーメンを作り出した。 それから15分ちょっと。 鮮やかな剛の手さばきで、たくさんの野菜の乗ったラーメンに、じゃこと鰹節の聞いた焼き飯が出来上がった。 「あ・・・おいしそう。意外に」 「意外は余計だろ!ったく」 昨日からあまり食事をしていなかった2人は、いただきますの挨拶もそこそこに目の前のご飯に箸を伸ばし、会話もないままに無言で食べた。 話がしたくなかったわけじゃない。 一口食べると、自分がいかに空腹だったかを知らされて、無言でがっついてしまっただけだ。そして、その二品は作るのにもさして時間はかからなかったが、平らげるのにはもっと時間がかからなかった。 「あーうまかった」 一気に平らげて、剛が満足げに顔を上げる。 「うん、悪くはないね」 相変わらずの口調だが、由岐人の皿も綺麗に完食されている。 「お粗末様で」 嫌味のように剛がいうと。 「ほんとにねぇ」 と、由岐人の返事が返ってくる。 ココまで来ると慣れたもので、そんな応酬に怒ることもなく、くすくすと笑いが洩れて。珍しく殊勝にも洗い物くらいはすると言い出す由岐人に、怪我人は頼むから静かに座るなり寝るなりしてくれと剛が頼んだ。 その言葉に渋々諦めながらも、寝るのには飽きたらしい由岐人がソファにだらりと寝転んでテレビを見るともなしにつけていると、洗い物を終えた剛が今度はコーヒーを手に由岐人の寝るソファ横、床に座り込んだ。 「コーヒー、こっちに乗せとくぜ」 「ああ、ありがと」 ソファに由岐人が寝転び、そのソファを背もたれにして剛が座り2人してテレビをぼうっと眺めて、どれくらいの時間が過ぎたのか。 丁度CMに入ったのをきっかけに剛が口を開いた。 「由岐人んとこってさ」 「ん?」 「そんなに金ないんだったら、新規出店なんてしない方がいいんじゃないか?」 軽い口調で、何かのついでみたいに剛は言った。内心はかなりタイミングを見計らって口を開いたのだが。 そんな剛の心を知ってか知らずか、由岐人は器用に方眉をあげる。 「ん〜そこまでじゃないけど、予想していた金額よりちょっと上回ったからね。それに、あの場所が良い所だったからさ」 「ふーん・・・でも銀行とかから借りるんだろ?」 「もちろんそのつもりだけど・・・」 由岐人の歯切れが悪くなる。 「ん?」 「今年っていうのは他にもね」 「え?」 「ん〜・・・内緒の話なんだけど。――――今年は8000万の使途不明金が出ちゃうからさ。新店準備にでも入って適当に金額に上乗せして誤魔化さないと、色々まずいから・・・」 「8000万!?」 突然でた大きな金額に、剛が思わず由岐人を振り返った。そこには、物凄く言いにくそうな顔をした由岐人がいて、剛の視線に渋々口を開く。 「・・・・・・響をお義父さんから買ったお金」 「あ・・・・・・って、8000万だったわけ!?あんのクソ親父!!」 剛が、いきなり吐き捨てるように言った。 「剛知ってるんだ?響のお義父さん」 「チラっとな。なぁーんか、中年!!っていうか、中間管理職!!って感じの脂ぎった親父だぜ。まぁ、響には悪いけどさ」 その姿を思い出したのか、剛は思いっきり嫌そうに顔をしかめる。その見た目以上に色々聞いている事がある分、剛は心底響の義父を嫌っていた。 「ふーん、そうなんだ」 「あの親父に・・・・・・8000万かぁ〜。・・・・・・8000万。ちょっとデカイ額だよな」 「そうなんだよね。それが手元にあったら余裕もあるんだけど。ないのに、あるように誤魔化さなきゃいけない部分もあるし、ちょっとややこしいんだよね」 由岐人はため息混じりに呟いた。 もちろん咲斗が響を買うといったとき、反対なんてしなかった。反対できるとも思っていなかったけれど、それは今でも後悔していないし責めるつもりもない。 ただ、目の前のチャンスも惜しいだけ。 だからなんとかしたかっただけ。 それがバカな事だったことは、十分反省しているけれど・・・ 2人の間に、再び沈黙が訪れたその時、剛の部屋に来訪を告げるチャイムの音が鳴った。 「誰だろ?」 剛は手に持っていたコーヒーカップをテーブルに乗せて、玄関へと向かう。その背中を、緊張に強張った由岐人の視線が向けられる。 ―――――まさか・・・・・・ 林が来たのではないかと、最悪のことを考えて由岐人の体は強張る。あのまま諦めるような男だろうかと、それだけが由岐人を不安にさせていたから。 