■12■
バイトに向かうにはまだ少し時間のあった響は、剛の家からバイト先へと向かう途中の川岸に、原付を止めてボーっと川を眺めていた。 なんで、バイトになんて行こうとしてるのか、響自身にもわからなかった。本当は行きたくなかった。もしまたあの男が来たらと思うと、足に鉛が付いたように重くなって前へ進む事を拒んでいるのに。それでも、いつも通りの日常から逸脱することが、怖くて仕方がなかった。もしその一歩を踏み出してしまったら最後、全てが崩れ去ってしまうようで。日常にしがみついていた。 咲斗と住むあのマンションを出たら、きっとバイトなんてしている意味もなくなるのに。 今ここで、全ての記憶がなくなって、真っ白になれたらどれだけいいだろうかと思う。このままここで、心も亡くしたただの石ころにでもなってしまえたら、そんなに楽な事はないと思うのに、それも出来るはずはない。 「・・・・はぁ」 ――――疲れた・・・・ もう考える事に疲れてしまった。 ――――咲斗さんには俺じゃなくて、あの人が必要だなんて・・・・ 考えたくもなかった。 剛には、たった一言言葉を告げるだけで精一杯だった。それ以上は口に出来なかった。それ以上言えば、今は必死で堪えているものが全て壊れてしまう。 どこかうつろな瞳で空を見上げれば、空はもう黒くなり始めていた。つい一ヶ月前までは、やっと涼しくなってきたなんて話をしていたのに。もう、冬が近い。 どれぐらいそうしていたのか、響はバイトに行かなければとのろのろと立ち上がったのだが、足元がおぼつかなくて、少しふらついた。 ――――ふゆ・・・一緒に越せないのかな・・・・ 大好きな人と一緒にすごす、初めてのクリスマスだと思っていたのに。今年は25日はお休みで、ゆっくり二人で過ごせるから、どう過ごそうかなんて色々考えていたのに。全部無駄になってしまった。 響はよろよろと坂を上って、止めていた原付に近寄った。 ――――あ・・・、これ買ってもらったお金返してないや・・・・ 通帳が手に戻ってきたときにお金を返すと言い張った響に、咲斗は頑として受け取らなかった。8000万返してもらったからいらない、と譲らなかったからだ。そういえば、服も買ってもらったし、シェイカーやお酒類も買ってもらった。それだけじゃなくて、たくさんたくさん、お金なんかじゃ買えない色んなものをもらったのに。 ――――な・・・んにも、返せないんだ・・・ いや、もしかしたら咲斗さんは、俺じゃなくて彼にしてあげたかったことを俺にしただけなのかも。 ――――あ・・・そう、なのかな―――― 「ふっ・・・え、えっ・・・・」 響はその場に崩れるようにしゃがみこんだ。立っている事が出来なかった。原付の鍵を握り締めて、嗚咽をかみ殺す事もできなくて、18にもなった大の男が道端で泣き崩れていた。それを、かっこ悪いとも恥ずかしいとも思う余裕も、響にはなかった。 ――――繋がっていたい たとえあのマンションにいられなくなっても、もう好きでいてもらえなくなっても。繋がっていたいと思う。けれど、そう思うと同時にそんな事は出来ないとも思う。あの男の横に立つ咲斗さんを見て、つい最近まで自分に向けられていたと思っていたあの優しくて甘い視線を、そうじゃなかったんだと認めさせられて。他の人に向けられる姿なんて、きっと正気では見ていられないと思う。 「・・・っ、ええ・・・ふぇ・・・っ」 好きで、好きで、好きで好きで。どうしようもないのに。こんなにも好きなのに。こんなにも、こんなにも全身で全部で、咲斗が好きで好きで、好きで好きで、どうしようもなくなっているのに。 そばにいたい。ただ、そばにいたい。そばに居て欲しい。そばに居させて欲しい。好きって言って笑って欲しい。好きって言って抱きしめて欲しい。 それだけの望みなのに。それ以外何もいらないのに。 本当に、何も知らないであの部屋に鎖で繋がれていた頃が懐かしい。あのままでいればよかった。何も知らないで、咲斗のことも好きになんてならないで、乾いて諦めて、ただ身体だけの繋がりであったなら、どんなにか今良かっただろうか。きっとこんなに苦しい思いを知らないですんだのに。 ふと、静かな空気を切り裂いて車の音がした。 「――――響、クン?」 