■14■



 咲斗は由岐人の言葉に顔から血の気が一瞬引いたが、その次の瞬間には沸点まで頭に血が上っていた。その表情は、普段の冴え冴えとした怒りの表情ではなくて、純粋に憤りを素直に表していた。それだけに、剛は話のわからない"あいつ"というものに、咲斗が本気で怒っているのが分かって背筋に冷たい汗が流れ落ちた。
 そこへやってきた高崎は、自分が怒られているわけでもないのに、立ちすくんでいるほどだった。
 ――――なんなんだよ・・・・
 見たことのない由岐人の取り乱し方と咲斗を見比べて。剛は言いようもない思いにぶるっと身体を震わした。
「とりあえず、病院へ行こう。話はその後だ」
 咲斗は崩れ落ちて座り込む由岐人を支えて、剛にも当然付いてくるように指示をして。後の事を高崎に任せてタクシーへと乗り込んだ。
 花瓶は派手な音をたてて割れ、咲斗は客を放り出して来てしまったのだから、後に残される店や高崎は大変だろうけれど、今の咲斗にも由岐人にもその事を顧みる余裕はなかった。
 タクシーに乗っているたった数10分が永遠にも長く感じられて、咲斗は指の先まで恐怖で冷たくなっていた。容態は詳しくはわからない。ただ響がバイクで事故って病院へ担ぎ込まれたという事実だけ。
 ――――もし、もし響を失ったら・・・・・!?
 そんな事間違っても考えたくない事が、それでもその思いは頭の中に浮かんで消えてはいかない。襲い掛かってくる恐怖心に息をするのもしんどくなって来て、咲斗は唇を強くかみ締めてなんとか自分を奮い立たせていた。
「大丈夫だよ」
「え・・・・」
「響はそんなに簡単にどうにかなるような奴じゃない」
 バックミラー越しに、前に座る剛が咲斗に言葉を投げかけてきた。そこに写る剛の顔だって青ざめているのに、それでも咲斗を気遣おうとしていた。それくらい、咲斗の顔色は最悪だった。
 やっとたどり着いた病院の廊下を、咲斗たち3人は転げるように響の病室へ向かった。
「響!」
 深夜という時間も考えず、咲斗は響のいる部屋の扉を開けて大きな声で呼ぶ。
「お静かに!」
 帰ってきたのは、響の声ではなくて看護士らしい女の人の声。
「・・・響・・・・」
 そこには病室のベッドの上に上体を起こした姿勢でコチラを見ている響がいた。
「響・・・」
「響っ!」
「お静かにっ」
「あ・・・みんな、揃って・・・」
 響の口から間抜けな声が漏れる。響は頭には包帯を巻いているし、頬にもガーゼがあてられているものの、ちゃんと起きているししっかりもしているようだ。
 咲斗はよろよろと響へ近づいていく。まだ目にしているものが信じられない。
「バイクで・・・事故ったって・・・・・」
「あ、うん」
 咲斗はやっと響に手の届くところまでたどり着いて、そっと手を伸ばす。今にも壊れてしまいそうな気がして、本当にそっと響の頬に手を伸ばした。けれど、触れる前に一瞬ためらってしまう。触ったら、目の前にいる響が消えてしまうんじゃないかと不安になったのだ。一瞬の躊躇いの後、咲斗は勇気をもって響の頬を触れた。
 ――――あったかい・・・・あったかいっ
「響、・・・きょうっ!」
 近くで見たら服は破れて、あちこち擦り傷が見えたけれど、ギブズもしていないし大した事はないみたいだ。それがもううれしくてうれしくて。咲斗は思わず響の身体を抱きしめた。
「イッ・・・」
 途端にあがる響の声に、咲斗は慌てて身体を離した。
「ごめんっ。つい――――ごめん」
 そして今にも泣きそうな顔で咲斗が響をうかがってきた。
「えーっと角川剛さんって人はあなた?」
「いえ」
「あ、それ俺です」
 剛は名前を呼ばれて片手を挙げた。もう片方は今にも倒れそうな由岐人をしっかり支えている。
「ああ、あなたね。じゃぁここに署名してくれる?未成年・・じゃないわよね?」
 剛を見て、看護士は一瞬眉をしかめる。
「未成年です」
「あら。それは困ったわ。冬柴君が未成年だから大人の人のサインがいるんだけど、彼親がいないって言うから誰かいないのって尋ねたらあなたの名前を言ったんだけど」
「・・・・はぁ」
「それ、俺が署名します。俺は未成年じゃないですから。治療費もこちらに請求してください」
 咲斗は看護士の言葉に振り返って言った。
