■17■
午後は特に予定が無いという剛に、由岐人は適当に車を走らせた。久しぶりのドライブは、いつの間にか秋の訪れを告げる風が吹きぬけて、心地よかった。 「で?今日はどうしたんだよ」 由岐人の横顔を見つめて、剛は尋ねた。 「響の事」 由岐人はため息混じりに告げた。それで全てがわかるだろうと。 「響?どうかしたか?」 「それはこっちのセリフ。なんかしたでしょ?」 「なんかって・・・なんもしてねーよ」 「正直に言いなさい」 しらばっくれる剛に、しょうがないと思わず笑いを含んだ瞳で由岐人が睨む。 「正直に言ってる」 けれど、剛は心底わからないキョトンとした顔を首を振った。 「本気?」 それでも疑わしくて、尋ねる語尾も上がってしまう。 「本気」 けれど、剛の返事は変わらない。それに、由岐人が不審気に顔を曇らした。 「・・・・・・」 「何?一体何があったんだよ!」 「・・・・・・ホントになにもしてないの?」 「だから何をするんだよ!」 わけのわからない嫌疑に、剛はいらだった声を上げる。 「響のお義父さんに会ったり、連絡とったりは?」 「してねーよ。なんで俺がそんな事しなきゃいけねーんだよ」 「ほんとに?」 ばかばかしいと吐き出される言葉に思わず由岐人は剛の顔をまじまじと見つめてしまう。 「前向け!前!ったくあぶねーな。さっきから一体なんなんだよ」 さっぱり話の見えない剛はぶーたれた顔になっている。その顔に、本当に剛は何もしていないらしいと、由岐人の顔が一掃曇った。 「お義父さんから連絡あって、向こうからお金返すから響を返せって言ってきたんだ。てっきり剛がなんかしたんだと思ってたんだけど」 「え!?まじっ!?・・・・・・・・・いや、俺は何もしてねー」 由岐人の言葉が、かなり意外だったのか、それ以上続ける言葉もなく剛も絶句している。 「じゃぁ・・・一体誰が」 東京湾が見えるところまで車を走らせて、由岐人が静かに車を止めた。外に出ると、気持ちのいい秋の潮風が吹き抜ける。 「それよりさ、なんかこれってドライブデートって感じじゃねえ?」 由岐人に続いて車を降りた剛が、なんだかにやけた顔で由岐人に言う。 「はぁ!?何言ってるんだか。もう夏は終わったのに、まだ頭沸いてるの?」 「ひでー」 「こんなにただの暇つぶし」 「ちぇー。そこは嘘でも、そうだねって言えよなぁ」 「客だったらね」 由岐人はニコリともしないで言葉を返して、ボンネットにもたれて立った。その横に剛は並んで立つ。肩が触れるか触れないかのギリギリの距離。 「夕日とか夜景とかきれいだろうなぁ」 今はまだ快晴の空が広がっているけれど。 「・・・そうだね」 剛の言葉に、由岐人はしみじみと言葉を返す。 由岐人は夜景よりも、夕日を見るのが好き。真っ赤に燃える太陽が沈んでいく、飲み込まれていくその姿が好きだったからだ。 あんなふうに、いつか沈んで終わってしまえたらどれだけいいだろうと思うから。 その姿に、思わず自分の思いを重ねてしまう。 「ところでさ」 「ん?」 「さっきの話だけど」 「さっき?」 由岐人が傍らに立つ剛にチラリと視線を投げる。 「響の話」 「ああ」 そうだった。その話をするために今日は来たんだった。なんだか、そんな事どうでもよくなっている自分に、由岐人は呆れるしかない。 「もしかして、―――もしかしてだけどな」 「うん?」 「・・・本人じゃねぇ?」 「本人?」 「だから、響本人が家に電話したんじゃないかって」 「――――まさか!?」 由岐人は思わず声を上げて、ありえないと首を横に振った。 響は、あの家で義父から虐待を受けていたのは間違いのない事実。響が大人になるにつれ、それは無視へと変わり、響があの家の中で孤独に育ったこともわかっている。 