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カラン… 「いらっしゃいませ」 ドアの開閉を告げる音が鳴って、グラスを洗っていた響が顔を上げる。その瞳が客の姿を認めてにこりと笑った。 「ここ、いいかな?」 「はい、どうぞ」 さりげなく観察してみると、男は咲斗と同じくらいの年齢だろうか。高級感の漂うダークブラウンのスーツを着こなして。ほのかに香るコロンに嫌味もない。 「何になさいますか?」 「そうだね…、ジン・リッキーを」 おしぼりを受け取った男は一瞬思案気に中を見つめてすぐに、響に視線を戻した。 「はい」 響は先にピーナッツが乗った皿を出しておいて、注文の品を作るために前に置かれたジンのボトルを取り上げた。シェイカーを振らないで済むものは、もう十分手馴れてきている。 タンブラーの上でライムを刷り皮までもグラスに入れ、氷を入れて上からジンを注いでいく。冷蔵庫から冷えたソーダを取り出してグラスを満たし、マドラーを添えれば出来上がりだ。 「お待たせしました」 コースターとともにさりげなく前に押し出して、少し口元を緩める。 「手馴れているね。もう、長いの?」 男は口をつける前に響へと言葉をかける。 「いいえ。俺なんてまだまだなんですけど。ありがとうございます」 男もかすかに顔を緩めて、ジンリッキーを一口飲む。 「うん、おいしい。誰だったかに聞いて初めて来たんだけど、来てみた甲斐があったかな」 「ありがとうございます」 男は、かなりゆっくりとしたペースでグラスを傾けていた。 「若そうだけど、いくつ?」 「秘密です。お客様は?」 ここではよく年を聞かれることも多かったけれど、響はよほどの常連で、親しくなった人以外には話さなかった。 秘密という言葉に角が立たないように、意味深にニコっと笑うのも忘れない。 「残念だな、僕は教えてもらえないのか。――――僕は、28だよ」 「・・・へぇ」 「あ、今意外だなぁって思ったね?」 「いえいえ、そんな事ありません」 男の少しからかうような視線に、響は少し頬を赤らめて否定した。こういう商売では、こういう突っ込みもさらりとかわせないようでは困るのに、考えていた事そのままずばり鋭く指摘されて、少し慌ててしまった。 「怪しいなぁ」 「・・・いえ、そのとても雰囲気が落ち着いていらしたので」 着ているものや身につけている物も、とても28には見えなかったのだ。よほど家が裕福なのか、それとも青年実業家というやつだろうか。 「それ、よく言われる」 男は気を悪くした風でもなく、仕方ないと肩をすくめて苦笑を浮かべたので、響もホッと息を吐いた。 それからは、穏やかに日常の何気ない会話を楽しんだ。たわいもない話や、ささやかな愚痴だろうか。話しているうちに響は、少し咲斗と似たような落ち着いた空気と、大人っぽさに好感を持っていった。 男は1時間ほどで3杯のカクテルを飲んで、また来ると言い残して帰っていった。 ・・・・・・ 響がバイトを始めて1ヶ月と少し。順調に仕事をこなせるようになっていた。お客さんにもだいぶ馴染んできて、気軽に声をかけてもらえるようにもなって、受け入れられたことにホッとした、そんな日々を送っていた。 「響くんは、オリジナルとかはまだ?」 週に2度は来店する常連の宏美(ヒロミ)に、響がいつも決まりのソルティ−ドッグを手渡すと、宏美は綺麗に手入れされた手で受け取りながら尋ねた。 「オリジナル、ですか?」 「そ。響クンオリジナルカクテル。是非飲みたいわ」 宏美が氷をからりと音をさせながら、ソルティードッグに口をつける。 「そんなっ。俺なんてまだまだですよ」 響はとんでもないと首を振った。 