16

 唐突に発せられたこの言葉に、うれしそうに桃をほお張っていた響のみならず由岐人も思わずむせてしまい、咲斗にいたっては反応も返せず絶句してしまった。
「ちょっと、何言い出すの!?」
 当事者よりも素早く立ち直ったらしい由岐人の方が、慌てたように口を出した。
「いや、さっき新店オープンにはお金足らないって言ってたし、響の8000万もややこしいんだったら、返品して金返してもらえばいいんじゃないかなぁっと」
「え?新店オープンって何の話?」
 その話を唯一知らない響が、次に復活したのか口を挟んだ。
「いやな、俺もさっき聞いたんだけど、由岐人たち新しい店を出す予定らしいんだけど、金足りなくて困ってるんだって。だからさ、響が返品されたら、響に支払った8000万返って来るんじゃないかなぁと。そしたらちょっとは足しになるだろうしなぁ」
 そのあけすけのない言い方に、咲斗のこめかみには今にも切れてしまいそうな青筋がビシッと走ったのだが、当の響はあまり気にしていないらしい。
 そればかりか、なるほどと、頷いている。そしてそれよりも、自分だけがその話を何も知らないことのほうが不満らしい。
「咲斗さん、お金に困ってたんだ?しかも、新店なんて話全然知らないし・・・」
 拗ねた様なもの言いをして、咲斗をじとっと見つめた。なんだか自分だけがのけ者にされたようでおもしろくない。
「いや・・・別にお金に困ってるわけじゃないよ。ただ、新店をオープンするとなったら、お金はそれは1円でも多いに越した事はないし。その・・・新店の計画自体まだ決まってなかったら、話してなかっただけだよ。もちろん決まればちゃんと話すつもりだったし」
 咲斗は、剛には物凄く頭にきているが、それよりも響の機嫌の方が数倍大切らしく、慌てたように必死で言葉を募る。
「ふーん」 
 それでもまだ納得できないのか、響の顔は若干不満げだ。
「きょ、響?あ・・・はいカシス食べる?おいしいよ?」
 とりあえず食べ物でご機嫌を取ろうとしている咲斗の態度は、しおらしいような情けない様な。
「結構良い考えだと思うんだよなぁ。まぁ、確かにもう傷ものだし全額返金は無理でも、半分くらいでもさぁー」
「傷物!?」
 多少というかかなりというか、不用意だった剛のその言葉に溜めていた怒りが爆発したのか、咲斗は言葉と同時にその手を伸ばして剛の胸倉を掴み上げた。
「口に効き方には気をつけるよ」
 響に対するものとはガラリと口調を変えて、冷たくすごんだ声が響く。
「あっ、いや・・・はい。言葉が悪かったです。その、期間もだいぶ過ぎたし・・・・・・」
 その咲斗の目つきに、さすがの剛も冷や汗を流して首をぶんぶんと横に振った。
「それと、俺は響を手離す気はない!!」
 唾が飛ぶほどの至近距離から、咲斗は剛を怒鳴りつけた。その迫力に、剛は次の言葉を飲み込んだのだが、その2人の間に響のまったりとした声が響いた。
「うーん・・・でも、良い考えかも」
「「え!?」」
 今度は思わず、咲斗と由岐人の声が重なった。
「だって、あの人にそんな大金が入ったのってなんかむかつくし。咲斗さんが一生懸命働いて溜めたお金でしょ?それをあの人が遊ぶお金にするんだとしたら、凄く嫌だ」
「でも、もう使っちゃってるかもしれないし」
「8000万も?絶対まだ残ってるよー」
「それ、調べてからでも遅くなくない?俺、ツテあるから調べてみるけど」
「絶対反対!!」
「咲斗さん」
「そんな事出来るわけないっ」
「なんで?」
「なんでってっ――――なんでって・・・・・・」
 間髪入れずに聞き返された問いに、咲斗は思わず言葉を続けずにどもってしまう。
「俺だって置いてきた荷物とか取りに戻りたいし。貯金だってちょっとくらいはあるし。そうだよ、お金戻ってきて、改めてあそこ出れば済む話じゃん。俺はまだ未成年だけど、でも問題はないと思う」
