■16■
「わかった?」 前を向いて、由岐人はぼそっと言葉を呟いた。それは、斜め後ろで立ち尽くしている剛に向けて発せられた言葉。 「由岐人っ」 咲斗は身体を抱きしめている響の腕をそっと離して、慌ててベッドから立ち上がった。今は響よりも自分の事よりも、もっとも深く傷ついている由岐人が心配だった。結局、最悪な形で剛は過去の事を知る事になったから。二人の距離が、遠くて怖かったのだ。 「ばか。響から手を離してどうするの」 それなのに、少し由岐人が笑った。その笑顔が、咲斗にはどうしようもなく痛々しかった。 「こっちはもう大丈夫だよね。・・・僕は店に戻ってる。高崎一人じゃ心配だし」 由岐人の顔に浮かぶ表情が穏やか過ぎて、咲斗は無性に怖くなった。由岐人がふらふらと2,3歩後ろへと下がると、咲斗はゆるゆると首を横に振った。今一人で由岐人を外へ出せるはずがなかった。 けれど、由岐人はそんな咲斗の思いを否定するように笑顔を浮かべた。その笑顔がどんなに痛々しいか、由岐人だけがわかっていない。 「大丈夫、だから」 ―――― 一人に、して・・・ 今は誰かと一緒にいることが苦痛なんだ。憤りと慰めと、哀れみと同情とそんな色んな思いが混じった視線で見つめられる事が、苦痛で仕方がないから。 一人で大丈夫。一人で生きていく覚悟はとうに出来ているから。 由岐人はそっと扉に手をかけて、それをスライドさせた。扉は音もなく開く。 「響、ごめんね」 ――――僕の所為で、ごめんね。 傷をつけてしまった身体。苦しめてしまった心。それは全部僕の所為だから。本当にごめん。 響はなんでもないと、首を横に目一杯振るけれど。由岐人にはそんな思いは届かない。苦痛と悲しみと絶望の殻に、由岐人はあの日からくるまれたままなのだ。 大好きで大好きで、大好きだった人が父親で。最後には目を背けられて二度と会う事はなかった。母の蔑んだ、蔑視する様な忌み嫌う様な視線で射抜かれて放り出されて。自分の所為で死んでしまった二人。ただ荒れ狂う切ない思いとどうしようもない憤りと、這い上がる事の出来ない切なさに全てを遮断して引きこもって。そこからなんとか飛び出したけれど、結局そのときの思いは整理させることなく蓋をされただけ。後にはどうしようもない孤独と、言いようのない不安と後悔と、自分は決して幸せになる資格のない人間なんだとう自覚だけが残った。 ――――夢を、見ちゃいけない・・・ 「・・・じゃぁ」 由岐人は全てを遮断するように扉を閉めて部屋を出て行った。剛には、一度も視線を投げかけなかった。 その、スライドされた扉が閉まった瞬間、咲斗は剛に駆け寄ってその腕を掴んだ。 「頼みがある」 「え」 「あいつのそばにいてやってくれ」 苦痛に搾り出される声が切なく切羽詰って響く。自分ではどうしようも出来ないのだという苛立ちがあったからだ。由岐人の中でどこか、咲斗に申し訳ないという思いを捨て切れなくて。咲斗の中でも由岐人への後悔と申し訳なさが捨てきれないから。だから二人では、癒せない傷がある。 どれだけ咲斗が言葉を投げかけても、由岐人は幸せには笑ってくれない。 「あいつはお前が好きなんだ」 「――――え・・・・」 真摯な瞳で射抜かれて、呟かれた言葉に剛は一瞬頭が真っ白になった。いや、頭の中はさっきからずっと真っ白だった。告白される内容があまりにも重くて、途中からなんだかついていけなくなっていた。 正直自分にそんな自信もなくて、由岐人の全部なんか背負っていけるかすぐには考えられなくて。体はずっと固まったまま。 そんな剛に咲斗は必死で言葉を搾り出した。 「お前がノンケなのも知ってるし、由岐人をそんな風にも思ってないと思う。けれど、今のあいつには誰かが必要なんだっ!それは、俺でも響でもだめなんだよっ。嘘でもいい!同情でもいいからっ。今はあいつを支えてやってくれ!」 