もともと酒にそんなに興味もなくて、飲めればいいくらいにしか関心がなかったのだ。今店にある膨大な種類を覚えるだけでも大変なのに、そこまで手が回らないのが実情。しかも、年齢的に飲酒も法律で禁じられているので、試飲が絶対必要なオリジナルなど作れるはずもない。 まぁ、それは建前だけれど。 「えー、そんなことないと思うけどな。響くんのオリジナルは、1番最初の飲もうって狙ってるのに」 宏美は、本気とも冗談ともつかない調子で色っぽい笑顔を浮かべながら響を見つめる。 「ん〜それは無理かも」 響はそんな仕草はこの1ヶ月で十分見慣れたらしく、顔色も変えずに首をかしげながら言う。 「あら、どうして?」 「だって、絶対最初は小城さんが飲んでチェックしますからね」 いたづらっぽい笑顔とその返事に、宏美はカラカラと元気良く笑った。 実際小城が「うん」といわなければ、響の作ったものが店頭に出るはずもなく。しかも、その前に咲斗が飲むことも間違いないのだから。 どんなに早くても3番目にしかなれないのだ。まぁ、それはさすがに口には出来ないが。 「でも、いつか作ってお店に出せる日が来るといいですけどね」 「あっ、それってもしかして、密かに家で練習とかしてるんじゃない?」 そんな会話をした事を、翌朝朝食の席で響は咲斗に話した。 「へぇ〜確かにそれもいいね。そしたら家でバー気分が味わえるし」 今朝の朝ごはんは、鯵の開きに、納豆。豆腐とあげの味噌汁に、大根とにんじんの酢の物という献立。 「今だって規定のものなら作れるよ。ただ、お酒を買い揃えないといけないけどね」 特価で買った鯵の開きが意外においしくて響はちょっとうれしそうだ。 「買いそろえればいいじゃん」 「え〜だって1本2本って話じゃないし。シェイカーも必要だしさぁ」 お行儀悪く響が箸の先をかじりながら、不満そうに咲斗を見つめる。 「お行儀悪いよ――――でも、オリジナルとか作る気なんだったら揃えないと、でしょ?」 「まぁー・・・ね」 確かにそれはそうかもしれないと、響は少し考え込む。 1ヶ月目のお給料はすでにほとんどないので、今月の給料で少し考えてみようかと思いを巡らして。 咲斗はお気に入りの豆腐とあげの味噌汁をすすりながら、そんな響の態度にくすりと笑顔を浮かべる。 ここで咲斗にねだろうとしない、そんな事考えてもいない響の態度が咲斗は好きだった。だからつい、買ってあげたくなってしまう。 「今週末のお休みに、いくらくらいなのか見に行ってみる?」 「ダメ。今週末はほら」 「・・・ああ、そうだったね」 先週に終わってしまったハロウィン。響はそんな事には全然興味を示さなかったくせに、店で衣装を着てパーティーをするんだと話した途端に、自分もやりたいと言い出した。 「じゃぁ今日にでも由岐人に話しておかなきゃ」 「まだ言ってないの?その話したの日曜日だよね?・・・もう火曜日なのに」 思い出したように言う咲斗に、響は不満げに眉を寄せた。どうやら咲斗は忘れていたらしい感じで、響はちょっとむぅっとしているようだ。 咲斗は響の機嫌を損ねては大変と、慌てて取り繕うために口を開こうとしたその時、大きく開かれた窓から秋風が部屋へ舞い込んだ。 「うわぁ」 カーテンが大きくはためく。 「秋だねぇ」 涼しさを増した風に咲斗がしみじみいうと、風によって乱れた髪をかき上げる。その手馴れた仕草がなんだか男っぽくて、響がふと目を奪われると、髪の合間にちらりと耳にしたピアスが見えた。 「ん?何?」 「ううん、なんでもない」 少し耳を赤く染めた響が慌てて首を横に振る。 その見えたピアスは、響が初給料で咲斗へ買ったもの。そんな大した物でもなくて、水色に光る石も小さくて安物だけれど。石の価値ではなくて、この透き通るような水色が咲斗に似合うと思って、響が探し出した1点。 