「いや、そうじゃない、そうじゃなくて・・・・・・」
 咲斗は、一人納得していっている響になんと言葉をかけて思い留めさせたらいいのか言葉に迷う。言いたいけれど言えない、それは咲斗と由岐人しか知らない事があるから。
「えーいいじゃん。響だってこう言ってるんだし」
「うるさいっ。お前は黙ってろ!!」
「咲斗さん、何の心配してるのかわからないけど、それが1番良い方法じゃないの?」
「なぁー」
 この気楽な相づちの声にとうとう咲斗の限界を超えたのか。響には怒鳴れない鬱憤を晴らすためなのか。
「お前、ちょっと来い!!」
 咲斗は剛を大声で怒鳴りつけて、胸倉を掴んだ手をそのままにずるずると剛を引っ張り玄関の外へと放り出した。
「なっ、何?」
 まさかこう出てくるとは思っていなかった剛は、急展開に思わず顔を引きつらせる。4人でいるならまだしも、2人っきりでこの怒りまくっている咲斗の相手はしたくない。
「余計な事は言うな」
「余計って何?」
 けれど、剛は剛で必死だった。由岐人は反省しているとはいえ、同じようなことを繰り返さないとは言い切れない。そのためには金をなんとかしかった。
 だからといってもちろん響を犠牲にするつもりもない。ただ、勝算のある方に賭けたいだけだ。
 その剛の視線と、にらみ返す咲斗の視線が火花を散らし合う数秒間。
 ふと、顔色を変えて視線をそらしたのは、意外にも咲斗の方だった。
「・・・・・・・・・由岐人の事は礼を言う。世話になった」
「は?・・・何、いきなり改まって。別に、そこの階段を落ちたから、仕方ないからなぁ」
 いきなり変わった話題に、剛は慌てたように乾いた笑いを廊下に響かせる。
「昨日、俺のところにうちの2号店の店長が来て、由岐人と林が接触したことを報告に来た」
「・・・・・・っ・・・」
「由岐人は、林と何かあったんだろな。・・・・・・・・・お前が助けてくれたんだろ?じゃなかったら、今日あんなに元気になっているわけがない。その事では、本当に礼を言う」
 咲斗はそこまで言うと、深々と剛に頭を下げた。
「おいっ、止めろよ!止めろって!!」 
 剛は慌てて咲斗の頭を上げさせる。けれど。
 咲斗は拓人に話を聞かされた時は、一瞬心臓が止まるかと思ったのだ。そして慌ててかけた由岐人の携帯電話は全然繋がらなくて。
 やっと繋がったと思ったら出てきたのは剛で、しゃべりだすうそ臭い言い訳に、それでもとにかく無事なんだと思えてホッとした。
 本当に、うそ臭い言い訳に、どれだけホッとして、そして救われた想いになったことか。
「なぁっって!もう、頭上げてくれよ。俺はなんもしてねーし、しらねーの。あいつは酔っ払って階段から落ちただけ」
「――――そうだな」
 どこまでもそういい切ろうとする剛の優しさに、咲斗はホッと息を吐いた。響の事を抜きに考えれば、剛のような真っ直ぐな男は、本当は嫌いではなかった。
「それでも、礼を言うよ」
 咲斗の穏やかな顔に剛は、見つめて。
「なぁ・・・・・・あんたらってさ」
 ―――――何があるの?
 そう続けたい言葉は、咲斗のその瞳の強さに、剛の口からは発せられる事無く飲み込まれた。
 瞬時に変わったその顔つきに、今はまだ聞けないらしいと察して、仕方ないとため息混じりに違う言葉を口にした。
「じゃぁなんで響の事はダメなんだよ」
「・・・・・・・・・」
「由岐人は犠牲にできても、響はダメなん?」
 わざと怒るような言い方をしても、咲斗は乗ってはこなかった。ただ、黙って剛にキツイい視線を向ける。
「金が必要なんだろ?」
 再び投げかけた言葉にも、咲斗の視線は揺るがなかった。
 さすがの剛も仕方がないと大きく肩をすくめて、この話はそこで終わったものと思っていた数日後。

