■13■



 バイトには随分遅刻してしまってた。
 響は急いでバイト先へと原付を走らせていた。
 男の最後の一言が耳について離れなくて、それが嫌で振り払いたくて、まるで何かに追われているようにスピードを上げた。
 危ないとは思っていた。けれど、スピードを緩める事が出来なかった。原付だから、出したってそんなには出ないから平気。そう思って、いつもなら感じる恐怖心よりも、ただただスピード感と流れる風が気持ち良かった。その風はまさに全てを吹き飛ばしてくれる様な気がしたからだ。頭にこびりついた想い、消せない想い、ぬぐえない苦しさややるせなさ、湧き上がってくるどうしようもない感情。そんなもうぐちゃぐちゃになった全部が、風に吹かれて身体の中から全部吹き飛んでしまえばいいと。
 そんな事できるはずもないと分かっていながら、響は風に身をゆだねた。
 溢れ出て止められない涙は、頬を伝わる前に後ろへと飛ばされていく。どんどん頭が真っ白になっていく錯覚に襲われた。
 裏通りを抜けて、やっといつもの通いなれた交差点に差し掛かった。ここを曲がれば店までもうすぐだ。人通りの急に増えるそこを通る時は、響はいつも少しスピードを落として慎重に運転していたのに。
 今夜は何も考えず、そのままのスピードで滑り込んだ。
 ――――あっ!
 響は慌ててハンドルを切った。黒い何かが飛び出してきたのだ。
 ――――危ない――――っ・・・・!!

