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どれくらいの時間がたったのだろうか。 咲斗にとっては響が出て行ってここにいないのなら、傍にいてくれないなら、それは1分でも1時間でも同じ、ただ意味のない空虚な時間にしか過ぎなくて。 追いかける事も出来ずに、ただ呆然と座っていた。追いかけて行く事が、怖くて。 「咲斗っ!?――――どうしたの?」 「・・・・・・由岐人・・・・・・」 響じゃない声に呼ばれて僅かに首を巡らしてみると、自分と同じ顔が心配そうにそこにいて、どんどん近づいてくる。 「何・・・泣いてるのさ?――――細川様から電話がかかってきたよ?咲斗と電話で話してたら途中で切れてしまって全然繋がらないって」 「あ・・・」 ―――――すっかり忘れていた。 いつの間にか自分で電話を切ったらしいそれは、手の中から滑り落ちて廊下に転がっていた。 「何があったの?―――・・・響は?」 ―――――響 「咲斗?」 ―――――響、は・・・・・・・・・ 「出て行った・・・・・・」 出て行った。 「まさかっ」 ―――――ここから、出て行ってしまった・・・・・・ 由岐人は思わず息を飲み込んで、かろうじでその言葉を口にするけれど、咲斗の様子を見ればそれは嘘でも冗談でも無い事は明白だった。 「・・・なんで?一体何があったの?」 「わからない」 「わからないって。何してたの?あの浴衣って、あれでしょ?」 開け放たれた扉の向こうに見えるのは、この間話をきいていた浴衣のはず。それを目に留めて、どうしてこんな風になっているのか由岐人には検討もつかない。 「浴衣が届いて、それを響に見せたら急に様子がおかしくなって・・・・・・いきなりバイトするって言い出して、ちょっと口論になっちゃって」 「うん」 「そしたら、細川様から電話があって・・・・・・話してるうちに気がついたら、―――――響がいなくなってた・・・・・・」 「その口論が原因?」 「そうかもしれない。・・・なんか、バイトしてちゃんと一人でやっていけるみたいな事言ってたから」 ここから出て行くつもりなのかもしれないから。 「なんでいきなりバイト?」 「―――わからない。・・・・・・ここにいるのが嫌なのかも・・・・・・」 口に出してみて改めてその苦しさが一層込み上げて、誤魔化すようについて出た笑いは、けれど形にはならなくて無様にかすれてフェードアウトしていく。 「まさか。考えられないよ」 「だって・・・」 「もし、本当に出て行く気なら僕らが仕事中にこっそり出て行くこともできるんだよ?でも、そうじゃないでしょ?」 「――――」 「それに、出て行くつもりの人が仕事場を見たいとか思ったりしないよ。響は、響なりに咲斗のこと知りたいって思ってる証拠なんだから」 「・・・・・・そう・・・かな?」 そう言われればそんな気もしてくる。乾いた砂漠に1滴の雫がシミを作るように、期待する思いが咲斗の中にじわじわと広がっていく。それでもまだその瞳は不安に揺れているけれど、その瞳を正面から受け止めた由岐人はしっかりと頷いた。 「とりあえず、迎えに行こうよ。どうせいる場所はわかってるんだから」 「・・・・・・っ」 「ほら、早く着替える」 それでも戸惑っている咲斗の腕を取って、由岐人は無理矢理立たせて散らばった浴衣がしわにならないようにハンガーにかけ、のろのろと一向に進まない咲斗の着替えを手伝った。 どっちが兄なのだかさっぱりわからないと軽口を叩いて、由岐人は軽く肩を竦めた。 「ごめん・・・」 「いいけどねぇ〜」 わざとちゃかして言うのは由岐人の優しさだと分かるから、ついそれに甘えて咲斗はポロっと言葉を漏らす。 「―――やっぱり・・・あいつのところだよな」 うつろな瞳で、呆然と呟かれる言葉に由岐人は何をいまさらと苦笑を浮かべる。 「そりゃぁ、響にはそれしかないでしょう」 当然だといわんばかりの由岐人の返事に、咲斗は思わずため息をついてしまう。 否定されるとは思っていなかったけれど、それでもどこかと、淡い思いもあったからだ。そんな反応に、由岐人の方が眉をしかめる。 「何をそんなにこだわってるの?」 「――――」 「剛は響の彼氏でもなんでもないんだよ?ただのお友達。まぁ、くさい言い方すれば親友ってやつ。でも、それ以上でもそれ以下でもないよ?」 