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――――響が、ここにはもう居たくないって言っても、俺はそれを許してはあげられない。縛り付けてでも、ここにいてもらうから その言葉が、響にはとてつもなく嬉しくて、凄く尊かった。だから、もう少し勇気を持てたのだろう。もう少し、もう少し信じよう、がんばってみようと思って切り出された言葉。けれどそれに、さらに深く傷つく事になるなんて知りもしないで。 「咲斗、さん」 後ろから響を抱きしめるようにして湯船につかる咲斗に、響は顔を前に向けたままその名前を呼んだ。 「なに」 あやすように甘やかすように、咲斗は優しい声を響の耳の落としてくれる。そして、ぎゅっと響の身体を抱きしめた。 「咲斗さん、のタイプってどんな感じ?」 「タイプ?」 言葉の語尾が変に上がった。この響の問いかけも咲斗には以外な物だったらしい。今更何を、咲斗にすればそんな感じだったのだろう。 「うん。好みのタイプ」 けれど、響はいたって真剣な様子。ドキドキしながら口にした言葉だった。 「響」 「・・・なに?」 「違うよ、呼んだんじゃなくてタイプを言ったの。俺のタイプは丸ごと響だよ」 「・・・俺?」 「うん、そう。響が俺のタイプ」 咲斗は本当ならこの甘い言葉に乗せて、ここでいたづらに胸や腹などに指先を伸ばしたいところなのだが、さすがに今日はそんな雰囲気にはなれない。だからせめて、ぎゅっと愛しそうにその身体を抱きしめる。好きで好きで好きで、どうしようもない気持ちを伝えるために。 「俺って、どういうの?」 「うーん、甘えたなのに、意地っ張りで。ちょっと照れると耳が赤くなって、それを誤魔化すように怒った顔を一生懸命作ったり。何事にも一生懸命なところも好き。その真っ直ぐな心もすき。でも、1番は笑顔かなぁ。笑顔がすっごいかわいい。照れながら笑った顔なんて、最高かな」 その笑顔を見るたびに、この笑顔だけは何があっても守りたいと咲斗は思っているのに。その言葉は、響には違う意味を持って届いてしまう。 ――――・・・笑顔、か 日付が変わる前に見た男の笑顔が頭の中を駆け巡る。 「かっこいい、より、かわいい系・・・だよね」 「もちろん。だって、響はかわいい系でしょ」 響がかわいいって言われるのは嫌がるのを知っていて、咲斗はわざとその言葉を口にしてみる。いつもならその言葉に怒って、頬を朱に染めて拗ねたような顔になるから、そんないつもの響を咲斗は見たかった。その顔が大好きだったから。 けれど、響の口から漏れは言葉はたった一言だった。 「・・・そっか」 ぽつりと吐き出されるため息と混じる言葉。 ――――やっぱり、かわいい系なんだ。あの人、かわいい系だもんね。やっぱり、あの人を忘れられなくて、なんとなく似てる感じの俺なのかな・・・・ 「そうだよ。だから好みは響なの」 からかうように明るいで、咲斗が響の耳に口を寄せてささやく。必死で明るい言葉をかけるのに、その言葉が響には全然届いていない事が、咲斗の心を苦しめた。それはまるで誰かに踏みつけにされているような痛さ。今までは簡単に通じていたような気がする気持ちが、今は本当に遠い。 ぎこちない沈黙が浴室に流れた。 そして再び、響が口を開いた。それは、ずっとずっと気になって、聞きたくて聞きたくて、怖くて聞けなかった問いかけ。 「咲斗さんは・・・・、どうしてあの屋上にね、上ったの?」 「――――え?」 「俺と会った屋上。・・・・どうして?」 ――――どうして、死のうと思ったの?・・・死にたい、と思ったの? お風呂に入って湯船につかって、その身体はしっかりと温まってきているはずなのに、今響の顔は緊張に青ざめて、小さく震えていた。 響の身体を抱きしめている咲斗にもそれは当然伝わっていた。やっぱり過去の事に何か関係があるんだ。それはもしかしたら、そんな風な思いから今確信へとはっきり変わって。咲斗は緊張にゴクリとつばを飲み込んだ。 「全て――――全てから逃げたかったんだ」 遠い記憶が、忘れたくて忘れられない過去が、咲斗の元に舞い戻ってくる。 「・・・全て?」 「うん。あの頃は、色んな事を一人で抱え込んでいて、その全てを投げ出してしまいたい衝動に駆られていた・・・いや、囚われていた、かな」 響が、小さく息を吸い込んだ。 