自分じゃ出来ないから、咲斗は剛に頼むしかなかった。由岐人の心が、誰を必要として、誰の腕を必要として、誰の心を求めているかわかるから。こんなの間違ってるかもしれないと思っていても、今はそれしか咲斗には思いつかなかった。 咲斗はそのままその場に膝を折って、剛に向かって土下座した。 「頼む。――――お前にしか頼めないっ」 もしかしたら今より由岐人を傷つけるかもしれない。もっとひどい事をしようとしているのかもしれないけれど。咲斗はただ、由岐人に笑って欲しかった。昔から、寂しそうにしか笑えないあいつに、ただ幸せそうに笑って欲しかった。 これが正しいかどうかなんてわからないけれど、今考えて一番だと思えることに賭けてみるしかないから。 「咲斗さんっ」 その態度に響は慌ててベッドから抜け出て立ち上がるが、それ以上は先へは進めなかった。それは咲斗と剛の問題で、自分が間に入るのは違うと思えたからだ。 咲斗の後頭部を、剛はただじっと見ていた。正直頭は全然回っていない。由岐人の話だけでも一杯一杯なのに、咲斗は今なんと言った?一日の情報量にしては多すぎて、もう随分前から頭の中はパンク状態なのに。 「――――嘘なんかじゃねぇ。同情とかもしねぇ!」 口が勝手に動いた。 「剛・・・・」 響が呆然と呟く。咲斗は頭上でその言葉を聞いて、やはりダメだったかと深い落胆に襲われた。こぶしを握り締めて、唇を噛む。 けれど、剛の言葉はそういう意味ではもちろんなかった。 「俺は、あいつがちゃんと好きだ。好きなんだっ」 剛は自分に確認するように、奮い立たせるように声を荒げた。なにも今は考えられないけれど、難しい事は全然わからないけれど、それだけが剛に真実だった。 まさかそんな言葉が返ってくると思っていなかった咲斗は、ビックリして顔を上げて剛を見つめた。 「俺が、あいつの事は俺が守るから。あいつは俺がもらうからな!!」 剛は咲斗を見下ろして宣言して。自分の言葉に目が覚めたのか、はじかれた様に病室を飛び出していった。 静まり返った病室に、派手な足音をさせて。背後で看護士が何か言っていたけれど、そんな事まったく耳に入っていなかった。 今は由岐人のことしか考えられない。ただ、その身体を、心を、抱きしめてたかった。抱きしめて、どうしたいとかどうだとか、決意とかそんなの全然わからない。ただ、抱きしめて、好きだと言いたかった。 ――――くそっ! なんですぐに体が動かなかったのか。自分のふがいなさに剛は自分で自分をぶん殴ってやりたい気分だった。病院を飛び出してはみたものの、左を見ても右を見てもその姿はいない。 ――――どっちだっ 剛は一瞬の逡巡の後、左への道へ足を踏み出した。そちらが店の方向だったからだ。 「咲斗、さん・・・」 響は咲斗の横にぺたんと腰を落とした。 「響・・・、俺のこと、・・・・・」 本当は嫌いになった?とは、怖くて聞けなかった。格好悪い事に声が震えているのが自分でもわかっていた。さっきまでは抱きしめていた身体に、怖くて手が伸ばせない。 そんな咲斗の気持ちが分かるのか、響が咲斗の代わりに手を伸ばしてきた。そっと咲斗の頬にふれて、濡れた後をこすってみる。 「好き。・・・咲斗さんが、好き」 言葉にして、ほっとしたのか響の瞳から涙が零れ落ちる。それでも、咲斗は恐々と響を見つめていた。響は優しいから、今ここで嫌いになったとは言えないだけじゃないかと思ってしまう。響の言葉を疑っているわけじゃないけれど、昔受けた心の傷は、咲斗にとって深いトラウマにはなっていた。 「俺のこと・・・、嫌になった・・・?」 「まさかっ」 抱きしめてくれない咲斗に、今度は逆に響が不安そうな声をあげた。咲斗はそれを即座に否定する。咲斗が響を嫌いになるはずなんてなかった。そんな事、できるはずがないのだ。 