 意外な人物によって蒸す返された。

 由岐人が普通に仕事にも出てくるようになったある日、上条が土地の返事を聞きに店に現れた。
 が、それよりも先にと切り出した話に、咲斗と由岐人は思わず声をあげた。
「冗談だろ?」
「いや、冗談じゃない。あの子の義父がいきなりやってきて、8000万返すからあの子を返せって」
 由岐人が思わず咲斗の顔を見る。
 あまりにもタイミングが良すぎる話だ。由岐人の脳裏には、はっきりと剛の顔が浮かぶ。まさか何かしかけたんじゃないだろうかと嫌な思いも沸き上がって来る。
 それは咲斗も同様だった。
「・・・それで?」
「いや、一応話をしておいてからと思ったんだが」
「返すつもりはない」
「だろうなぁ・・・それはわかってる。けれども、なんで今ごろなのか、だ」
 もともとこういう話は上条の管轄外の話である。何を勘違いしたのか義父が話を持ち込んで、咲斗が引き取りたいと言い出したから不承不承に間を取り持っただけだ。
 人身売買に手を出したのは、後にも先にもこの1回きり。面倒は困ると、その顔が雄弁に語っていた。
「それはこっちに心当たりがある。その件で迷惑はかけない」
 きっぱりと言い切った咲斗の横顔に目をやった由岐人は、咲斗も自分と同じ思いなのかと思いため息をついた。
 波風を立てるんじゃないと、心の中で剛に言っても仕方が無い。今更ながらに剛に愚痴ってしまった自分に後悔するが、それももう遅い。
 咲斗は、結局土地を買う事に決心をつけて必要な金を小切手で上条に支払った。

 では早速手配しようと、上条が帰ってからの開口一番。

「由岐人、あいつを呼び出せ」
 心底冷えた声で、咲斗が由岐人に言った。
「・・・ここに?」
「ああ」
 咲斗の体からは怒気がオーラのように放たれている。今ここに剛が現れたら、目の前でどんなことが行われるかは火を見るより明らかだった。
「ねぇ、この件は僕に任せてよ」
「はぁ!?」
「とりあえず、ちゃんと話してくるから。――――今の咲斗、恐すぎ。剛の顔みたら話も聞かずに殴りかかりそうだもん」
 思いつめた空気に、由岐人はわざと軽く口にする。
 けれど、お互い瞳の色だけは、真剣で。咲斗のキツイ視線に、由岐人は真っ直ぐに見据え返した。
 そのにらみ合いが数秒。
「――――わかった」
 咲斗が、重い口を開いて頷いた。
 剛には実際に恩がある。それを剛が認めないとしても。そしてそのことでは由岐人も思うところがあるのだろうと、咲斗は不承不承ながらも了解したのだった。

 次の日の昼、由岐人は早速剛に電話したが繋がらなかった。そこで響に、剛の家に忘れ物をしたから連絡を取りたいのに繋がらないと言うと、たぶん大学だろうという返事が返って来て。
 仕方なく由岐人は、大学へと車を走らせた。
 大学に近づくにつれ、なんだか自分には縁遠かった学生たちの群れが目に付くようになる。
 自分があれくらいの年齢だった時、由岐人は学校へなど行ける状況ではなかった。狭い部屋で閉じこもって大学なんて場所はあまりにも遠い世界だったから、今こうやって目にしても、なんだか眩しい様な、それでいて苦々しい思いがどうしてもこみ上げる。
 もう決着がついた想いだと思っていたのに、どうやらそうでもなかったらしいとため息をつきながら、由岐人はそれでも車を進めてた。
 ―――――あ・・・
 唐突に、向こうから歩いてくる剛が目に入った。その横を、同じ学生だろう、今時の格好をした綺麗な女が一緒だった。
 午後の日差しの中楽しそうに笑い合って歩く学生らしい姿は、まったく自分とは違う世界に住んでいることをはっきりと示してきた。
 ドアを開けて、声をかけなければと思うのに。その光景が眩しくて、なんだか躊躇われている自分に由岐人は苦笑を漏らす。