「そう?じゃあ後でナースセンターの方で手続きを聞いて。外傷はたいした事はないんだけど、背中や頭を打ってるから明日正式に検査しますので。それから、もう深夜ですからね、あまり騒がないようにね」
「はい」
 看護士さんは少し笑ってそういうと、軽く頷いて部屋を後にした。パタンと扉がしまって足音が遠ざかっていくのを確認してから、咲斗は響のベッドに腰掛けた。
 その顔が泣きそうになっている。
「バイクで、事故ったって?」
「うん。交差点でね、猫が飛び出してきたのにびっくりしてよけ様として滑っちゃって。電信柱に激突しちゃった。でも、全然大丈夫なんだけどね。一瞬びっくりして気・・・失っちゃったみたいで」
 バイクもダメになっちゃったかも、と小さくバツ悪そうに響が言う。
「痛いところは・・・?」
 響はかっこ悪そうに笑うけれど、咲斗は笑えない。大事がなくてホッとして、それでもやっぱり心配で。怪我をしている響が痛々しくて。自分が不甲斐なくて、そんな色んな思いで頭の中がぐちゃぐちゃだった。
「へーき。先生も、事故の度合いにしては奇跡的に怪我が少ないって」
 へへ・・・と笑う響に、咲斗は泣くのを堪えているのか眉がきゅっと寄せられた。
「良かった・・・・」
 抱きしめたいけど抱きしめられない切なさを、そして心のうちに渦巻く苦しさを咲斗は抱え込んで、掠れた声で呟いた。本当に、数十分の間、生きた心地がしなかったから、神なんて信じないけれど、今だけは感謝したいと思った。
 でも、なんで――――そんな思いを咲斗は口にする。
「なんで?・・・なんで俺じゃなくて、剛なの?」
 泣きそうに声が震えてる。それがかっこ悪いとか思う余裕も今の咲斗にはなかった。
「それは・・・」
 響はばつが悪そうに顔を背ける。
「もう、俺のこと、――――嫌いになったの・・・?」
 響の態度がそう物語っているようで、咲斗の声が涙を含んでいく。
「あいつに、何か言われたんじゃないの?」
 由岐人はふらふらと壁に身体を預けるように立っていた。もちろん剛もその身体を支えている。そうでなかったら、由岐人立っているのも困難なようだった。
 由岐人も響の怪我がたいした事がなくて心底ホッとしていた。ある意味この中で1番ホッとしていたのかもしれない。もし何かあったら、それこそもうどうしていいのかわかならかったから。
「さっきから出てるその"あいつ"って何?」
 剛は咲斗と由岐人の顔を交互に見つめる。きっとその事が、自分にとっても大きな一歩なのだと本能的に悟っていて、ゴクリと唾を飲み込んだ。
「・・・・・中島博成(ナカジマヒロナリ)」
「・・・誰?」
 響は初めて聞く名前に思わず首を傾げる。
「さっきまで、河の堤防で話していた男だよ。名前、知らなかったの?」
「あっ・・・」
 由岐人の言葉に響の顔色がはっきりと変わった。さぁーっと青ざめて、ぎゅっと布団を掴んだ。その反応がなによりの答えだった。
「響、やっぱりあいつに会ってたんだ?」
 咲斗はどこか信じたくなかった事実が本当で、少し声がうわずっている。
「黙ってて・・・ごめん」
 響がさらに顔を下向ける。
「響、あいつに何を言われた?何を――――聞かされた?」
 咲斗の声も少し震えている。緊張に顔色も冴えない。
「あ・・・・、咲斗さん前はあの人と付き合ってたんだよね?」
「っ、ああ、まぁ、ね」
 肯定の言葉に、響の胸はかきむしられた。ポトリと涙が落ちる。
「じゃぁ・・・やっぱり、そうなんだよね・・・」
「響?」
「俺、咲斗さんと別れるね」
「――――――――え・・・・」
 咲斗はぽつりと呟かれた響の言葉が、耳には入ってこなかった。脳が拒否したのだ。聞きたくない。受け入れたくもない。受け入れれるはずもないのだ。
 だって、その立った一言で咲斗の世界は闇に覆われるから。
「別れてあげる・・・、あの人に返してあげる――――っ、わぁ!」
 響の口から言葉が最後まで漏れる事はなかった。そんな最悪の言葉最後まで聞きたくないから、言い終わるよりも先に、咲斗が強い力で響の身体を押し倒してベッドに縫いつけた。
 掴んだ腕に、咲斗の爪が食い込んでいく。その手が、ぶるぶると格好悪いくらいに震えていた。
「わか、れる・・・?何言ってんの?そんな事、出来ると思ってる?」
 ――――そんな事、出来ないっ
「さきと、さん・・・、だって・・・」
 ――――だって今でもあの人が好きなんでしょう・・・・?