「――――俺、二人は嫌いで別れたんじゃないって聞いて、俺が邪魔なのかなって一杯考えた。昔の話もはぐらかされた時、俺には話したくないのかなって・・・、俺には咲斗さんの背負っているものを一緒には背負わせてくれないんだって思って」 そのときの事を思い出すのか、響の瞳から新たな涙がぽろぽろと零れ落ちる。 「もう俺はいらないんだって思えて。咲斗さんのために、俺はあそこを出て――――出て行かなくちゃ、いけない・・って」 急激に安堵の思いが響に襲い掛かってきて、涙が後から後から出てきて、段々声にならなくなっていく。 「響っ」 咲斗は響の身体に腕を伸ばしてその身体をぎゅっと強く抱きしめた。 「っ」 「あ、ごめんっ」 切なさに堪らず抱きしめてしまったけれど、ここは病院で病室で、響は怪我人なのだ。 咲斗は慌てて身体を助け起こしてベッドへと連れもどして。 「怪我・・・、させてごめんね」 「咲斗さんの所為じゃないよっ」 「俺の所為だよ。響が何かに悩んでいる事はわかっていたのに。問い詰める事が出来なくて。結局こんな最悪な形になってしまった」 きっと臆病過ぎて、どう動いていいのかわからなくなっていた。もうちょっと由岐人と剛が距離を縮めるまで待とう、もう少し。そんな風に先送りにしてしまった自分の所為だと思うから。 「いつも、うまくやれない・・・」 もっとでっかい男になりたいと思うのに。いつも不器用で、失敗して、結局誰も守れないんだ。 「咲斗さん」 ベッドの横にたたづんで、打ちひしがれたように俯いてしゃべる咲斗が痛々しくて、響は再び咲斗の身体に手を回す。 「座って」 さっきみたいにベッドの端に座らせようとその身体をひっぱって、無理矢理に座らせる。少し距離の近づいた咲斗の顔を、響は覗きこむと、咲斗は気まずそうに視線をはずした。 「こっち見て」 その言葉に咲斗の視線が左右に躊躇うように動いて、本当におずおずと響を見つめた。そんな仕草が響は少しおかしかった。いつもと立場が逆になっている。 「いっぱい、誤解してた、よね」 言葉が足りなくて、ちょっと臆病で。お互い好きすぎて、踏み込めなかったから。 「今回の事があって、俺はもっともっと咲斗さんのこと、わかった気がする」 かっこよくて、いつも自信満々で仕事もこなして、颯爽としているようにも見えるのに、すっごく嫉妬深くて独占欲の塊で。ばかみたいに響に甘い。でも、それだけじゃないんだ。いっぱい傷もあって、不器用で、臆病で、本当に本当に優しい人。 「ずーっと、ちょっと不安だった。なんで咲斗さんは俺なんかがいいんだろうって。だから、あの人が現れて、すっごい動揺したんだと思う」 「・・・響」 「心のどこかでね、俺は親に愛されなかったから。普通みんな愛されて育つけど、俺にはそういうのなくて。だから、不安だった。俺にとって咲斗さんは、初めて本当に好きになった人で。だからきっとちゃんと上手く出来てない気がして」 「響っ」 全然気付いていなかった響の思いを聴かされて、本当に自分がどうしようもない気がして、咲斗は響の手をぎゅっと握り締めた。 「不安なのは、俺も一緒だよ。俺も、親には愛されなかった。初めて好きだと思った人には裏切られてた。あれから、人をどんな風に愛して良いのかわからなくて。響のことが好きすぎて、あんな風に始めてしまったかたから。いつか愛想付かされるんじゃないかってずっとずっと怯えてた。愛し方がわからなくて。今だって、全然うまくやれてなかった自分が、最低に思える」 「最低なんかじゃないよ!」 涙の混じった声で、響が拳を作って咲斗の胸をポカリと叩く。ポカポカと何度も叩いて、ぽろぽろと涙が落ちる。 そんな風に言って欲しくない。 「咲斗さんは、誰も傷つけたくなかったんでしょ?俺のことも、由岐人さんのことも」 だから、どんどん臆病になった。ただただ傷つけたくなくて、守ってあげたいだけで。