店内はカウンターと小さなテーブルが3つほど置かれただけの、そこは小さなお店だった。全体的に黒を基調としたかっこいい感じの室内は、表のを見ただけではその中を想像出来ないだろう。よく見ると椅子は高そうなもので、天井からぶら下がっているライトは、アンティーク風のステンドグラスで作られた上品な物だった。
 クラブなどとはまったく違う落ち着いた大人っぽい空間に、物珍しげに目線だけであたりを見回して、あのランプはいくらくらいするんだろうなんて考えてしまって思わず相手の言葉を聞き漏らしてしまった。
「え・・・?」
「だから、採用です。―――いつから来れる?」
 この店のマスターで経営者だという目の前の男は、履歴書に簡単に目を通しただけでそう言い放った。
 そのあまりの簡単さに、響は思わず不審気に目の前の男を見つめてしまう。バーテンにしてはしっかりとした身体つきで、髪も短め、染めてもいない。なんとなく、夜の街の雰囲気は薄い感じだというのが第一印象だったが、もしかしてやばい店だったのだろうか?
「おい」
 思わず呆然と見つめてしまっていたらしく、男は苛立たしげに声を上げた。
 ―――――やばっ
 ここで落とされたら、計画が水の泡だ。
「えっと、来週から」
 分かりもしないことを色々考えてもしかたがない。
「来週ということは、明々後日だな。じゃぁ7時に」
「はい」
「制服は貸すからいいとして、靴だけは黒いのを自分で用意してくれ。いいな?」
「はい」
「よし。時給は1000円スタート。勤務は翌3時まで。休憩は30分。基本的に土日休みだが、平日どうしてもの時は相談してくれ。以上。何か質問は?」
「いえ・・・」
「よろしい。では、月曜日に―――冬柴響くん」
「はいっ、よろしくお願いします」
 後はなるようにしかならないと腹を括って、響は笑顔で頭をさげ店を後にした。








 次の日、珍しく土曜日も仕事を休みにした咲斗と響はだらだらと昼過ぎまでベッドの上で過ごしていた。
 枕を背にあてて上体を起している咲斗の太股に、響は頭を乗せて咲斗を見上げる。
「咲斗さん、明日の日曜日の予定は?」
 気ままに咲斗に手を伸ばして、咲斗の髪を指に絡めて遊ぶ、そんな仕草を繰り返して。
「うーん、まだ秘密」
「・・・何それ?」
「ふふ、それよりほらチキンサンド。おいしいよ?」
 今日は久しぶりに咲斗がキッチンへ立って、響の好きなサンドイッチを作った。まぁ、朝方まで愛し合った所為で響には無理というのもあるのだが―――ガーリックと黒こしょうの効かせたチキンにキャベツをたっぷり挟んだ物と、スモークサーモンとクリームチーズにトマトを挟んだもの。それにコンソメスープ添えて、ベッド脇のサイドテーブルに乗せ。
 行儀悪くもベッドの上で寝転んで、響は咲斗に食べさせてもらっている。
「どう?」
「おいしいっ」
 口いっぱいにほお張りながら笑顔を浮かべると、口の端に着いたソースを咲斗の舌が舐め取って、うっとりとした視線を響に向ける。
 チキンサンドが口の中から胃に移動した頃、今度はサーモンサンドを口に入れてやると、また嬉しそうに口をもぐもぐさせて、その幸せ気分を言葉ではなく表情で語る。
 そんな全てが愛しくて、自分の分のサンドイッチも響に分け与えて目じりにキスを落とす咲斗は、もう響しか見えていないといえる。
 時折いたづらに、頬や胸元にキスを落としながら、たわいもない話をして。
 そんな甘すぎる午後のひと時を過ごしていた二人の空間に、邪魔なチャイムが鳴り響いた。
「誰だろ?」
 響が思わず首をかしげる。
「俺が行って来るよ」
 甘い時間が邪魔された事に響が微かに眉を寄せても、咲斗が不愉快そうにする事はなく、むしろ機嫌よく出て行った。その態度に再び響は首を傾げる。
 ―――――なんだろ・・・・・・
 どうやら来訪者は宅配業者だったらしく、急いで戻ってきた咲斗の手には四角い大きな箱が抱えられていた。それは、幅のわりに厚みの薄いもの。
「・・・何それ?」
「いいもの」
「いいもの?」
 不思議そうな響とは対照的に咲斗は箱をベッドの上に置いて、嬉々として包みを開けていく。よほどうれしいらしいのが、態度にもみてとれた。
「・・・・・・・・・浴衣・・・?」
 中から出てきたのは、濃いグレー地にベージュの規則正しく小さなドットが並びと、それよりも少し大きめのエンジ色のドットがランダムに配された、どちらかというとかわいらしい柄の浴衣だった。それに、キナリ色の帯がセットにされていた。

