■10■



 響はといえば響で、鬱々とした日々を送っていた。
 ――――こんな事なら、何も知りたくなかった。
 そんな思いが頭をついて離れずに、響は何度目かわからないため息を漏らした。咲斗の言葉によって肯定された過去の恋愛。それは、少なからず響のショックを与えていた。今は好きだと言ってくれた言葉も、響にとってはなんの助けにもならなくて。
 中途半端に知らされた過去は、色んな想像をさせてそれが響を苦しめていた。
「どうした?」
「あ、いえ」
 週をあけた月曜日から三日、ずーっと浮かない顔していた響に小城が声をかけた。
 順調にしていたように見えた仕事も上の空で、頼まれた酒を間違って出す失敗も目に付いた。急激な様子の変化は、仕事ではなくプライベートで何かあった事を示しているとしか小城には思えなかった。
「胸につかえてる事があるなら、吐き出したほうがいい」
「・・・・っ」
「あいつと何かあったのか?」
「・・・・・」
 響は無言で首を横に振った。それは小城には否定というよりは肯定にしか見えなかった。
「あいつは不器用でバカだから、ちゃんと口にしないとわからないぜ」
「咲斗さんはバカじゃありませんよっ」
 少し軽い口調の小城に、つい響はいつもの調子で言い返してしまって、くすくすと笑われてしまった。
「その調子なら心配なさそうだけど――――聞くことしか出来ないが、誰かに話したいなら話ぐらい聞くぞ?」
 水曜日はいつも何故か店は暇で、今も先ほど客が帰って客足がパタっと止まっていた。店内には、静かな音楽とともに響と小城しかいない。
 小城の低音の声は響には優しく響いて、思わず堪えていた思いがあふれ出しそうになる。一人で抱えるには少し重たくて、誰かに話したいという思いがないわけではない。響はその瞳を何度かさまよわせて、意を決したように顔をあげて口を開こうと小さく息をのんだ。
・・カランッ
「あっ――――い、らっしゃいませ」
 密かに流れていた緊迫感は、新たな客を告げる音にかき消されて慌てたように響がそちらに顔を向けて、その頬が引きつった。
「こんばんは」
「・・・こんばんは」
 無理やり作った笑顔は明らかに引きつっていた。が、男は気付かなかったのか笑顔を浮かべていつも通りの席に座った。
「ジン・リッキー」
「はい」
 そんな二人の様子を目にして、小城はかすかに眉をひそめながらもすっと身体を引いて二人から距離を取る。
「こないだいは、ごめんね」
 男も小城を気にしているのか、少し小さな声で響に話しかけてきた。
「いえ」
 響の顔が少し青ざめているのだが、暗い店内に救われているのか男はそれも気付かなかった。それよりも少し機嫌が良く見える。
「それで・・・・さ」
「?」
「こんな事頼んでいいのかわかんないんだけど、彼に今恋人がいるか聞いてみてくれないかな?」
「――――っ、お、れがですか?」
「うん、お願いっ」
 男は両手を顔の前で合わせて、響に拝むような姿勢になる。その頬が少し蒸気して、その瞳が期待に満ちて輝いている姿は、少し子供っぽいようにも見える。
 びくびくと響を伺うように視線を向けてくる姿が、響には少し自分が咲斗にする態度に重ねて見えた。
 ――――もしかして・・・・、俺・・・この人と、似てる・・・・?
 そのふと浮かんだ考えは、響を崖から叩き落すような衝撃を与えた。
 ――――似て、るんだ・・・・。だから、だから俺なんだ――――・・・・?