傷つかなきゃ手に入れられないものもあるのだと、分かっていても。 「それは優しいけど、でも違うよ」 きっとこんな事でもなかったら、乗り越えられない事だから。目を瞑っていたってその過去は消せるわけじゃない。無理にでも傷をこじ開けて、人目にさらして認めて抱えて生きていくしか、前へは進めないから。 「剛と由岐人さんがどうなるかわかんないけど、きっと二人なりの答えを出すよ」 「・・・・ん」 「もしその時、二人が傷ついたとしてもそれも必要なんだよ」 裏切られて傷ついた過去があるから、愛されない日々を送った過去があるから、その中でもがいてがんばった日々があるから、今がある。だから。 「俺たちが何か出来るとしたら、きっとその時だよ」 「・・・・うん」 響を抱きしめる咲斗の腕が一層強くなる。響の少し大人びた言葉が、咲斗の胸に染み渡った。昔、傷つけたから、今は守ることだけ考えていたけれど、それじゃぁだめなんだと心のどこかでわかっていたのに、目をそらそうとしていた。 優しいんじゃない。ただ自分が傷つきたくなくて、卑怯だっただけだと咲斗は思う。響の方がずっと大人で、悔しい。悔しくて、嬉しくて、愛しい。 涙が止まらなくて、響の肩口がしっとりと濡れて、咲斗の声が揺れている。 「・・・ねぇ、ちょっと離して」 「なんで?」 先ほどまでと少しトーンの変わった響の口調に、咲斗はふと嫌な予感を感じた。 「なんでも、ほら」 響はそういうと咲斗の服をひっぱって、無理にでもひっぱろうとする。響は滅多に見れない咲斗の泣き顔というのを見たいっと思ってしまったらしい。 「響っ」 その意図に気付いたのか、何がなんでも離れるものかと咲斗はさらにひっついてくる。響の泣き顔はかわいいけれど、自分の泣き顔なんて見られたくない。もう見られた後なのに、今更ながらに思う。 「ずるいっ」 「何が?」 「俺の泣き顔は何回も見てるくせにっ」 「それは、だって」 「・・・・っ!!」 咲斗の指が響の背筋のくぼみをすーっとなでおろしてきて、さらにパンツの下へといやらしく指を伸ばしてきた。 「ベッドの上ではいつも泣いてるし」 「っ、咲斗さん!だめっ」 すーっと尻のラインにそって手を這わせてくるその仕草は、嫌でもいろんな事を思い出させて、響の身体が知っている快感を思い出させる。 「さき、とさんっ」 それは久しぶりの感覚で、既に響の声が変な風に跳ね上げる。 「なーに?」 「うわぁっ」 響が咲斗をひっぱっていたはずなのに、逆に響は咲斗の手によってベッドに押し倒されてしまった。 「本当に怪我がたしたことなかったのか、調べていい?」 「――――はっ!?」 「せっかくベッドもあるし、検診してあげる」 にっこり笑うその顔は、すっかり涙の痕を消し去っていつもの咲斗の顔。そんな〜〜と思う響の叫びは聞きいえられるはずも無く。 「ゆ、由岐人さん、探しにいかなくていいの!?」 苦し紛れに呟いた言葉は、苦笑を浮かべた咲斗に否定される。 「剛が探し出すよ」 泣き顔を見たいと思った響が悪いのか。言葉だけじゃ足りない思いを伝えたいと思う咲斗が悪いのか。それとも、結局流される響がいけないのか。 「え、でも・・・」 「由岐人に今必要なのは俺じゃないし。それに、俺がいたら由岐人はきっと素直になれないから」 少し寂しそうに笑う咲斗に、響は思わず手を差し伸べてぎゅっと服の裾を掴む。凄く仲良く見えたのに、二人の間に消せる事のない溝を感じて。それがいつか、昔話に出来るようになればいいと祈ってしまう。 そして、そんな顔されたら拒めないよ、と思ってしまう。結局咲斗に甘い響がいけないのか。 その後、決して病院のベッドではしてはいけないような事が繰り広げられたのだった。
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