どこか遠くの音かと思ったら、急ブレーキの耳障りの音がどこか響いて名前を呼ばれた。響の身体が大きく揺れる。それは、今一番聞きたくない声に似ていたのだ。 「響クンだよね?」 そんな響の思いをしるよしもない男の足音が、近づいてきた。響は恐る恐る顔を上げる。 「やっぱりっ。こんなところで、一体どうしたの!?」 今一番会いたくない男が心配げな顔で近寄ってきて、響と視線を合わすようにしゃがみこんでくる。泣いている様子の響に、男は無言でハンカチを差し出した。 「すいません」 「ううん、大丈夫?」 「・・・はい」 男の顔を目にして、何故だかわからないけれど響の瞳からは流れ出る涙が止まった。嘘のように身体が乾いていくような感覚に襲われて、涙も出ないらしい。 「何かあったの?いつも話聞いてもらってるばかりだから、よかったら今度は僕が相談に乗るよ?」 「・・・いいえ、平気です。ちょっと仲良かった友達と喧嘩しちゃっただけなんです」 言い訳なんて何も考えていなかったはずなのに、すらすらと口から吐き出されていく。その自分を、響はどこか遠くから眺めているような感覚になっていた。 「そう?ならいいけど・・・」 「すいませんでした。俺、バイト行かないと」 響は不自然なくらい男の視線を避けて頭を下げて、ふらりと立ち上がった。どこか雲の上を歩いているような、ふわふわした感覚。身体がふらりとまたふらついた。 「おっと!・・・本当に大丈夫?――――ちょっと熱あるんじゃない?」 男が支えた腕に響の手が触れて、本当なら冷たくなっていなくてはいけないのに、暖かいその体温に眉をしかめた。 「大丈夫、です」 その手を響はさりげなくふりほどいて、原付の鍵を差し込んだ。 「休めないの?」 「あの、本当に大丈夫ですから。ありがとうございました」 声なんか聞きたくなくて。優しい言葉も聞きたくはなかった。もう係わり合いにもなりたくない。自分にとって最愛の、たった一人の人を奪っていってしまう男。この男がもっともっと嫌な人ならどんなにか良かっただろうかと思うけれど。憎む事も出来ない。ののしる事も出来ない。 まして、咲斗自身が響よりもきっとこの男を必要とするだろう。 それを考えるだけで、目の前が真っ暗になって闇しかない世界に叩き落されていく気がする。きっともう2度とそこからは這い上がれないのに。 響はふらふらする頭と、こみ上げる吐き気を無理矢理無視して原付にまたがった。エンジンをふかして、男に頭をペコっと下げると原付を発進させた。 「後で、店に行くよー!」 ――――・・・え? エンジンの音にかき消されないような大きな声で、男が後ろから声をあげた。それは、聞きたくもないのに響の耳にもちゃんと届いてしまう。 「後で、様子見にお店に行くからーっ、気をつけてー!」 当然響は振り返らない。それどころか、聞こえていないふりをして、スピードを上げた。一分一秒でも早くこの場所から遠ざかりたかった。 だから、男が今まで見せた事もないような冷えた蛇のような顔でにやりと笑って響の姿を見送っていた事には、まったく気付きもしなかった。 それが男の本性なのに。 「――――何、してるの!?」 その男の後ろから、声をかける男がいた。その男も響と同じ。行き場のない想いを胸に抱えて車を走らせていた。 携帯には咲斗からの着信を何度も告げていたけれど、それを出るのも嫌だった。きっと店に行けば問い詰められるだろうとわかっていても。だからついつい行きたくなくなって、それでも行かないわけにはいかなくて、この道を抜けて左へ進むのが店への近道だったからと、通りかかったのだ。 由岐人は今見た光景が、信じられなくて顔が強張っていた。 男は、ゆっくりと声のしたほうへ振り返る。 「――――そのじゃべり方は・・・由岐人」 その顔からは一切の表情が消えて、その瞳だけがぎらぎらと激しい憎しみの色に揺れて、由岐人を見据えていた。口元だけが奇妙につりあがる。 「元気そうじゃないか」 完全に見下したような、バカにしたようなトーンで話しかけた。 「どうして、響と一緒にいたの?」 けれど、由岐人はそれどころではなかった。今目にした事があまりの事で容易には信じられない。いや、信じたくもなかった。 