■5■
「響くんは恋人とかいないの?」 「え、いきなりなんですか?」 響はびっくりしたような顔を作りながら笑顔を浮かべる。ここではそういう質問もすっかり馴染みになっていた。 水曜日という日だからだろうか。今日は店が少しすいていた。すっかり常連になった男は、いつもの様にジンリッキーを傾けて、響に視線を向ける。 「いや、かっこいいしモテそうだなぁーって思ってね」 最初の頃に比べて、印象がだいぶ柔らかくなっていた。響もこの男には好感を持っていて、話も良く弾んだ。 「えー全然もてませんよ。お客様こそ、凄くもてそうですよ。――――ご結婚は?」 「いや、まだ。でも婚約者はいるよ」 「そうなんですか!?それはおめでとうございます」 てっきり今が幸せの絶頂の時だろうと響は満面の笑みを男に向ける。自分は別に婚約しているとかではないが、大好きな人との今の生活がかなり幸せだったからだ。 「別にめでたくないよ」 けれど、響の予想に反して男は少し吐き捨てるような冷たい口調で言った。その口調があまりに不釣合いな感じがして、響は少し目を見張る。 「――――好きで婚約したわけじゃないからね」 男は少し取り繕う様に自嘲気味に笑った。 「本当に好きな人は別にいたんだ。本当に大好きで心から愛していた人が。この人以外には何もいらない、僕の全てだ――――――そう思っていた人が、ね」 そこまで話して男はグラスに残っていた酒を飲み干して、響におかわりを注文する。 男は響が無言でそれを作る様を黙って見つめて、出来上がったグラスを受け取ると、一口煽ってからまた口を開いた。 「親父が急に死んで。俺はまだ若かった。大学生で、周りに言われるままに会社を継ぐことになった。回りは僕の恋愛に大反対で、その時の僕は自分の恋を選べなかった。志半ばで無念に死んだ父の後を継がなくてどうすると言われて。・・・・逆らえなかった」 「別れてしまったんですか?」 「――――うん。そして、言われるままに家柄の良いお嬢様と婚約した」 男は顔を歪めて、泣きそうな顔を隠すようにまた酒を煽った。その表情があまりに痛々しくて、響は思わず同情の念を抱かずにはいられなかった。 本当に大好きな人と今いられる自分は、きっと幸運で幸せなのだと思う。 「本当に、お好きだったんですね」 「・・・・・ああ。毎日毎日想っていたからね」 響はどんな言葉をかけていいのかわからなくて、言葉を失ってしまった。 自分は本物の恋をして、それを手に入れて今は何よりも幸せだ。そんな自分が、大切なものを失くしたと今でも後悔して苦しんでいる男に、どんな慰めの言葉をかけてもそれは、空虚でしかないような気がしてしまったのだ。 「でも、お客様はちゃんと本気の恋を手に入れられた」 「小城さん」 向こうで客の相手をしていたはずに小城が、横から男に声をかけた。 「人は一生のうちに本気の恋をしないで終わる人もいます。それを出来ただけでも、素晴らしいとは思いませんか?」 大人の余裕だろうか。小城は穏やかな笑みを浮かべて男に言葉を投げかけた。 「――――そう、ですね」 「その宝物があれば、あなたはきっと幸せを掴む事が出来ますよ」 静かな小城の言葉に、男も少し寂しげではあったけれど、笑顔を浮かべて頷いた。 「最近さっきの客はよく来るな」 小城は男が帰っていった後、客のいない合間を盗んで響に声をかけてきた。 「はい、週に2度くらいです」 「ふ、ん」 「何か?」 少し浮かない顔を浮かべた小城に、何かまずい事でもしてしまったのだろうかと響は心配そうに言葉を返す。 「いや。――――何をしてるって?」 「よくは知らないんです。なんでもお父さんが亡くなって、若くして社長を継いだって事くらいで。雑誌などにも広告を出すような職種みたいですけど・・・」 響は曖昧な言葉を並べて首を傾げた。それでもだいぶ幅は広い。それだけでは男がどんな仕事をしてるかまでは響にも、小城にも判断は出来ない。 「ふーん」 「あの、本当に何か?」 小城の反応に、響は本気で困ったような顔になってきた。小城は普段あまり響の客や仕事ぶりに口を出したりしてこなかった。もちろんミスをしたりすれば注意はされたが。基本的に失敗も勉強のうちとして、見守ってくれているらしかったのに、いきなりこんな事を言われれば不安にもなる。 「いや。なんでもないんだ。・・・ただ、あまり特定の客には深入りするなよ」 「・・・・・え」 「いちいち感情移入していたら身が持たないし、客にひきづられたりもするからな」 小城の少し抽象的な言葉に、響は少し納得できない感じで小城を見つめると、その真っ直ぐさに小城は少し笑顔を漏らす。 適当にあしらうのではなく、その時その時響はお客と真っ直ぐに向き合いたいと思っていたのだ。小城にはその若さが少し眩しく感じられて、少し心配にもなった。 「ところで、働き出して一ヶ月も過ぎたし、響はお客さんの評判もいいから今月から時給50円アップしてあげるよ」 「本当ですか!?」 その言葉にちょっと不安気だった響の顔がぱぁーっと明るくなった。その現金な反応に、小城はさらに忍び笑いを漏らす。 この子と、あの咲斗の組み合わせ。咲斗が目に入れても痛くないほど可愛がっているのがわかる気がしたのだ。 「あ、残りのグラスも洗っちゃいますね」 もうそろそろバイトの終了時間。それまでに出来る事をできるだけして終わろうと響は張り切って片付けだした。そんな響の態度をほほえましく思いながら、小城は先ほどまで座っていた男の椅子に視線を投げかける。 小城には何かわからないのだが、どうもあの男の客に引っかかるものがあった。