 そう思った。そこまでは覚えている。


 その直後、響の視界は闇に染まった。










・・・・




 今夜の咲斗はいらいらしていた。それは、上客だけれどあまり好きになれない客に相手をしていた所為ばかりではない。
 響の様子にもう限界だと、咲斗は由岐人と話をしようと思いずっと携帯に電話をかけていた。それなのに、由岐人は一度も出ないばかりか営業時間になってもまだ出勤してきていなかったのだ。
 怒りと焦りと焦燥に駆られる。心の中では今すぐにでも店を飛び出して響の元へ駆けて行きたいと思っているのに。それも出来なくて。経営者としてしなけらば行けない事を、冷静に考えている自分。今笑っている自分が、死ぬほど嫌になりそうだった。
 その時、咲斗はからは見えないフロアに一人青年がやってきた。
「どちら様ですか?」
 高崎は不審げに青年を見つめた。
 いつもどおりに店の入り口に立っていた高崎は、客を店内へと導くのが仕事だ。その店の入り口に、明らかに10代の青年が一人で入ってきたのだ。
「ここに咲斗はいる?」
「社長ですか?・・・あの、あなた様は?」
 高崎は目の前にいる青年がいきなり咲斗の名前を口にし、しかも堂々と呼び捨てにしている事に驚きながらも、冷静に見定めようとしていた。
「剛。そう言ってくれればわかるから」
 明らかに剛は怒っていた。その全身からみなぎる空気が壮絶に怒りを放っていた。もちろん、その空気に高崎は飲まれたりはしないが、内心少しおもしろいと思っていた。中々お目にかかれない度胸だと感心もした。その空気に興味を持って、高崎は咲斗を呼びにやらせた。
 高崎に言われた尚(ナオ)は、フロアに下りていた咲斗の席に行き、そっとその名を告げた。
「・・・剛が?え、一人?」
 咲斗も思いもよらなかった訪問者に、思わず声を出して驚きを表した。
「はい。お一人です」
「そう・・・」
 ――――もしかして、由岐人に何か・・・!?
 ふと浮かんだ考えに、咲斗は顔を引き締めた。そして、失礼のないように客に断ってから立ち上がった。
 営業時間になっても由岐人が店に現れていない。電話も繋がらない。こんな事は今まで一度もなかったことで、誰か何か知っているかもと各店の店長に連絡を取って見ても誰も何も知らなかった。そこに剛の登場とくれば、いやでも先の林の一件が頭をよぎる。
 咲斗は内心の焦りを隠して、優雅にフロアを横切った。
「あ、社長」
 剛より先に咲斗の姿を認めて高崎が声をかける。
「剛が来てる――――っ、ガッ!!」
 ガシャン――――!!!
 咲斗が剛の姿をその瞳に捉える前に、いきなり左頬に強い痛みを感じてそのまま後ろに倒れこんだ。反動で、飾ってあった花瓶が倒れて割れて、派手な音を巻き散らかした。
「社長っ」
「咲斗さん!」
「おい、てめぇ!!」
「何しやがるっ」
「大丈夫ですか?」
 いきなりの出来事に一瞬あっけに取られていた周りの人間も、すぐに立ち直って咲斗に駈け寄る者、剛に詰寄る者と反応は分かれるも反応を返してきた。
「止めろ」
 しかし咲斗もすぐに上体を起こして、剛に詰め寄っていく者たちに静止の声をかけた。到底避け切れなかったその拳に、少し痛そうに顔をしかめる。
「どういうことだ」
 咲斗は高崎の手を借りて、立ち上がる。
「それはこっちの台詞。どういうことだよ」
 剛をにらみつける咲斗の瞳の力も凄いが、剛も負けてはいない。
「響を、幸せにするんじゃなかったのか?」
「――――え・・・?」
 てっきり由岐人の事かと思っていた咲斗はいきなり響の名前が出て、余計に何の事かわからなくなった。
「俺のとこに越してくるって、どういう事だよ!」
 そんな咲斗の態度を、てっきりとぼけているのかと思った剛が怒りに声を荒げた。けれど、そんな話聞いていないのは咲斗の方。
「越してくる・・・越してくるって、え、一体どういう事!?」
 ――――越してくる?越してくるって・・・あの部屋を響は出て行くって言う事!?
 その衝撃に、咲斗は思わず剛の腕を掴んでその身体を揺さぶった。全然意味がわからないのは咲斗も剛も一緒だろうが、咲斗の方が衝撃は大きい。剛の腕を掴んだ指先が、グッと剛の腕に食い込んでいく。
 一体全体いつそんな話になったというのだ。縛り付けてでも、どこへも行かせないと言ったのはつい昨日の事なのに。響さえいてくれれば何もいらないと話し合ったのは、つい昨日の事なのに。そんな事が信じられるはずがなかった。
「って、俺が聞いてるんだ!今日の夕方に響がいきなりやってきて。そう言ったんだ。越してきてもいいかって。本当は響に問いただしたかったけど、今日のあいつは全然そんな空気なくてもう真っ暗で。だから直接ここに来たんだよ。真相を問いただそうと思ってな。返答いかんでは、どうなるかわかわかってんだろうな!!」
「そんなの、こっちが聞きたい・・・・っ」
 剛の口から語られる言葉に、咲斗は吐き出すように言葉を返した。
 響がいなかったら生きてなんていけないのに。息をするのも苦しくて。立っているのもつらいのに。心が引き裂かれて、きっともう死んでしまうと思うのに。響は本当にあの部屋から出て行ってしまうのだろうか。俺を、捨てて・・・?
 そんな事を想像するだけで気分が悪くなってくる。
「響・・・、他に何か言ってた・・・?」
 こんな仕事場で、みんながいる前で泣いちゃいけないと思うのに、たまらない想いがこみ上げてきてしまう。響を失う、それだけでこんなにも恐怖を感じる。
「いや。たったそれ一言だけ」
「・・・・・そう、・・・」
 少し咲斗に落胆の色が出る。
「なんで?」
「・・・最近、様子が少しおかしかったんだ。でも、何も話してくれなくて。もしかしたら剛には話したかなって」
「いや・・・っていうか、そんなこと気付いていたのなら無理矢理にでも聞き出せよ!聞き出してきいてやれよ!聞いてやってくれよ!!」
「それが!!――――それが・・・っ」
 ――――それが出来なかったから・・・・・っ
 咲斗は剛のもっともな問いに、声が詰まる。咲斗には咲斗の理由があって、そこにお前も絡んでるんだとは、今は言えない。
 由岐人はこいつが好きなんだ。
 気がつけばなんて事はなかった。剛からの電話を、そわそわと待って。かかってこない日はおもしそいくらいに落ち込んでいた。そんな自分の態度に由岐人は気づいていないんだと思うと切なくて。由岐人の傷をえぐる事なんて出来なかった。
 その想いが本気だとわかるから、何も言えなくなってしまった。由岐人がその事を誰にも知られたくないと思っているとわかっているから。
 思いを言葉に出来ないもどかしさに、咲斗は苦しそうに剛を見た。その瞳を、剛は強い意思をもって見返してきて。
「それともう一つ。聞きたい事がある」
 ぎゅっと、剛が拳を握った。
「なに・・・?」
 剛が大きく息を吸い込んだ。緊張に顔色を失っている。けれでその覚悟でここまで来たのだから、無理矢理バイトを変わってもらって文句を言われたんだから。ここで逃げるわけにはいかない。逃げたくない。
「由岐人のこと」
「僕が、なに?」
「!!」
 いきなり予想もしていなかった声が傍らから響いて2人はいっせいにそちらを見た。
「由岐人・・・っ」
「何事?って咲斗――――その顔っ」
 営業時間開始から2時間以上も過ぎて、由岐人がようやく仕事場に現れた。どこで消したのか、さすがと言うべきかその顔には涙の跡は消えていた。
「響が・・・、出て行くって――――」
「え・・・・」
 搾り出すような咲斗の言葉に、由岐人のせっかく戻した顔色がまた真っ白に変わっていく。
 ――――あいつ・・っ・・
 ピリリリリリリッ、ピリリリリリリッ・・・
「あっ」
 重苦しい空気を切り裂いて、剛の携帯が着信音を上げた。慌てて剛が携帯を取り出すと、そこには見慣れないナンバーが並んでいる。
「・・・・はい」
 誰かわからない警戒心に、声が疑問系にはねた。
「え!?病院!?・・・はい、ええ――――え、響が、響がですか!?はい、わかりました。すぐに、すぐにお伺いします」
「何・・・・」
 病院という言葉に一瞬声さを失った咲斗の変わりに、由岐人がかすれた声をあげた。その声は震えて、嫌な汗が全身から噴出して胃液がこみ上げてきた。先ほど見た男の笑顔と重なって、最悪な事を想像してしまう。
「響がバイクで事故って、病院に担ぎ込まれたって――――」
「――――嘘・・・・」
「どこの病院!?」
 呆然とする由岐人に、咲斗の方が我に返った。我に返ったというよりは、その反応は本能に近いだろうか。
「上山救急」
「高崎!タクシー回してくれ。病院に行ってくるから」
「はい」
 咲斗の声を聞いて、高崎は横に控えている尚に目配せをして走らせた。
「由岐人、しっかりしろ。とりあえず病院に行かなきゃ」
「・・・・だめ、僕は――――行けない・・・」
 見開かれた瞳は、咲斗に向けているのに咲斗を映し出してはいなかった。衝撃に唇が真っ青になっている。
「何言ってるんだ!?」
「僕の所為なんだ・・・・・・・、全部、僕の――――」
 由岐人の顔がぐしゃりと歪んだ。
「ごめん由岐人。意味がわからない」
「あいつが・・・あいつが現れたんだ――――!!」
 由岐人が悲鳴のような声を上げて、その場に崩れ落ちた。













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