「変なの」 そんな響の視線を気付いているのかいないのか、咲斗が穏やかな笑みを浮かべて響を見つめる。 仕事をしていても、もしほか女性客に言い寄られていても、そのピアスが咲斗を誰の物か知らしめて、所有印でもあるようなそれが響は何よりもうれしかった。 そして咲斗も、決してそれを外そうとはしなかった。 その夜咲斗が出勤していくと、ちょうど高崎が先週に行ったハロウィンパーティーの小道具を倉庫に仕舞おうとしているところだった。 「え、衣装ですか?」 「ああ、もう仕舞っちゃった?」 「いえ、まだ事務所にありますが・・・」 高崎は不思議そうな顔を咲斗に向けた。毎年恒例のハロウィンパーテーは例年通り大成功に終了し、昨日咲斗から使った小道具類をなおすようにいわれたばかりなのだ。 「うん、ちょっと衣装を使いたいんだ、事務所ね、ありがと」 咲斗は高崎に手をひらひらとふって事務所へと行くと、そこには由岐人が書類を睨みながら座っていた。 「そんな顔してたら眉間にしわがいくぞ」 羽織っていたジャケットをハンガーにかけながら由岐人に声をかける。 「うるさい。・・・ねぇ咲斗、この食器類さぁ、もうちょっと絞れないかなぁ・・・」 由岐人が今見ていたのは、今度OPENの店の見積書らしい。金銭的に余裕は出たとはいえ、由岐人は締める事に余念がないらしい。 「うーん、まぁ予備分も含めたらそんなもんかなぁって思うけど」 そんな由岐人の様子に咲斗は笑顔を洩らしながら、部屋に置かれた衣装ケースを開いた。 「何してるの?それ、こないだのハロウィンのだよ。今高崎がなおしてる」 「ああ、知ってる」 咲斗は何枚もある衣装を取り出して、なにやら探している風だ。 「あー由岐人、お前今週末開けておいてくれ」 「…なんで?」 今の咲斗の行動と合わせて、なんとなーく嫌な予感がするのか由岐人が頬をピクっとさせながら慎重に言うと、咲斗が軽く肩をすくめた。 「家でハロウィンするんだ。由岐人も参加して」 「はぁ!?・・・ハロウィンって終わったんですけど」 由岐人が呆れた顔で言うと、咲斗はどうやら目当ての衣装を見つけることが出来たのか、1つの衣装を持ち上げてにやりと笑う。 「知ってる。でも、店でやった事を響に話したらやりたがってさ。仕方ないだろ?由岐人と奴も強制参加だからな」 「奴って―――剛?」 由岐人の胸が、トクリと音を立てた。 「当たり」 咲斗は話しながらも次々と4点の衣装を選び出して、それを大きな紙袋につめた。そして再度衣装ケースにふたをして、部屋の隅へとおいやる。 「・・・用がある、って言ったら?」 たぶんそんな意見は無視されるとはわかっていて、とりあえず由岐人は言ってみると、咲斗がにやりと笑って。 「何か言った?」 その笑顔が怖い。言葉すらもなかったことにされてしまうらしい。 由岐人は肩を落として、少しわざとらしくため息をついてやった。週末に予定なんてもちろんない。ぶらりとドライブでも行こうか、くらいしか思っていなかった。 ――――はぁ・・・・ 由岐人は観念したのか、再び思いっきりため息をついた。まぁこうなってしまっては今更何を言ったところでどうにもならないのはわかっている。 「で、僕は何を着るんでしょ?」 「魔女」 「・・・はいはい」 ――――僕は魔女の格好で、週末はハロウィンパーティーか・・・ 間髪いれずに返された咲斗の言葉に苦笑を浮かべて頷いた。 咲斗は由岐人の思いを知らない。 会いたいような、会いたくないような。由岐人は久々に見る事になるであろう剛に、複雑な思いを抱いて、ソファの背にゆっくりと体重をかけていった。
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