■7■
「ここ?」 「うん」 どうしてもどこでバイトするのか、その店を確認すると言って聞かない咲斗を響は仕方なく従えて、初の出勤のために店の前に立っていた。 そこは、咲斗の店本店より6〜700m離れたくらいの近い場所にある。良く言えばアンティーク風なのだか、まぁ築年数は結構たったかなという小さなビルの3階にひっそりとあった。半地下になった1階はどうやらイタリアンレストランらしい。ビル自体も4階までしかないそんなところ。 バー自体大きな看板もかかげていなくて、知る人ぞ知るという感じの雰囲気の店。 そのビルの下、咲斗は思わずビルを見上げてため息をついた。 「な、なに?―――なんか、不味い店?」 そのため息と落とした肩に、響は思わず不安げな顔を咲斗に向けてしまう。 「いや・・・不味いというか、まぁ不味いといえば不味いけど、コレ以上なく安心といえばそうかも」 「・・・はぁ?」 響は思わず眉を歪めて、全然わからないと咲斗を見上げて首を振る。だから、不味いのか、それとも安心なのかはっきりして欲しい。 「ううん、いいんだ・・・」 一人で納得している咲斗は苦笑気味な笑顔を響に向けるその時、咲斗の携帯が着信を告げる。 「ああ、ごめん――――え?うん――――・・・わかってるよ、はいはい、わかりました―――じゃぁ今から行くから」 携帯の電話を咲斗は少々乱暴に切って響の方へ改めて向き直る。 「ここね。仕事は2時までだったよね?」 「うん」 「わかった。初日がんばってね」 「・・・いいの?」 ここまで来ていて言うのもなんなのだが、ここでやっぱりダメって咲斗が言い出すんじゃないかと、ちょっと思っていた。だから、意外なほどあっさりと言われた咲斗の言葉に、響は驚きを隠せなかった。 「いいよ。――――それともダメって言ったらやめるの?」 試すように言われて。響は慌てて首を横に振った。 「じゃぁ、なんか呼び出されてるからもう行くね」 「ん。あ、気をつけてね」 「響も」 道の往来なので、いってらっしゃいのキスできない。その代わりなのか、咲斗の指先が響の唇をスッとなぞって、素早くその指先にキスをしてから去って行った。 バーで働く事は響には初めてでとても新鮮だった。なによりも、この大人な空間。それが響には新しい世界でドキドキさせられた。 店自体は8時からのオープンという事で、出勤してみるとまず始めに掃除をさせられた。掃除機をかけて、床をモップで拭いて、椅子のひとつひとつを拭いて。明日からは棚に並んでいるお酒も全部拭いてもらうからと言われてその数を見て、ちょっとげんなりもしたけど。 それでも久々の外で働く感覚は楽しかった。 オープンにしてからは、ちらほらとお客が入ってきたが、当然響にはお酒作りなどはさせてもらえず、簡単なものの作り方のレシピを渡されてそれを暗記することから始めなければならなかった。 お酒によって使うグラスも違い、マドラーも変わってくる。それら全てを覚えなければいけないのだ。 「大丈夫か?」 夜の12時を回った頃、オーナーである小城敦が響に声をかけた。丁度客も途切れた合間。 小城は外見からは年齢を中々計る事が難しい。若くも見えるのだが、その物腰や客さばきがかなり落ち着いているからだ。長い肩に垂れる髪を後ろでくくって、今どき珍しい染めてもいない黒の髪に漆黒の瞳。背は咲斗よりも少し大きいかもしれない、180以上はあるだろう。けれど、スラリとした体躯の所為か、圧迫感や威圧感は皆無だった。 響はなんだかやっていけそうだと、内心ホッとため息をついていた。 「大丈夫です」 「そう?初めてだと結構疲れるだろう?―――まぁ、今日は客も少ない方だけどな」 このしゃべり方が地なんだろう。客のいるときとはまったく感じが変わる。 「まだ、うまく受け答えとかは出来てないですけど・・・」 「別に上手くしゃべろうとか思わなくていい。そのままで十分だ。言葉使いだけ気をつけてな」 「はい」 久しぶりに働くという事で、響はいつもより緊張していたのと、やはり体力的にも少し疲労感をおぼえていた。 