 ―――――恋なんてしない。

 そう思ってるのに。
 誓った事なのに。
 気になる。
 気になって、ふと考えてたりする。
 恋になんてなるはずがないのに。
 女が好きだって知ってる。
 巨乳が好きだって知ってる。
 しおらしい女が好きだって知ってる。
 全部自分には無いことも、知ってる。
 だから、恋になんてならない。
 そもそも、誰かを好きになんかなる資格がないのに。
 由岐人はわけもなく込み上げる想いに唇を噛んだ。
 借りは返さないといけないと、自分が会って話すなんて言ってしまった事を後悔して、由岐人は俯いて大きくため息をついた。
 心臓が、跳ねている。
 こんな些細な事に緊張している自分に驚いてしまう。
 そして自分で思ってたよりずっと重症だったのだと認識してしまった。
 剛のマンションで過ごした数日が、少し優しすぎたから。
 優しすぎて。
 ここにきて、物凄く気が重くなっているけれど、それでもドアを開けて声をかけないわけにはいかないと、もう1度大きく息を吐いて扉に手をかけた時だった。
 ドンドン!!
 いきなり窓を大きく叩かれて、ビクっと大きく身体が震えて顔をあげた。
「あ・・・っ・・・・」
 由岐人は慌ててドアを開けた。
「どうした?気分でも悪いんかっ?」
「え?」
「えっ、て。こんなとこに車止めて、覗いてみたら俯いてるし。どうした?」
 剛は目線の先に見覚えのある車が止まっているのに気が付いて、もしかしてと横の女の話も上の空でそちらに視線を投げていると、近づくにつれて見えてきた車内。
 はっきり見知った男が俯いて、なんだかぐったりしているように見えて慌てて駆け寄ってきたのだ。
「あ・・ううん。そうじゃないよ。ちょっと話しがあってね。待ってただけ。電話しても出ないし」
 いきなりの事に、上手く言葉が繋がっていかなかった。
「あ〜わりぃ、携帯家に忘れてきちゃってさ」
「意味ない」
 いつもの様にしなくっちゃ。そう思って続けるそっけない言葉。
「ん〜だよ、その言い方」
「とにかく、乗ってくれる。悪いけど」
 まだ後ろでこちらを見ている女に目線をやる。
 そんなことで、少し優越感に浸っているらしい自分の感情に由岐人はもうどうしていいのかもわからない。
「ああ。細川、じゃぁここで。また明日なー」
 剛は振り返って連れていた女、細川に笑顔で手を振った。当然女は突然の出来事に、顔色を少し変えて怒っているようにも見える足取りで立ち去っていった。
「良かったの?」
「ああ、別にいいだろ」
 雰囲気からみて彼女ではないようだけれど、どうやら剛には下心もないようだと何故か安心している自分に、もう苦笑すら出てこない。
「そんなことより、運転なんてして大丈夫なんか?」
「もう、平気だよ。仕事もしてるし」
「えっ――もうちょっと休めよなぁ。由岐人こき使われてんじゃねーの、奴に」
「そんな事ないよ。十分休んだ」
「ふーん・・・・・・・・・・なぁ、あいつ、来てねー?」
 さっきの軽口とは打って変わった声で、小さく聞いてくる。
 本当に心配している時の声。そんなことももう知ってる。
「うん」
「そっか。もし来ても、もう絶対会うなよ!」
「わかってるよ」
「・・・・それと、ちゃんと消毒してるか?」
 剛が最後に傷を消毒した日だって、まだ傷跡はあった。だから、ちゃんとしているのだろうかと、剛は心配でしかたがないのだが、由岐人は笑って。
「大丈夫。それより早く乗って」
 ―――――ばかだな。優しすぎるんだよ。
「ああ・・・俺、運転しようか?」
「いーよ。人に運転されるの嫌なの」
 ―――――泣きそうになるじゃん。

 恋になんてならないのに。











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