■8■
「お疲れ様」 いつもならこの時間はベッドの中で帰宅してきた咲斗を待っていた。寝ぼけ眼でしがみついて、抱き止められて眠りについたのに。 「咲斗さんも」 響は笑顔を作る。 帰りのタクシーの中は香水の香りがした。 一緒にシャワーを浴びて、やっとその匂いが消されてなんとか落ち着いたけど。 「響?」 お風呂上りに咲斗はビールを開けて、響にはコップに注がれたポカリを渡す。 「ありがと・・・」 「どうしたの?―――もしかして、小城になにか言われた!?」 ずっと元気のない様子の響に、咲斗はもしやと少し顔色を変えて、手に持っていたビール缶を少し手荒くテーブルの上に置く。 「ううん、そんな事ないよ。小城さんは凄く親切だった」 響は慌てたように首を振る。 「じゃぁ・・・・・・あ、店に行ったの怒ってる?」 今度は急に弱弱しい声になって咲斗が窺うように響の顔を覗き込んでくる。それが少しおかしくて、響は思わず笑みをこぼす。 「ううん。心配してくれてるんだぁって思って嬉しかった。――――ただ、ほら・・・知り合いだったの知らなかったから」 びっくりした、と小さく呟いて思わず顔を下に向けてしまう。 なんだかあまりこういう事を言いなれてなくて、どうしていいのかわからない。 「ちょっと吃驚させようと思ったんだけど・・・・・・させすぎた?」 咲斗の言葉に、響はコクンと頷く。頷いて、咲斗にぎゅっと抱きついた。その突然の行動に驚いたのは咲斗の方。それでもしっかりとその身体を受け止める。 「どうしたの?」 「ううん。今日は疲れちゃった。もう、寝よう?」 聞きたい事はいっぱいあったのに、どう聞いていいのかわからない。どう言葉にしていいのもかわからない。 初めて感じるこの感情がなんなのかも良くわからなくて、どうしていいのか響にすらわからない。 だから今はその腕の中で、ただ眠りたかった。 「・・・それ、ただの焼きもちじゃん」 「―――やき、もち?」 なんだか凄くもやもやしたものを抱えたまま数日が過ぎたある日。どうしても我慢できなくなった響は、咲斗が出勤した後の自分の出勤時間までの僅かな時間に剛を呼び出していた。 「そ、焼きもち。ほかの客が気になったり、自分の知らない人間の出現に不安になったりイライラしたりするのは、焼きもちだろ?何、響。わざわざ呼び出してのろけかよ?」 剛が思い切り面白くなさそうな顔をして言うと、響はそれとは対照的に目を見開く。 「これが、やきもちなんだ・・・」 初めて知った。そうだったんだ。 「おいっ!?こないだの喧嘩の時といい、完全に焼きもちと言葉の足りなさが原因だろ?――――何?もしかしてわかってなかった?」 おいおい冗談だろう?と剛が驚きの顔を響に向けると、今度は逆に響は拗ねたように目をそらす。 「だって・・・・・・」 「だってって、お前今まで彼女だっていたじゃん。そういうのあったろ?」 剛の記憶に間違いがなければ、高校時代響に彼女のいた時期はあったはずだ。たとえそれが短い期間で、とっかえひっかえだったとしてもだ。 「・・・・・・」 響は困ったように口を閉ざす。 「―――響?」 「っ、そういう事言われた事はあったけど。俺自身相手に対しては、なかった。全然そういう気持ちは沸かなかった」 響は凄く言いにくそうに、少し早口めに言い放った。これに、驚きを隠せなかったのは剛の方だった。 「・・・そうなん?」 「ん・・・あの頃はなんか、昨日誰と遊んだのとか、週末何してるのかとか聞かれるの鬱陶しくてさ。そんなにお前に合わせてられねーくらいにしか思ってなかったし。私の事気にならないの?