「それは、――――前の恋人の事も、あるの?」 答えを聞きたくて、聞きたくない。聞きたくないけれど、聞かなければもう前へは進む事もできなくて、響は緊張で声が喉に張り付きそうになりながら、言葉を搾り出した。 「・・・うん」 「そう、なんだ」 ――――やっぱり、そうなんだ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ どこかでその答えは分かっていた事なのに。否定されるはずはないと分かっていたのに。響はもしかしたらなんて一理の期待を寄せていたけれど、その期待は見事に打ち砕かれた。 嫌いで別れたわけじゃないから。きっと咲斗さんはつらかったんだよね。死にたくなるくらい、本気だったんだ。それぐらいに、恋焦がれた人だったんだね。 響はぎゅーっと唇をかみ締めた。そうしないと、ここで声をあげて泣いてしまいそうだったから。口の中に鉄の味が広がっても、ぎゅっと強くかみ締めた。そんな痛みよりも、心の方がずっとずっと痛かったから。 「・・・つらかったんだ、ね」 「まぁ、色々とね」 咲斗は曖昧に言葉を濁した。 「・・・その、色々ってなに?」 「・・・まぁ、色々かな。もう過去の事だから」 響を抱きしめる咲斗の腕の力が、ぐっと強くなっていく。それは今は言葉に出来ない憤りと、焦りと苛立ちと、そんな色んな思いが入り混じっているのだが。響には腕の力が強められた事にも気付かなかった。それよりも、泣きたいのを堪えるだけで必死だった。 ――――俺には・・・言えないって事・・・なんだ。 きっとあの人は知ってるんだろうなぁ。そのときの咲斗さんを支えたんだもんね。それは、俺には出来ないし、わけてもくれないんだよ、ね・・・・ 響の心の中に、認めたくなくて隅に隅に追いやっていた答えが、ぽとりと心の真ん中に落ちてきた。 「もう、のぼせそうだし、上がるっ」 さっきまでの口調とはうって変わって、明るい声で響は言うとザバっと立ち上がった。抱きしめていた咲斗の腕を、無理に振り落として。 「響!?」 いきなりの行動に、咲斗は慌てたように立ち上がろうとすると、響がその肩をぐっと押さえる。 「咲斗さんはまだダ〜メ。俺が着替えた頃にあがるの」 座っている咲斗の左肩を、湯船から出た響が左腕で抑えているために、咲斗が顔を巡らしても、響の肩が邪魔してその顔がよく見えない。 「なんで?」 顔が見えない不安を咲斗は押し殺して、不満げな声を明るい調子で言う。 「恥ずかしいのっ。急に恥ずかしくなってきたからダメっ。絶対だからね」 その口調はいつも通りの響で、慌ててばたばたと上がっていった。結局顔を咲斗は見ることはなかったけれど、確かに耳が赤くて恥ずかしそうにしているのを見ると、いつもの響に思えて。普段なら嫌がる響がかわいくて絶対ついていくのだが、今はそっとしておいたほうがいいかと、咲斗は響の言いつけに従った。かけてあげれる言葉がみつけられない気まずさから、咲斗は逃げてしまったのかもしれない。 もし今強引にでも咲斗が響の顔を見ていたら、それがいかに考え違いだったかを知る事が出来たのに――――― 響は、ああ言ったものの咲斗が大人しく従うか分からなかったので、慌ててバスタオルで身体を拭いて、そのタオルを頭からかぶった。瞳からは堪えきれない涙が次々と溢れてきていた。それを強引にバスタオルでこする。 ――――俺じゃぁ・・・、ダメなんだ。 その事実は、響を打ちのめすには十分だった。 咲斗の苦しみも悲しみも、何も分けてはもらえなかった。一緒に背負わせてもくれなかった。その手を差し出す段階で、拒否されてしまったのだ。 ――――咲斗さんには、本当は・・・・俺じゃなくて、あの人が必要なんだよね・・・ ぽとりと落ちてきたその答えは、認めてしまうにはあまりにも苦しくて。大声を上げて叫びたいけれど、咲斗がいる今はそういうわけにもいかなくて。 そろそろ風呂から上がってきそうな咲斗の気配に響は慌ててバスルームを逃げ出して、競りあがってくる吐き気に胃を抑えながらベッドの中にもぐりこんだ。 せっかくあったまった身体が、芯まで冷えていくのを感じながら。 今は咲斗に抱きしめて眠る事もつらすぎて、咲斗がやってくる前に眠りに落ちてしまいたくて必死で目を瞑った。