後1時間半。がんばらなければと気合を入れ直して、グラスを丁寧に拭いていく。微かな汚れも残さないように教えられたように拭きあげていく。これが意外と難しい。 それらを綺麗に並べ終わって、残りが1時間をきった時。 「いらっしゃいませ」 カランと扉の開く音がして、反射的に声を出して顔を上げる。 「っ!!」 ドアのところに立つ人を見て、一瞬心臓が止まるかと思った。 「―――・・・なんだ、珍しいなお前が来るなんて」 ―――――・・・・・・え!? 「まぁ、ね・・・・暇そうだね?」 「るせ」 誰もいない店内を眺めてにこりと笑うその顔。たった何時間か前に分かれた―――――― 「・・・知り合いなの?」 考えるよりも先に言葉が洩れた。 ――――聞いてない。 「まぁ・・・顔見知りってとこかな」 余裕の笑みを浮かべて響の正面の椅子に座る咲斗。 「聞いてない」 思ったことを口に出して言ってみる。面白くないからだ。 「響だってここでバイトするって事後承諾なんだから、おあいこでしょ?」 「――――っ!」 だからお仕置きされたじゃん!!思わず叫びそうになって、慌てて飲み込んだ。言えるはずもない。だから響は精一杯仏頂面を作って、咲斗を睨んでやった。 それなのに、それすらもくすくす笑って受け止めている咲斗が憎らしい。 「何、咲斗と響クンは知り合いなのか!?」 「ああ」 びっくりした様な顔を小城が咲斗に向けると、咲斗はニヤリと笑みを浮かべる。 「えっと・・・なんか、飲む?」 一応客なのだったらと響が遠慮がちに声をかける。 「何か作れるの?」 「・・・まだ」 「いつから作らすの?」 これは小城に向けられた言葉。 「そうだなぁ。1週間後ってところかな」 「絶対?」 「なんでだ?」 「響が作った最初のお酒は俺が飲むから」 当然のように言いのける咲斗の顔をまじまじと見つめた小城は、何かに閃いたように口をあけて。 「こいつか!?お前が買い取った子供っていうのは」 「だからその言い方辞めろって言ってるのに、高崎の奴」 「いいじゃねぇか、事実だろ」 「小城さんっ」 2人の間でぽんぽんと交わされる言葉に響は目を見開いて、聞きたいこと事は色々あるけれど、とりあえず言わずに口を閉ざす。 一体咲斗がどこまで自分の事を、自分たちの事を話しているのかわからないし、第一どういう関係なのかもわからない。 「るさいなぁ。で、1週間後なのは絶対なんだね?」 「じゃぁー今週の金曜のこの時間くらいに来れるなら来い。客に出す前にいくつか作らすし。来れなきゃ俺が飲む」 金曜日の夜というのが、水商売にとってどれだけの稼ぎ時で忙しいのかわかっていて小城はわざとその時間を指定した。 来れるなら来て見ろと。そっちとダブっている客でも、もしかしたらいるかもしれないその時間に、だ。 「わかった」 けれど、咲斗はなんでもないとでもいうように頷いたのだ。 それには小城も少しばかり目を見開いたが、内心何を思ったのかは口には出さずに軽く肩をすくめて苦笑を浮かべる。 響は律儀にも水を咲斗に差し出して。 「ありがと」 添えられた指に思わず自分の指を咲斗は絡める。 いつもなら家で一人でいる時間に、外にいて人目にさらされているのが心配で仕方がない。ここにならそんなに変な客もこないし、危ない事になることもないだろとは思う。 もし万が一何かってもすぐに駆けつけてこれる距離だと分かっているのに、それでも不安でそわそわして、今日は仕事にならなかった。 「咲斗さん?」 それに、小城にもちゃんと知らせておかなければない。自分にとって響が、どれだけの存在なのかを。 何かあったらただじゃおかいと。 「うん」 ゆっくり指先をなぞってその指をそっと離すと、響の手が離れていく。 温もりを失って、急に不安になってしまうのは、まだ少し自信が足りないからだろうか?それとも、恋というのはそういうものなのかもしれない。 そんな感傷に咲斗が浸って水をぐっと煽ると、ドアがまたカラリと鳴って新たな来客を告げた。 「―――いたっ」 「あ・・・」 「もう、仕事中になにやってるんですか!?