「・・・・・・わかってる」 全然わかってない様な顔をしてそんなこと言う咲斗に、由岐人は問い詰めるような少しきつい視線を送る。 咲斗の横顔に、由岐人の突き刺さるような視線が注がれて、たぶんそれは数秒の事でしかないけれど咲斗はその視線に耐えかねた様に重い口を開いた。 「響にとって・・・俺よりあいつの方が、比重が重い気がして、ね」 口にしてしまえば、それはたぶん、つまらない思いの様な気がして咲斗は言いにくかった。随分自分が子供じみているという自覚もあった。 それでも、口にしたら言葉は止めれそうにはなくて。 「なんで?」 「――――あいつの方が、響と関わってる時間長いし」 「はぁ?」 「だからっ、響と剛がずーっと友達ならさ、その長さはさ、俺と響がずーっと一緒にいられたとしても、勝てないし」 「・・・長さね・・・」 由岐人が心底呆れたとでもいいたげな顔で、苦笑交じりに呟く。 今更、『長さなんて関係ないでしょ』なんて言う気にもなれないし、言われなくても咲斗は十分わかっているだろうから、笑うしかない。 「それに―――」 「うん」 「・・・・・・・・・響がつらかった時、支えたのは――――俺じゃなくてあいつなんだなぁ、って思うとさ」 悔しそうに言うその言葉には、由岐人は軽く頷いた。 「世界中で一人ぼっちだった響に、手を差し伸べた最初の人間だろ?―――あいつがさ」 「そう・・・かもね」 前に飲んだ時に、そういえばなんだかそんな事言ってたしねぇ。たぶん、そういう事なのだろう。それを咲斗には告げる事は絶対出来ないなぁと、咲斗を見つめて由岐人は心に思う。 「俺の方が先に出会ったのに――――俺は、響に救われたのに・・・・・・・・・」 だから不安になる。もし何か合ったとき、響は自分じゃなくてあいつを頼る気がして。最終的には、あいつのところに帰ってしまうような気がして。 そんな思いがどうしようもなく拭い去れなくて。 「過去の事は仕方ないでしょ?」 ―――――わかってる。 咲斗だって何度も自分に言い聞かせた。 でも、理性じゃないから。 「過去には抗えないし、どうしようもないよ?変える事も出来ない。言い換えれば、過去があるから今があるんじゃないのかな?」 由岐人は自分で言ってて気恥ずかしい思いに囚われながらも、この凹んでいる兄のために言葉を重ねた。 「この『今』があるために、全てが正しい歯車でしかなかったのかもしれないよ?―――過去を変えられるのは、未来だけ。・・・・・・・・・そんな過去に囚われて、響を一人にしてもいいの?」 「いやだ」 そして、間髪いれずに発せられる言葉は何も考えずただ純粋に1番な思い。響を離したくない、それだけ。 「じゃぁ・・・・・・行こうよ。とりあえず、2人で話して」 にっこり笑って、咲斗の頭をくしゃりと撫でる由岐人の様はどちらが兄なのか本当にわからない。そんな由岐人の身体を咲斗はぎゅっと抱き締めた。 くぐもった礼の言葉は、微かに由岐人の耳にだけ届いた。 一方、勢いだけで出てきてしまった響は、咲斗と由岐人の想像を一ミリも超える事無く剛のマンションへと真っ直ぐにやってきていた。 半べその響に剛は慌てて部屋へ引き入れたが、響は理由も話そうともせずに、勝手に椅子を部屋の片隅マンションの玄関付近を見ることができる窓の下に置いて座わり込んだ。 そんな態度に剛は、響にはわからないように深い深いため息をついたのだが。 「ほい」 「・・・・・ありがと」 よく冷えた緑茶を手渡して、剛は向かいにソファに腰を下ろした。 「喧嘩の原因はなに?」 「・・・・・・・・・咲斗さんにバイトするなって言われて」 「え、響バイトすんの?」 初耳の事に思わず剛が体を前に乗り出して聞き返す。 「うん」 「まじ!?じゃぁーうちの店でやれよ。口きいてやるから」 剛が嬉しそうに言うと、その言葉に響は首を横に振った。 「ごめん、店はもう決めてきたんだ」 「・・・えっ、そーなんだ?」 一瞬、剛は複雑そうな顔をした。相談されなかったのが、少なからずショックだったのだ。 「うん」 「じゃあ、その店が問題なの?」 剛は内心のかなりの落胆を押し殺して、気付かれないように平常心を装いながら言葉を重ねた。咲斗にとってもだが、剛にとってもやはり響がどこでバイトする気なのかは大変気になるところなのだ。 「店はどこかは言ってないんだ。ただ、バイトするとしか。そしたら、頭ごなしにダメって」 「ふーん・・・・・・それで家出?」 