それはここでの長年の経験からくる、いわば勘でしかないのだが。しかし、順調にやっている響にそれを告げるべきかどうか、小城は少し判断に迷っていた。まだポーカーフェイスを完全に作るには至っていない響は、小城の言葉を聞いたらそれが態度に出ないとも言えない感じで。 真っ直ぐで純粋なのが響の魅力ではあるのだが、こういう時は少し厄介だなとため息混じりに笑顔を漏らして、小城はとりあえずまだこの事は自分の胸にしまっておく事にした。 ・・・・・ その週末、都内にある大手の生活雑貨を主に取り扱うビルの4階に、響と咲斗の姿があった。手こそ繋いでいないが、かなり中むつまじい買い物風景がそこにはあった。 「へぇーメジャーカップだけでも色々あるんだ・・・」 「知らなかったの?」 咲斗は自分で店を開いていて、もちろんアルコールも取り揃えているのだからそれくらいは知識として知っていた。 逆に響は、店にあるのしか見ていなかったので、値段差があるとは思っていなかったようだ。響から見れば全部同じにしか見えないものが、700円〜1200円の間でズラリと並んでいる。 「これでいいんじゃない」 咲斗は迷わず1番高い物を手に取った。 「え、なんで?」 「これだと、15ml、30ml、45ml、50mlと4種類測ることが出来るんだよ。ほかのだと2種類しか測れないし」 「ああ・・・なるほど。でも、こっちの15mlと50mlのがあれば間は目分量でいいんじゃないかなぁ」 少しでも安くあげようと響は違うものを手にして咲斗に見せる。しかし、咲斗の返事は随分そっけないものだった。 「正確に測れるようになったらそうしたら?」 「う・・・・」 痛いところを突かれてしまい押し黙ってしまった響に、にやりと咲斗は笑ってそのまま1200円のメジャーカップを籠に放り込んで、カートを押し進める。 そのカゴの中にはすでに、バースプーン、アイスピック、ストレーナーが入ってある。 「あ、シェーカーあったよ」 咲斗が響を手招きして指をさすと、そこにもずらっとシェーカーが並んであり、こちらも1750円から4000円までと値段の幅がかなりある。 「手に取って持ってみたら?」 「そうだね」 響は一つづつ手にとって軽く握ってみる。まだ店には到底出せないが、店のシェーカーを何回か降らせてもらった事はあるのだ。その手の馴染みに近いものを選びたかった。 「これ、かなぁ」 響は3150円のものを選び出した。 「じゃぁーそれで」 「あ、でも、こっちでもいいかも」 値段を見ないで決めた響は改めて値札を確認して、思わず一つ下の2310円の方へ手を伸ばしたのだが、咲斗にペシっと払われてしまった。 「この際1000円の違いに迷わない」 「だーって」 響はちょっと頬を膨らまして咲斗を睨む。 本当はまだ響は買い揃えるつもりはなかったのだ。お給料日までまだ日があったし我慢する予定だったのに。それなのに、時給が50円上がって褒められたよって話をしたら、じゃぁもっとがんばらなきゃねって話になって。いつのまにか買い揃える事になってしまったのだ。どう考えても、咲斗に言いくるめられたのである。 「だから出世したら返してもらうって言ったでしょ?それならって響だって納得したくせに」 「うーーっ」 「後はお酒だね。とりあえずこれ精算してくるよ」 お酒はまた違う場所まで行くからと、咲斗はとりあえずカート押してレジに向かった。本当はグラスも買い揃えたい咲斗なのだが、響が絶対嫌だと譲らなかったのだ。 咲斗の家には十分に色んなグラスが揃っているし、貰ったままで箱に入りっぱなしのまであるのだから、それを活用すればいいのにどうしてさらに買い足す必要があるのか、響にはまったく理解できない。 まぁ、咲斗は響に買ってあげたいだけなのだろうけれど。 そんな咲斗の思いも分かるから、なんだか嬉しいような困ったような苦笑を浮かべて、響は何気なくふと後ろを振り返った。 「あ・・・・?」 通路の奥、棚に半分体を隠すようにして、いつも店に来るあの常連の男の姿があった。 男は響と目が合うと、慌てたように身体を反転させて響が声をかける間もなく走りさっってしまった。それは本当に、一瞬の出来事。 「どうしたの?」 そこへお会計を終えた咲斗が戻ってきた。 「あーうん、今ね、お客さんをみかけたんだけどー・・・」 響が少し首を傾げる。男の反応がまったく理解できなかったのだ。何故逃げるように走り去ってしまったのか。 「どの人?」 「もういない。どっかいっちゃった。目が合ったように思ったんだけど、気のせいだったのかも」 うんそうかもしれないと、響は思い返す。男の印象も今日は随分とカジュアルで、普段のイメージとなんだか違いすぎたし、もしかしたら見間違いだったのかもしれない。 「そう?じゃぁー行こうか?」 「うん。あ、荷物持つよ」 「いいよ」 「だめだよ――――それくらいは、ね?」 嫌がる咲斗の手から響は強引に袋を奪い取った。買ってもらって荷物まで持ってもらってでは、なんだか男してすたると思うのだが、そんな態度に咲斗はどうも不満らしい。もっと甘えてくれればいいのにと、小さくぶつぶつと聞こえよがしに言っている。 ――――まったく、子供なんだから・・・ うるさいよ、と思わず響が言い返せば、咲斗はその不満と想いを表情だけで切々と訴えてくるので、結局は折れた響が機嫌を取るはめになる。 そんな恋人同士の甘いじゃれあう姿を、男は物陰からじーっと見つめていた。
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