って聞かれた事も合ったけど、実際全然気にならなかった」 「なるほど」 響は性格も悪くないし、まぁ人当たりもいい方でルックスも良かったのに、なんで長続きしないのかずっと不思議に思っていたけど、やっと今になって剛は理解した。 響は誰一人にも、恋していなかったのだ。 「俺としてはすっげー嫌だけど、ヤツが響の初恋なわけだ」 「なっ、バカにすんなっ。初恋は小2の時の担任」 真顔で言い返す響に、剛は肩をがっくりと落とした。 そうだった、最近まともだからすっかり忘れていたけど響はそういう部分が見事に欠落しているんだったと改めて思いなおして、なんとか気持ちを立て直す。 「とにかく・・・、その今思ってることヤツに言っちまえ」 「え!?――――そんな事出来ない」 「なんで?」 「だって、仕事って分かってるし。その、高崎サンって人の事はちょっと気になるけど、お客さんの事は完全に仕事なんだろうって思うし・・・そんな事いったら信じてないみたいじゃん」 「あー・・・」 「俺なんて今経済力とかないし、全部咲斗さんに頼ってるし。それにそんな事言われたら鬱陶しがられちゃうだろ・・・・・・」 自信なげに言われる言葉に、剛は小さく息を吐いた。 「うーん、まぁ前半部分は置いといて、鬱陶しくはないと思うぞ?そらぁしつこく言われたら嫌だけどさ、少しくらいの焼きもちはかわいいもんだって」 うんうんと頷きながら言う剛に響は疑いの目を向ける。自分の経験と照らし合わせてみても、鬱陶しい以外のなにものでもなかったからだ。 そんな事を、自分がするなんて想像もできない。 だって、どうしたって嫌われたくないんだ。 たぶん、恐いんだ。自分のやっとみつけた居場所がなくなってしまう事に。 どんどん恐くなる。 愛されてもいいのかどうか、その事に初めて直面して、自分に資格があるのかどうかわからなくて恐い。 結局わかった事は、今のこの胸の中に渦巻く思いが『焼きもち』であるという事しかわからなくて、その解決法は見出せなかった。 少し思いつめているようにも見える響の顔に、剛は人知れず深いため息をついた。 人の恋路じゃなくて自分の事を考えなきゃいけないのにと剛は思って。コンパでも行こうかなぁとか内心思っていながら、それにも前向きになれていない自分もいることを知っている。 何が心にひっかかっているのか、それはまだ剛にも見えていなかったけれど。 そんなやりとりから数日後、コンパの話もなくいつものようにバイトに行こうとしていた剛の携帯が着信音を上げた。 ―――――響? また何かあったのだろうかと慌てて剛が電話にでてみると。 「剛、お金貸して」 開口一番響から言葉。一瞬あっけにとらてて、しかし剛はなんとか冷静に言葉を返した。 「いくら?」 『・・・・・10万』 言われる金額というよりは、また何があって10万なんだと剛はため息をつく。 「なんで俺なの?ヤツは?」 『ダメって』 「貸してくれないって?」 『そうじゃなくて・・・・・・買いたい物があるんだけど、必要ないって』 「何が買いたいん?」 『・・・原付』 「原付!?またなんで」 意外なものに剛が声を上げたとき。 『誰に電話してるの!?』 電話越しにもわかる咲斗の怒鳴り声。 『剛』 ―――――っバカ言うなよ!! 『彼にお金借りるつもり!?』 案の定電話の向こうでかなりいらだった声を上げている。 『うん』 『そんなに俺と一緒に帰るのが嫌なんだ?』 『・・・・・・・・・そういう事じゃなくて、2時間もボーっと待ってるのが嫌だって言っての!』 『じゃぁ3時まで働かせてもらうように小城に言うよ。それならいいでしょ?』 『だから、それは止めてってば」』br> はぁ・・・なんの痴話げんかなんだかしらないが、電話を切るに切れない。