「・・・よう、なんだよ、あんたか」 けれど、玄関までは見えないけれど、聞こえてくる剛の声が林に対するようなものよりもぐっと砕けた口調なので、由岐人はホッと肩の力を抜いた。 とりあえず林ではないようだ。けれど、それならば誰だろうか? もしかして、剛の友人だったら自分がこんな格好でここに寝そべっているのはまずいのではないだろうかと、由岐人は体を起して玄関の方を見つめると、現れた人物に、違う意味で体を強張らせた。 「・・・・・・・・・咲斗」 もしかしたら電話はあるかもしれないと思っていたけれど、いきなりここで会う事になるとは思わなかった。 由岐人の背中を嫌な汗が流れ落ちる。 どう言い訳したものかと、さすがの由岐人も瞳をさまよわせると。 「由岐人。寝てなくて大丈夫なのか!?」 咲斗の口から出た言葉に、由岐人は思わず後ろを歩く剛に向けられた。 ―――――言わないでってあれほど頼んだのに。 剛は話してしまったのだろうか・・・? そう思うだけで、急激に自分が乾いていくような錯覚に囚われる。 「由岐人さん。これ、お見舞いのケーキ。食べるよね?」 剛の後ろからは、響が四角い箱を抱えて笑っている。 「由岐人?大丈夫なのか?」 呆然として言葉を返さない由岐人に、咲斗は心配そうに眉を寄せて、そっと肩に触れる。 「あ・・・・・・うん」 ―――――どうしよう。どうしたらいいんだろう。 由岐人にしては、本当に珍しく大パニックに陥っていた。剛は一体何をどう言っているのか、由岐人には検討も付かない。 けれど、もし咲斗が本当の事を知っていればこんな風に穏やかには話すはずがない。だからこそ、どう言っていいのか由岐人にはわからないのだ。 何か言わなければと、内心焦れば焦るほどに言葉はうまく出てこない。 そこへ、ケーキを皿に乗せた響がやってきた。 「でも、由岐人さんも意外にドンくさいんだね」 「・・・・・・どん臭い?」 「だって、酔っ払って剛のトコに来ちゃって、その途中で階段から落ちて背中と腰を強打して動けなくなったなんて、普段の由岐人さんからは想像も出来ないもん」 「・・・・・・・・・・・・」 ―――――おいっ!! 由岐人は口には出せない思いを乗せて、思いっきり剛を睨みつけた。 誤魔化すにしたって他にもっといい様があるだろうがっ。言い返せないと思って適当なこと言いやがってっ。 ホッとした思いが、その反動か一気に怒りに向けられる。 「そ、いきなり電話で"助けて〜"って言われた時は何事かと思ったぜ」 「言ってない!!――――ってて」 あまりにむかついて思わず怒鳴り返すと、背中の傷に響いて由岐人は思わず顔をしかめる。 「「大丈夫か?」」 剛と咲斗の声が重なり合った。 「へーき。・・・もう、そんな顔しないでよ。本当に大丈夫なんだから」 一気に心配そうな顔になった3人に見つめられて、由岐人は思わず耳を朱に染めた。こんなこそばい空気に慣れていない。 「それより、ケーキ食べよう。昼はインスタントのラーメンだったし、おいしいケーキで口直ししなきゃ」 「おい」 不遜な由岐人の言葉に、剛はとりあえず突っ込みを入れつつ今度は紅茶を4つテーブルに乗せた。 「由岐人サンどれがいい?これが渋皮モンブラン、これがカシスのムース。下がレアチーズなんだって。こっちが洋ナシのタルトで、それが桃のコンポート」 綺麗に作られているケーキを並べて、響がうれしそうに説明していく。 「ん〜・・・洋ナシ」 「じゃぁこれね。あ、でも後で一口頂戴ね。そのために4種類買って来たんだから」 「はいはい」 「剛は?」 「モンブラン」 「はーい、咲斗さん、俺、桃がいい」 「いいよ。カシスも半分あげる」 響の物言いに、咲斗は思わず笑みがこぼれて優しく言う。そのまなざしが、あまりに甘かったことに、見つめられている響だけが気づかないで、嬉しそうに桃のコンポートを見つめている。 「ほんと!?やたっ!!」 それよりも、元々咲斗はそんなに甘い物は食べる方ではないので、響はそれも計算のうちだったのだろう、うまく運んだ事に上機嫌である。 響はうれしそうに桃を一切れ口に運ぶ。 すると口のなかに、桃の甘い味と、香りが広がって思わず笑顔になってしまう。下に敷かれた桃のムースも口の中でふわっと溶けていく。 そんな幸せそうな響の顔をじっと眺めていた剛が、思いついたように口を開いた。 「なぁ、響って返品できねーの?」 |