由岐人さんが間違いなくここだっていうから半信半疑で来てみたら。―――― 一体こんなところで何してるんです!?」 新しく入ってきた客は咲斗と同じようにスーツをビシっと着こなして、少しクセのある薄い茶色の髪を少し長めに切りそろえて。白く頼りなげな雰囲気をかもし出しているのに、それとはうらはらに大きな声を上げて咲斗に迫りよってきた。 「おいおい、こんなところはないだろ圭吾」 これまた小城の知り合いらしい。馴れ馴れしく名前で呼んでいる。 その圭吾と呼ばれた青年は、小城に一瞥をくれただけでその視線はすぐに咲斗に向かう。 「とにかく戻ってきてください」 「まだ何かあったか?」 「上条様が来られてるんですよ」 小声で強く告げられる言葉に咲斗の目が一瞬鋭くなる。 「ああそうなんだ。仕方ないなぁ」 けれど、すぐにそれをかき消して、咲斗は仕方ないなぁとでも言うようにしぶしぶ席を立った。 「響は2時までだよね?どうやって帰るの?」 「えっと・・・徒歩?」 そういえば考えていなかった事を言われて、尋ねられているのに疑問形で返してしまった。 「徒歩は無理。じゃぁ4時にもう一度迎えに来るから待ってて。一緒に帰ろう?」 「・・・うん」 響は確かに徒歩では帰れないなと頷いて、原付を買ってもらおうかという考えが浮かぶ。原付の免許なら持ってるから、とりあえず借金を増やしてみるしかなさそうだ。 まさか毎日一緒に来て一緒に帰るわけにもいかない。 「オーナーっ」 名残惜しそうに響を見つめる咲斗を青年は急かして、2人は扉の向こうに消えていった。 響は、その扉を見つめてしまう。もう1度開くことなんてないのに。寂しさが急に込み上げる。不安も一緒に連れ込んで。 「大丈夫か?」 「っ、大丈夫ですよ」 思わず響は赤面して慌てて言う。 「そうか?なんだか泣きそうな顔してるぜ?」 「そんな事ありません。そんなことより、小城さんと咲斗さんはお知り合いなんですか?」 「まぁな」 小城は軽く笑って肩をすくめた。けれど、それ以上の説明をしてくれる気配はない。 「さっきの人も・・・?」 「さっきの?ああ、圭吾か?あいつは高崎圭吾っていって咲斗んとこの本店の店長兼咲斗と由岐人のスケジュール管理なんかもやってるやつだ」 「へー・・・」 なんか線が細くて綺麗な男の人だった。あの人がずっと咲斗さんと一緒にいるんだ、そう思うと胸の中が切なくなってくる。 それにわかっていたとはいえ、客に呼ばれて戻っていく姿を目の当たりにして、相手がどんな人なのかどれくらいの客なのか気になってしまう。 その人に向かってどんな顔で微笑むのだろう。どんな言葉を囁くのか、どんな甘い会話を交わすのか気になって胸がいたくなってしまうのだ。 その中のどれかに、いつか本気になって、もういらないと捨てられてしまう日が来る様な気がして。 「なんの心配してんのかしらねーけど、思ってることあるんだったら帰って吐き出せよ?」 「え・・・」 「てめーの中で勝手に想像しても、煮詰まるだけだぜ?そして大体それは、正しい答えじゃない」 小城ははっきりと告げて、器用に方眉を上げてにやりと笑った。 その笑顔に、大人の余裕が見て取れて響は力なく首を振る。そんな事、自分に出来るのだろうか? 小城さんとはどういう知り合い? その、高崎さんとはどんな付き合いなの? 上条さんってどんな人? どんなことをするの? 大切なお客様なの? そういう人と、寝たりするのかな? キス、くらいはするのかもしれない。 誘われたりしないの? 他にはどんなお客さんがいるの? 本気になったり、しないの? マンションの部屋に閉じこもっている時はさして気にもならなかった。ちゃんと毎日帰って来るって、根拠もない自信があった自分が信じられない。 こないだから、変だ。 近づきたいと思って始めたバイト。知りたいと自分から望んだのに。 自分で自分の想像に傷つけられて、もう、くじけそうになっている。 その日、咲斗が迎えに来るまでの時間が、響には永遠のように長く長く感じられた。 |