そんな事出来るはずもないと分かっていながら―――― ・・・・ 今日は夕方からバイトなので、その前にと洗濯物を取り込んでいた剛の部屋にチャイムが鳴り響いた。誰だろうかと、勧誘だったら無視だっ、そんな思いで出てみるとそこには響が立っていた。 いつもと違う雰囲気に内心驚きながらも、いつも通りの顔を作って部屋へと招き入れた。響の様子に、剛は先日の由岐人の言葉が頭をめぐる。いつもなら慌てて響に連絡を取るところなのに、由岐人のことが頭から離れずに、あの言葉が頭を離れずに連絡を取るのを躊躇われたのだ。顔を合わせて、どうしていいのかわからなかった。 ――――近親相姦・・・ そんなものが本当に咲斗と由岐人の間であったとは信じられなかった。信じたくもなかった。冷静になればなるほど、やっぱりあり得ない様に思えていたけれど、それならば由岐人の言葉は何を意味するのか。それがどんどん分からなくなっていた。 そんな状況で、こんなにどんよりとした響がやってきたのだ。剛としても内心穏やかではいられなかった。けれど、そんな言葉を軽く口にする雰囲気もまた今の響にはなかった。 そして今、響はなぜか剛の洗濯物をたたんでいる。 「別に、いいぜ?」 確かに一週間分きっちり溜め込んだそれは、結構な量にもなってはいたけれど、別に人の手を借りなければいけない程でもない。 話があって来たはずなのに、響は口を開く気配がなかった。 「俺さ、もうすぐバイトに行かなきゃいけないんだけど」 「あ、うん。俺もバイトあるから」 バカみたいに丁寧にTシャツをたたみながら、そこから視線もはずさないで響は口を開いた。きっとその口調が、まったく抑揚がないことには気付いていない。 そんな響にはばれないように、剛はそっと息を吐いた。なんだか、軽口を叩く空気にもならない。いつもなら、"奴と何があったんだよ"と、半分鬱陶しげに尋ねたところで問題はないのに、今の響にはそれをさせない空気があって、自分もそれを軽く言う勇気が持てなかった。 二人は結局押し黙って、黙々と洗濯物を畳んだ。 二人でしたために、思ってたより早く済んだので少し時間が余ってしまい、二人してソファにもたれてお茶を飲んで。夕方の地域密着型の番組を、クスリともしないでただ見つめて。 時間が来た、と剛が立ち上がると、それにつられて響も立ち上がった。 剛は用意してあった鞄を肩から提げて、響はマンションの前に止めてあった原付を押しながら駅まで向かう。 その間も、二人の間には一切会話がなかった。 「じゃぁ、俺行くわ」 駅について、剛は響に軽く手を振る。 「――――剛」 「んー?」 やっとあげた響の声に、剛は内心ビクっとしながらも、いつも通りけだるそうに声をあげて軽く振り返る。それは響への気遣いというよりも、精一杯の剛の虚勢だった。 けれど、そこに紙のような顔色の響を認めて、剛の目線が強いものへと変わる。 「あのマンションに、俺――――越してきてもいい?」 「ああ、いいぜ」 言われた言葉に、剛は思いっきり殴られるくらいの衝撃を受けたのだが、一切顔色を変えずに、それどころか余裕ぶったにニアリとした笑みを浮かべた。 後にして思えば、奇跡に思えるだろう。 「本当は一緒に住む予定だったんだし、引越しがちょっと遅れてきただけだろ」 「――――うん・・・、ありがとう」 「いーや。あ、俺まじでやばいから、そろそろ行くぜ」 「うん、気をつけてね」 そのせりふに、原付で行くお前に方がよっぽどマズイんじゃないかという言葉が喉まで出てきて、それを今は口にはしないほうがいいと飲み込んだ。 きっと、今は軽く受け流してやるのが、響には一番良いと思えたからだ。 剛は再び、手を振って軽い足取りで改札奥へと消えていった。実際は、かなり重い足取りだったのだが。全てがばらばらのピースが剛の頭の中に山積みにされていた。由岐人の言葉。どうしてかわからない、頑なな拒否。由岐人と咲斗の結びつき。咲斗と響。響の今の言葉。全部がぐちゃぐちゃでばらばらで、決定的な何かが欠けていた。 完全に響の視界の中から姿を消してから、剛は携帯を取り出して時間を確認した。 「・・・今から寄り道してる時間はない、か・・・」 そう剛は呟きながらも、何かを考えるようにじっと携帯の液晶画面を見つめていた。
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