 『花火は見に行く人は決まってる』

 うれしそうに浴衣を広げる咲斗を目の前にして、響は楽しかった今までの時間が一瞬で色褪せて、膨らんだ心が奇妙にひしゃげていくのを感じた。
「どう?いい柄でしょ?」
 咲斗には少し子供っぽいようにも思えるけれど、相手がぐっと年上でそういうのが好みなのかもしれない。
 そう考えると、切なさと苦しさに、胸が締め付けられる。
「響?」
 ―――――誰と行くの?
 そう、聞けたらいいのに、子供が仕事に口を挟むようで、それはとても子供っぽすぎる行いの様に思えて、喉にひっかかって言葉は出てこない。
 そうやって稼いだお金で買われて、養われてる現実があるから。

 ―――――行かないでよ・・・・・・俺と、一緒に行こうよ・・・

 そんな風に、さらっと言える立場になりたい。
「どうしたの?これ、気に入らない?」
 似合うよ、って笑って言わなきゃいけないと思うのに、そんなに大人じゃない。大人になれない。そんな自分も凄く嫌になってしまうのに。
 こんなに、我侭じゃなかったはずなのに。
 咲斗に見合う男になりたいのに。
 まだまだ、心が追いつかなくて。
「俺・・・バイトするから」
 するりと、零れ落ちた言葉はなんの脈略もない言葉。
 けれど、響にとっては、宣言だった。
 大人になる。
 咲斗に近づくための。
 今思いつく、精一杯の事。
 それすらも、そんな事かと情けなくて涙が出そうになるけど。
「―――何、言ってるの?」
 咲斗は当然、わからないよ?と浴衣を置いて伏せた響の肩に手をかける。
「だから、俺バイトするから。もう決めてきたから」
 口早に言う言葉が、震えてしまう。
「ちょっと待って、そんな話聞いてないよ?」
 咲斗がにわかに焦ったような声で、なんとか響を宥めようとしているけれど、それすらも今の響には子供扱いされているようで癇に障ってつらくて。
「だから、今言ってるじゃん」
 それこそ、本当の子供みたいに言い返してしまった。
「―――それ、もう決めてきたとかじゃないよね?」
「決めてきた」
 その言葉に、響の肩を掴む咲斗の手に力が入って思わず爪を立ててしまう。甘かった瞳が、苛立ちの色に変わって。
「そんな事、許さないからね」
「っ、許さないって何だよ。―――俺は、咲斗さんの許可がないと何もできないの!?」
 響は伏せていた顔をパッと上げて咲斗にくってかかる。こんな事いうつもりじゃないと、こんな風に切り出すつもりでもなかったと思うのに、理性に気持ちがつていかなくて言葉だけが先行してまう。
「俺は自由にしちゃいけないのかよ!?」
「そんな事言ってないでしょ」
「だったらっ」
「でも、相談くらいしてくれてもいいんじゃない?―――― 一緒に住んでるのに、そんな大事な事、一人で決めちゃうんだ?」
 悲しそうな顔をして言う咲斗の言葉は、押し殺した苛立ちと憤りに震えていた。
「それは―――っ・・・」
「それに、なんでバイトなの?お金、足りなかったの?」
「っ!」
 思わず噛み締めた唇が、強くしすぎたらしい。響の口の中に鉄の味が広がって、あまりの情けなさに思わず涙が込み上げた。
「―――それとも、何か欲しいものでも―――」
「っ、お金の、問題じゃないっ」
「え―――・・」
「俺だって、自分の分くらい自分で稼ぐからっ。そりゃぁ、咲斗さんには比べ物にもならないくらいのお金しか稼げないかもしれないけどっ―――でも、俺だってちゃんと自分で稼いでやってける」
 何から何まで面倒見られなくたって、咲斗に買われなければ、義父に売られなければ、そのつもりだったんだから。たとえ貧乏でも。
 それが、男として響のプライド。
 対等でいたい、響の思い。
 けれど咲斗には、響の言葉は全然違う意味を持って聞こえた。
「自分で稼いで・・・・・・やってける・・・・・・?」
 ―――――なにそれ、出てくって事・・・・・・?
「そうだよ。俺だってちゃんと自分で――――」
「そんなの、許さない!―――絶対ダメだ!!」
 思いのほか強い口調言い返して、咲斗は響をベッドに押さえつけた。
「咲斗さん!?」
「どこへもやらないからっ!なんで――――、なんでだよっ!!」
 握り締めた肩に、力が入りすぎてその痛みに響が顔を歪めた―――――その時、咲斗の携帯から着信を告げる電信音が鳴った。
「っ!」
「・・・出なくていいの?」
 咲斗はしばらく逡巡した後、いまいましげに携帯を手に取った。
「はい。こんにちは、ええ大丈夫ですよ――――先日お待ちしてましたのに、いらしてくださらなかったんですね?」
 響の身体を押さえたままでも、咲斗の口調は完全に仕事モードになっていた。冷静にちゃんと話している。
 そんな姿を見て、響の気持ちもスーッと冷えていくのを感じた。
 喧嘩していても、電話に出た咲斗。
 もちろん仕事なのだから仕方ないとはいえ、その口調からはたった今までの事は完全にシャットアウトされていて。