「響、クン?」
「あ、はい。あ、すいません。ちょっとビックリしちゃって」
 男を凝視して立ち尽くす響に、男は心配そうに声をかけた。その声に響は我に返って無理矢理笑顔を作った。
 笑ってないと、泣きそうだったから。
 カウンターの下、見えないところで拳を強く握って手のひらに爪を立てた。痛みでもないと、立っているのも嫌になりそうで。震える足を心の中で叱りつけた。
「ごめんっ。そうだよね、いきなりこんな事頼まれたらびっくりするよね」
「ええ、まぁ・・・」
「でもさ、こないだ響クンに話してすっきりしたっていうかさ。やっぱり忘れられないだなぁって自分で再確認させられたんだよね。だからもし、もしも彼が今フリーなんだったら。僕はもう1回がんばってみようかなって」
 ――――がんばる・・・
「こうやって繋がったのも、運命だと思えるんだっ。だから、お願いっ」
 はにかんだように笑う男の顔に、響の気分は最悪なものへと変わっていく。それでなくても、気持ちは沈んだままなのに。
「俺に――――出来るかなぁ?」
「出来るよ。仲良いんでしょ?ちょっと聞いてくれるだけでいいからさ、ねっ、お願い!」
 男は響が"うん"というまではその態度を止めそうもない。その時、カラリと扉が音を立てて新しい客の来店を告げた。
 響はこの会話を切り上げたくて。そんな姿勢を他の客にも見られたくなくて。もうとりあえず今のこの瞬間から逃げたくて。
 コクリと小さく、頷いた。




・・・・




 昔まだ子供だった頃、普通の家族に憧れたけれど、そんなものは小さな時に手のひらからサラサラと零れ落ちた。どれだけ期待して、どれだけがんばっても結局それは裏切られる事が分かって、期待する事が怖くなって、いつしか期待するなんて事もがんばる事もなくなっていた。
 そして、誰も好きになんてなれなくなって、自分の心がカサカサに乾いていっている事にも気付かなくなっていた。
 そんな響に、高校の時出会った剛が心の中を気付かせた。それは、結構つらい事だったけれど、救われたと思う。寂しい事も、孤独な事も認めなきゃいけなくて、人を信じたり好きになったりする感情がなくなっている自分と見詰め合うのは、凄く嫌だったけれど。剛の家もあったかくて、家族も優しくしてくれて、救われた。人並みの学生生活っていうのを味わえたのだって、それは全部剛のおかげだと響は思っている。
 ちょっとは人間らしくなったな、そんな風に剛に笑われたのはいつだっただろうか。
 それでも、誰かを好きになんてなれないと響は思っていた。長い間そんな感情を置き去りにしてきて。たくさんの女の子とたった一夜限りの恋もしたけれど、それは全部"ごっこ"だったから。今更もうそんな感情は取り返せないんだろうと思っていた。
 咲斗と出会って、心より身体が先に繋がった関係に、ある意味響は救われた。心なんてもらってもきっと信じられなくて、自分に心がないことに戸惑うだけだったと思うから。
 気持ちよりも快楽があって、それだけでもいいとどこか開き直っていた。マンションの部屋に閉じ込められて、全てが与えられて与えられない生活。そんなものかと、どこか割り切る思いが心の奥底にあった。
 それなのに、てっきり失くしてしまったと思っていた心が、咲斗の想いに引きづり出された。鍵をかけて戸棚の置くに閉まっていたはずの心が。
 そしてこんなにも、人を好きになった。なってしまった。
 咲斗さんがいたから、家にだって帰ってこれた。全部に決着をつけて、母も許せると思えたのだと思う。ちゃんと自分の居場所だって思えるところが出来たから、心のどこか、まだ片隅でしがみついていた家を捨てて来れたのに。
 今更もう後戻りなんて出来ないのに。心を失くしたモノでなんていられないのに。
「響・・・?」
「あ、おかえりなさい」
 いつもの時間に咲斗が帰宅すると、響がリビングを暗くしたままでDVDを見ていた。
「どうしたの?寝てなかったの?」
 いつもはベッドの中でうとうとしている響なのに、起きているなんて珍しい。別に明日が休みというわけでもないこんな日に。
「うん。なんかぁー、寝れなくて」
 そういう響の手元には、缶チューハイの缶が開いてある。どうやら少し飲んでいたらしい。響は見ていたDVDを切って咲斗に近づいて、コートを脱ぐのを手伝ったかと思うとその体をぎゅっと抱きしめた。