「俺から離れていくなんて絶対許さないっ!どうしても、どうしても出て行くっていうなら、閉じ込めてどこへも行けなくしてやるっ!」
 ――――いやだっ。絶対に嫌。
「・・・・・・」
「そう、言ったよね?」
 響は瞬きもしないで咲斗を見上げた。自分を押し倒して見下ろしている、咲斗の顔が――――怒ってるようなのに、絶望感に打ちひしがれている。その言葉を口にした響よりも、深い絶望と悲しみがその表情にありありと浮かんでいるのだ。
 見上げる響の頬にポタリと雫が落ちた。
「咲斗、さん・・・」
 ――――泣いて、るの・・・?
 響にはその涙の意味もわからなかった。自分が咲斗の望む結果をちゃんと出したんじゃないのだろうか?
「だって、咲斗さん・・・今でもあの人のこと――――好き、なんでしょ?」
 その言葉を口にするのが嫌で、間が空いてしまう。
「俺が好きなのは、響だけだよ」
 咲斗の声が、泣いていた。
「それは・・・俺が、あの人に似てるからじゃないの・・・?」
 自分で発した言葉が、響の胸に刺さる。
「あいつと響は全然似てないっ」
「だって・・・タイプ聞いたら、あの人にそっくりだし」
「俺のタイプは響って言っただろ!?あれは、響の事を想像して言ったんだよ?」
「え・・・・っだって・・・」
 ――――あの人、じゃないの・・・?
「響。――――響は、あいつに何を言われたの?」
 壁際から、由岐人の震えた声が聞こえた。由岐人の場所からは、咲斗が泣いている事はみえなかったけれど、それは声だけで十分に伝わっていた。そして、そんなふうにしてしまった原因が自分にあることが、由岐人の心を締め付けていた。
 また同じ事を咲斗にしている気がする。自分の所為で、咲斗を苦しめている。
「昔、咲斗さんと付き合ってたっていうのと・・・、そのとき――――家の事情で別れなきゃいけなくて、嫌いで別れたんじゃないってこと」
「はっ」
 咲斗が吐き捨てるように声を漏らした。
「あの人ね、出来るなら、今からやり直したい――――って」
「あいつっ」
 歯噛みするように苦々しい声を咲斗は漏らした。
「違うの・・・?」
「違うっ。俺たちは憎しみあって別れたんだっ」
 その時の事を思い出すのか、咲斗の顔が苦痛に歪められる。それは出来れば思い出したくもない、消し去ってしまいたい過去でしかないから。けれど、響にはそれがわからない。男の口から聞かされた事と、咲斗の反応があまりにも違っていて、わけがわからない。
 ――――なら・・・・
「・・・どうして?」
「――――え・・・」
「どうして別れたの?憎しみあってって・・・、何があったの?」
「それはっ」
 響のごく当然に思える問いかけに、今までの様子から咲斗はいきなり慌てたような声をあげる。その顔にははっきりと戸惑いが見て取れた。咲斗が躊躇いに瞳が左右に揺れて口を濁す。
 すると、由岐人が口を開いた。
「咲斗は、僕への復讐に利用されたんだよ」













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