それは、剛も由岐人も知っている事実だ。 だからこそ、その家に、響自らが電話をかけるなんて万が一にも考えられない。 由岐人は信じられないと瞳を見開いて剛を見上げて。見つめられる剛の顔にも迷いは見られるけれど、二人の脳裏の同じ思いがよぎる。 ―――――もしかしたら・・・と。 そしてその予感ははっきりと当っていた。 「今・・・なんて言った?」 咲斗は、久々に一緒に取った夕飯の後に、紅茶を入れようとキッチンへ向かっていく途中、思わず後ろに座る響を振り返った。 「だから・・・俺が自分で実家に電話したの」 響は咲斗の方へは顔を向けず、正面を見据えたままはっきりとその事を口にした。 「・・・・・・・・・なんて?」 咲斗の声は無様なくらいに震えている。 「帰りたいって」 「・・・・・・・・・なんで?」 「なんでって、8000万返して欲しいもん」 その返事に、咲斗は思わずカッとなって怒鳴り返した。 「8000万なんて、いらないっ!」 「俺が嫌だっ」 響も負けずときっぱりとその思いを口にした。 「なんで!!」 「だってっ!」 「だって?」 「それは、咲斗さんのお金だし。―――それに」 「それに?」 「なんか、買われたって言うのも嫌だ。お金が戻ってきて、そして俺が自分の意思で、ここに帰って来たい」 それは、咲斗を好きになってからずっと響の中にあった思い。負い目。 対等でいたいというわだかまり。 結局自分は買われた者で、いつまでもその線を越えられないような気がして嫌だった。 「・・・・・・」 その思いは、咲斗にも分かる。分かっていた。 「咲斗さん」 「だめ」 それでも。それが自分にとって保険であるという気持ちがあることも、咲斗にはわかっていたから、うんとは言ってあげれない。 「なんで!?」 縛るものがなくなって、それでも響は本当にずっと側にいてくれるのだろうか? それが咲斗の心の中にずっとあった不安。 自分の意思で来たいというなら、いつか自分の意思で出て行く事だってあるかもしれない。そう考えるだけで、想像するだけで、足元が壊れていく気がするから。 恐くて。『うん』とは、言えない。 「じゃぁ響は絶対大丈夫って言える?家に帰ったら、お義父さんは待ちうけているんだよ?その手を振り解いて、本当に出てこれるの?」 そんな思いは口に出来ないから、咲斗は代わりに違うところを理由づけにしている。 「みんながいる時間を見計らって帰る」 「それを逆手に取られるかも」 「咲斗さんっ!」 卑怯なことを言っていると自分でも十分認識していても、咲斗にはどうしようもなかった。 「そんなんじゃ、許せるはずないよ」 不安が心の中に染み込んで来るから。 「でも、俺は帰る」 「響!!」 きっぱりと言い切る響に、もう自分の声は届かないのだろうかと、咲斗は絶望的な思いに駆られる。 手離したくない。 たとえ一瞬たりとも側においていたい。 例え卑怯でもずるくても、響を縛っておけるのならなんでもしたい。それが出来ないなら―――― 「縛り付けてでも、いかせない」 「咲斗さんっ!――――どうして!?どうして!」 ―――――紅茶を作るのは止めにしよう。 咲斗は数歩進んだ足を反転させて響に近寄って、そのまま無言で響の身体を押し倒した。 「やめてっ。話はまだ済んでない」 「済んだよ」 「済んでないっ」 「行かせない」 そのまま響の抵抗をあしらって、見知った身体を簡単に組み敷いた。 上にのっかかれて、肩をぐっと床に押し付けられて、響は悔しそうな顔で咲斗を睨む。 「きょう・・・・」 ―――――そんな顔で俺を見ないで。 行かせたくないんだ。だから、本当は言いたくなかったけど、これは最終手段。 