「咲斗さんだ」
「うん。俺だよ?どーしたの?」
 いつもと違って甘えてくるような仕草に、咲斗は少し驚いて。それでも、ぎゅっと響の身体を抱きしめ返す。すでに風呂に入ったらしく、リンスの香りが咲斗の鼻に香る。
「こんなに冷えて。風邪ひいちゃうよ?」
 手のひらに触れた頬が想像以上に冷えていた、咲斗は顔をくもらす。よくよく見れば普通のTシャツ1枚という薄着なのだ。
「・・・風邪、ひいたら迷惑?」
「えっ・・・、まさか迷惑なんかじゃないよ。ただ、響が苦しそうなのを見たくないから。そんな事になったら心配で胃が痛くなっちゃうけどね」
 本当に、そんな姿を想像するだけで胃がキリキリしてして、眩暈がしそうだ。熱なんか出そうものなら、ちゃんと見ていなかった自分が許せなくなりそうだと咲斗は思う。
「熱とか出たらしんどいよ。おいしいご飯も食べられないし、苦いお薬も飲まなきゃいけないし。注射とかもしなきゃいけないかも。嫌でしょ?」
 18にもなった青年に向けたというよりは、明らかに子供に向ける様なあやす言葉を咲斗は告げて、安心させるように頭をぽんぽんと叩いてやる。
「注射は嫌だ」
「なら、ほらもうベッドに入って」
「ベッドも冷たいよ」
「え?」
「誰もいないベッドは、ここよりもっと冷たい・・・」
 いつもは気にならないひんやりとしたその感触が今日はどうしても嫌で、響は一人ベッドに入るのが嫌だったのだ。その冷たさに、なんだか心の芯まで冷える気がして怖かった。
「じゃぁー・・・一緒にお風呂入る?」
「え?」
「一緒にお風呂に入ってあったまって、一緒にベッドの中に入ろう?」
「いいの?」
「もちろんだよ?」
  咲斗はにっこり笑いながらも、泣きそうになる切なさがこみ上げてきた。いつもは、こんな事を言うと恥ずかしがって真っ赤になりながら嫌がる響が、こんなにも不安そうな視線を自分に向けてきている。それがどうしようもなく、切なく苦しかった。
 ――――何があったの!?
 今すぐにでも問いただしたいその言葉が喉まで出ているのに、そのたびに由岐人の顔が浮かんできて、どうしても言えなかった。突然のように切り出して尋ねてきた昔の事。それが、響の今の悩みの原因である事を物語っている様にしか思えないから余計に踏み込んでいけなかった。
「じゃぁ、行こう」
 響の手を取って、咲斗は自分の指に絡めさせて風呂場へと向かそうとしたのだが、響がその場から動こうとしない。
「響?」
「・・・、俺は・・・」
 響の声が、少し震えている。
「うん」
 きっとそれは寒さの所為ではないとは分かっていても、咲斗は早く暖めてあげたくなる。
「ここに、いても・・・・・いいの?」
「っ、響!?何言ってるのっ、当たり前だろっ」
 本当に思いもよらなかった響の言葉に、思わず咲斗は声を荒げて響の肩を強く掴んだ。
「あ・・・、ごめん」
 強い咲斗の反応に、言った響が慌てたように瞳をさまよわして、また俯いてしまう。
「響が、ここにはもう居たくないって言っても、俺はそれを許してはあげられない。縛り付けてでも、ここにいてもらうから」
「――――咲斗さん・・・」
「本当は、仕事なんてどうでもいいくらいなんだよ?仕事している半日に間離れてるのだって本当は嫌で、ずーっと響にひっついて、そばに居て、1日中抱きしめていたいくらいなんだから」
「・・・・俺、でいいの?」
「響以外誰もいらない」
 即座に言い返される言葉に、なんの迷いもない。
「響がさ、ここに来てすぐの頃。俺は仕事もしないで、ずっと響のそばに居たよね。一緒に眠って、目が覚めたら身体を重ねて、ずーっと抱き合っていた。あの頃はまだ、心が通ってなくてそれはそれでつらかったけど、ああいう生活は俺の理想だよ」
 本当に何もいらない。何もない世界でもいい。咲斗には、響さえいてくれれば、それ以外のものは本当になくても、生きていける。全ての物が与えられても、響を亡くしたら、きっとそっちの方が生きてはいけないのだ。
「じゃぁ、今度の休みは、ずっとそうしてよう?」
 少し涙の色の混じった声で響が泣き笑いみたいな顔をして笑って言う。
「―――‐うん」
 咲斗もまた、切なさに胸が捕まれるような苦しさに、泣きそうになりながら笑った。













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