「うん」 思いっきり迎えを待ってるその態度を家出というかどうかは微妙だろうなぁなどと、思わず嫌味の一つも剛は言いたい気分なのをぐっと堪える。 別に待ってたっていいさ。好きなんだろうし〜。しかし、話をしているのにこっちはまったく見ないでずっと階下を見つめるその態度をどうかと思うのは、きっと俺だけじゃないはずだと剛は思わずにはいられなかった。 「・・・ここにいたら、邪魔?」 ―――――そういうときは、せめてこっち向いて機嫌くらい取れ! 「んな事言ってないけど、―――家に帰ってちゃんと話し合った方がいいんじゃないの?」 「だって・・・・・・」 「だって?」 「―――明日」 「明日?」 剛は思わず眉をしかめた。 せっかく乾いてきていた響の瞳に、また新しい涙が込み上げてきたからだ。 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・花火」 絶えているのか、小さく呟いて唇をきゅっと噛み締めた。 「花火?―――ああ、そういえば明日大きな花火大会があったなぁ。それが?あ、もしかして一緒に行くのか!?」 その言葉に、とうとう響の瞳から大きな涙が零れ落ちた。 「違うっ・・・・・・・・・行きたかったのに、咲斗さん―――――お客さんと行くんだ。それも、浴衣新調して―――――――わざわざ、俺に、それ見せて――――・・・・・・っ」 頬を伝って流れ落ちる涙が、響の手や膝にとぽたぽたと落ちていく。その様子を、本当なら慰めて肩でも抱いてやる剛なのだが今ばかりは呆然と見つめてしまっていた。 だって。 あの咲斗が? あの野郎が? 店に来るのも嫌がってる、響しか見えてねぇーあの野郎が? あろう事か、浴衣をみせびらかした上に客と花火を見に行くなんて―――――・・・・・・ ――――どう考えたってありえねーだろうと、思わず剛は肩をがっくりと落とした。 どうしてそんな発想にいたるのか、剛にはまったく理解できない。軽い眩暈とある意味の疲労感を感じながら、どうして俺がと思いながらも口を開いた。 それもこれも、全部響には泣かれたくないなんていう兄心からなのだから、ある意味剛は立派な人間といえるだろう。 「あいつが、客と行くから響とは行けないって言ったのか?」 「ううん、前に由岐人さんと話してるの聞いちゃって・・・・・・・・・・・・花火は行く人が決まってるって」 「相手が客って?」 「うん」 「そう、はっきり言ったんだな?」 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・そう、はっきりとは言ってないかな・・・」 よく考えれば、と響は首を傾げる。 そこで剛はわざとらしい盛大にため息をついて、言えない嫌味を態度でしめしてやった。 「お前ら言葉たんなすぎ!なんで出てくる前にちゃんと話せないんだよ?」 「だってさ・・・・・・っ!」 「だって!?」 「俺・・・・・・」 「うん」 「つまんない事言って咲斗さんに嫌われたくないし。それに、電話だってかかってきたんだからっ!―――あれは、絶対明日の待ち合わせとかの話に違いない」 「待ち合わせねぇ・・・・・・」 ため息混じりに剛が呟けば、その力なさを誤解した響は自分の言葉に自信を持って大きく頷いた。 「それも含めて話して、それで嫌だったら改めて家出してこい。な?」 ここまで来て、どうやらくだらない痴話げんかに巻き込まれていっていることを痛切に悟った剛は、響をとりあえず帰す事に専念する気になった、その時。 「あっ!」 窓の下を見ていた響が声を上げて立ち上がった。 「来たのか?」 ―――――来ちまったのかぁ〜 「―――うん、・・・・・・どうしよ、どうしよっ!」 そこで初めて剛に真っ直ぐ顔をむけた響は、救いを求めるように見つめる。迎えの姿を待っていたのに、来たらきたでどうしていいのかわからないのである。 「とりあえず、落ち着いて思ったことを話せって」 「そんな事言ったって」 響は落ち着かない様子で部屋を行ったりきたりしだして、みるからにおろおろしだす。 「落ち着け・・・」 「だって・・・っ」 「待ってたんだろうが」 「そうだけど」 ―――――やっぱり、待ってたんだなぁ・・・ 言っておいて自滅気味の剛が、がっくり肩を落とした時。 「――――――来たな」 微かにエレベーターの着く音が聞こえてきたかと思い玄関に目をやると、ほとんど間も空けずにチャイムの音が部屋に鳴り響いた。 |