なんといってもつい最近やっと、焼きもちというものを実感したばかりのヤツなのだ。 『なんで!?』 『なんでってそんなのおかしいだろっ。確かに小城さんは咲斗さんの知り合いかもしれないけど、それと俺があそこで働いてる事とは別なんだから。勤務時間も最初にそれで了承したことなの。だいたい仕事も満足にできてないんだから短くて当然なの!!咲斗さんだって人雇ってるんだからそれくらい分かってるだろ!!』 ―――――確かに響の方が筋は通ってるなぁ。 『でもね、夜は酔っ払いも多いし変なやつも多いの!その中を原付で帰せるわけないでしょ?』 『それが過保護だっていうの!!』 ―――――はぁ・・・、早い話がやっぱりまた痴話げんかなんだな。 電話越しに聞こえてくる喧嘩の内容に、剛はため息をつくしかなくてそのまま1回携帯の電源を切る。 何がどういう経緯で喧嘩にいたってて、どうして原付なのかいまいちわからないが、こうやって響が電話をかけてきた以上放ってもおけないが、もうバイトの時間なのだ。仲裁に自分が行ってやりたくても無理だから、ここはもう一人のやつに連絡するしかない。 「あ、もしもし、由岐人?――――おう。あのさ今家?・・・・・・いや、違−よ、なんで俺が由岐人ん家行くんだよ。そうじゃなくて、上。喧嘩してんだよ。ああ、あ、どんどん音がしてる?なら話は早い。ちょっと行って仲裁してきてくれよ。――――え?―――――ってるって。そう言わずにさ。――――――俺今からバイトなんだよ。だから、頼むからさぁ・・・・・・え?って気になるしさぁ。おう、ああ〜・・・・・・・・・わかったわかった、俺の借りでいいから、ああ、じゃぁ頼んだからな。おう」 電話ごしでぶつぶつ言う由岐人をなんとか宥めて、何故か剛が由岐人に借りを作ったことになってしまったがまぁこれで大丈夫だろうと剛は一安心する。 それでも剛はまだなんとなく切ったばかりの携帯をしばらく見つめていたが、これ以上心配しても仕方がないし、経過は後で由岐人にでも聞けばいい。 バイトの時間が本気でやばいと気付いて慌てて駆け出した。 ―――――いや、由岐人じゃなくて響にきけばいいよな・・・・・・? 一方、剛の仲裁を頼まれた由岐人は仕方なく咲斗の部屋へ上がりこんだ。 「ったく・・・ドンドンばたばたうるさいっ!!」 リビングに入るなり大声を上げて二人を怒鳴りつける。 「だって・・・」 言い訳をしようと口を開きかけた響を一睨みで黙らせて、咲斗に原因を話させた由岐人は、がっくり肩を落とした。 ―――――くだらなさすぎる・・・・・・ 「いいじゃん、原付くらい買ってあげても。って、響は貯金とかないの?」 「全部、家にある」 そうなのだ。響は卒業式の帰り道拉致のような形でこの家にやってきて、そのままいついてしまったので実家の荷物を何一つ運んでいない。 そして、状況が状況だけに取りにも帰れないのだ。 「そっかぁ・・・そうだよねぇ。じゃぁやっぱり買ってあげなって咲斗」 「・・・・・・」 咲斗は響の味方をする由岐人を、悔しそうに睨む。その拗ねた表情にどっちが兄なのか疑いたくなってくるのだが。 「咲斗だって4時に絶対迎えに行けるとは限らないんだから。そうでしょ?」 実際ここ数日無理矢理4時に帰るから、事後処理のしわよせが由岐人と高崎に降りかかっているのは事実なのだ。咲斗もそれがわかっているだけに、そう言われれば言い返せない。 「ちゃんと店を出るときと、家に着いたときに咲斗さんの携帯にメールしとくから。それならいいでしょ?」 由岐人に言われて、響に妥協案まで言われては咲斗は頷くしかなかった。 |