「お義父さんは、響を狙ってる」 ―――――えっ・・・・・・ 「・・・・・・っ」 「・・・知ってるの?」 顔を一瞬朱に染めて、目をそらした響の反応に咲斗は思わず声を上げた。 これは確定ではなかったけれど、色々調べた状況証拠から導き出した咲斗の結論でしかなかった。でも、その危険性があったからこそ、卒業式を終えた響をさらうようにしてここへ連れ込んだ。指一本触れさせたくなかったから。 それなのに、何故響はこんな反応を返すかわからない。 「響――――答えて」 もしかして――――そんな思いが浮かんで胸を掴んだ。 間に合わなかった? 何かされたの? 傷つけられたの? ・・・そうなの? 「・・・・・・ここに来る、1ヶ月くらい前に、いきなり部屋に入ってきて、押し倒された」 咲斗には目線を合わせず、響は少し青ざめた顔色で小さく呟くように告白した。 「っ!」 思わず飲み込んだ息が、喉でヒュッっと音をたてた。 目の奥がチカチカする。 今なんて言った? その告白に、響の肩を掴んでいた咲斗の腕に力が入る。 「痛っ」 「あ、ごめんっ。ごめん・・・痛かった?」 「へーき・・・」 無言で見下ろす響の顔が青ざめていて、苦しそうに眉根を寄せられている。どれくらいの間なのか、しばらくの沈黙の後に咲斗はどうしても気になる事を思い切って口にした。 「・・・それで?」 声が、無様なくらいに擦れている。 「・・・・・・吃驚したけど、俺のほうが腕力もあるし、なんとか跳ね除けて。きっぱりと拒絶した」 その言葉に、全身が強張っていた咲斗の体から力が抜けた。 良かった。 間に合ってた。 そんな思いに心底ホッとして、それでも。 「本当?」 尋ねずにはいられなかった。 だが、響は小さくはっきりと頷いた。 「それ以来、そういう事はなかったよ――――けど、一ヶ月だっていきなり、売られちゃった」 「そう」 「・・・安心した?――――信じる?」 そのとき初めて咲斗に向けられる響の、瞳が、自虐的に歪んでいて。その視線に見据えられて、こんなことを言わせてしまった後悔が咲斗の胸を突き刺した。 「・・・・・・ごめん」 咲斗は押し倒していた身体に腕を伸ばしてそのままきつく抱き締めた。 傷つけたかったわけじゃなかったのに。ただ、行って欲しくなくて、それだけだったのに、つらい、きっと話したくもない告白を無理矢理にさせてしまった。 傷つけてしまった。 「ごめん――――ただ・・・帰って欲しくなくて。恐くて・・・・・・ごめん」 咲斗は響の肩口に顔を埋めて、搾り出すような苦しげな声でもどかしい思いを伝えた。 「―――信じてくれるの?・・・・・・ひょっとしたら、ヤられちゃったかも、よ?」 響の声が震えている。それが、泣きそうだからなのか、不安だからなのか咲斗にはわからないけれど、答えは一つしかない。 「それでも、俺は響を愛してる」 咲斗は顔を上げて、響をまっすぐに見て、好きで好きでしかたがないって顔で静かに告げた。 「響が、お義父さんを殺して欲しいなら、殺してやる」 響が望むなら、何だってしてあげる。 「復讐したいなら、俺がするよ」 なんだって出来るよ。 「そんなのダメ」 咲斗さんが捕まっちゃう。と小さく呟いて笑った響の瞳から、一筋の涙が零れ落ちる。 「捕まるようなヘマはしないよ?」 その涙の跡を、咲斗が優しく舐めてキスをした。 「だめ。咲斗さんの手を、あんな人に汚されたくないもん」 「響」 「それより、こうやって一緒にいて」 ずっと一緒にいようと伸ばされる響の手に、咲斗は喜んで自分の手を絡めてもう一度響の身体を抱き締める。 大好きな響の香りが咲斗を包み込む。 ―――――帰ってきてくれるよね? そんな胸に湧き上がる不安は、響の腕と温もりにかき消されてしまった。 |