   その程度

 そんな風に思われて。
 どうしようも出来ない、子供っぽい思いだとわかっているのに拭い去れない。
 寝室を出て行く咲斗の背中を響はやるせない気持ちで見送る。
「えっ―――明日ですか?」
 明日は、東京内でも有名な大きな花火大会のある日。
 ―――――だから、聞いたのに・・・・
 咲斗は思わず響を一瞬振り返って、目が合うと咲斗はそのまま立ち上がって響には聞かせたくないとでも言うように、部屋から出て行ってしまった。
 ―――――その人と・・・行くんだ・・・・・・?
「ふっ・・・はは・・・」
 何が、『秘密』なの?
 響は思わず置かれた浴衣を握り締めて、手を振り上げる。けれど、それを怒りにまかせてなげつけるには、頭も心も冷えてしまっていて。振り上げた手を力なく下ろせば、浴衣が床に滑り落ちた。
 ―――――俺は家にいて、この浴衣着て明日花火に出かける咲斗さんを、見送らなきゃいけないの?
 いってらっしゃいって、笑って?
 ―――――そんなの、無理だよ・・・・・・・・・・
 そう思うと、これ以上ここにはいていられなくて。
「・・・!?――――細川様、ちょっとすいません」
 リビングで電話をしていた咲斗は、寝室のドアが開く音がしたように思って保留ボタンをお押して廊下に出ると、たった今開かれたであろう玄関のドアが丁度しまる瞬間が、目の前に広がる。
 ――――・・・・・え?
「響!?」
 慌てて寝室の扉を開けると、当然のように響の姿はなくて。
 床に落とされた浴衣と、
 食べ残されたサンドイッチ。
 たったそこまで響がそこにいたことを示す、乱れたシーツ。
 ――――・・・・・・・・・響・・・・・・・・・・・・・・・っ!!










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