「ああー由岐人も響クンとお知り合いなんだぁ〜。僕はね、たまたま行った店でバーテンしてたのが響クンだったんだよ」 「嘘だっ」 そんな偶然あり得るはずがない。男は全て調べてわかった上で、響に近づいたに違いないと、それだけは由岐人にははっきりと分かった。 由岐人は紙のように真っ白な顔色で、どこか恐怖におののいている様にも見えた。その態度には、いつものような余裕っぷりもわざと作った嫌味っぽさも消えている。 「嘘じゃないさ。響クンが、あいつと付き合ってるのなんて、僕は全然知らないよ?」 くすくすと笑い声を漏らして、男は由岐人の態度をおもしろがっている。 「どうしてっ、どうして響に近づいたんだ!」 由岐人の高い悲鳴にも近い叫び声が、人気のなくなった堤防沿いに響く。 「なぁなぁ、もしかしてって思うんだけど。もう許されてるとか思ってないよな?」 「・・・え?」 男がにやけていた口元を元に戻して、その表情を失う。まっすぐな瞳だけが変わらず由岐人を睨み付けて、それはまるでゴミでも見るように蔑んでいた。 「仕事も順調で、あいつは新しい恋人まで手に入れて。もしかして、このまま幸せになれると思ってたのか?人の家族をめちゃめちゃにした人殺しのお前たちが!?」 「咲斗は、咲斗は関係ない!」 それは、自分だけが背負っていかなければいけない十字架。咲斗には一切何の関係もない。 由岐人はぎゅっと拳を握り締めた。爪が手のひらに刺さって、血が滲んでくる。その痛みだって、心の痛みにはかなわない。どうしようもないくらいに後悔しているのに、過去には戻れないから背負っていくしかない。 けれどもう、咲斗のあんな顔を見たくない。傷つけたくない。十分に傷つけたのだから。そうれなのに―――――― 「お前はさ、自分が傷つくよりあいつが傷つくほうがツライだろ?ぜーんぶお前の所為なのに、ただ双子ってだけであいつは一生幸せになれないし。あの、響って子も幸せになんかさせない」 ――――やめてっ。 「響は、響なんてまったく何も関係ないじゃないか!!」 泣きそうに顔を歪めて声を荒げる由岐人に、男はさも面白そうに笑い声をあげる。由岐人が苦しそうな顔をすればするほど、男はどうしようもなく楽しくて仕方がないらしい。 「なぁ―――――――剛って奴は、どうしてあげようか?」 「やめろっ!」 その名前がとどめだったのか、由岐人は男に飛び掛った。男の胸倉をグっと掴んで、締める。 「おいおい、次は暴力?」 「僕が憎いなら、僕に復讐すればいいっ」 ――――だから、もう関係ない人たちを巻き込まないで。これ以上苦しめないで。自分はどうなったっていいからっ!! 「だから、それじゃぁ意味がない」 「僕が・・・僕が死ねば、気が済むの?」 「おいおい、冗談だろ?僕の憎しみはそんなに安くないし、楽でもないよ。僕は、一生お前が苦しんでいる姿が見たいんだ」 胸倉を閉めあげている由岐人よりも、男の方がずっと楽しそうに笑っている。由岐人の方が今まさに首を絞められている子供のように、苦痛に歪んだ顔をしているのに。 行き場を亡くして見失って、真っ青になって泣き声をあげる子供のように。 「離せよ」 「・・・・」 「いい加減、離せよ」 見下すその視線よりも、言葉の方がずっと由岐人には突き刺さっているのだろう。由岐人は言われるままに力なく男の胸倉から手を離した。その右手はだらりと力なく垂れる。ふらふらっと、2、3歩後ろへとよろめくように下がった。 「クックックッ、由岐人、――――最高その顔」 唇をかみ締めて、絶望に打ちのめされた顔で呆然と男を見上げる由岐人を、男はこれ以上おもしろいものはないとでも言うように、げらげらと指を指して笑った。 その間、由岐人は一歩もその場を動けなかった。立っている地面すらグラグラと揺れているようで、何がまっすぐでなにが平行なのかも見失いそうだった。 「これで終わりなんて思うなよ?お前は一生逃れられないんだから」 そんな由岐人に男は冷たい一瞥を投げかけて、悠々とした足取りで車に戻って、その場を走り去った。 由岐人はその車を呆然と見つめて、ふらふらとその場に崩れ落ちた。
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