■8■



 咲斗はチラチとリビングに座る響の視線をやった。響は今、リビングのローテーブルに今夜の夕飯を並べている。
 今日の明け方帰ってきてみたら、響は風呂も入らずにベッドの上に仰向けになって倒れていた。最初は、よほど疲れたのだろうと思ってそっと服を脱がせて寝かせてあげようと思って、そーっと近づいたのだ。そうしたら、響の目尻から涙が伝い降りた。切なげに眉が寄せられて。
 咲斗はその涙を目に止めて、響を起こさずにはいられなかった。あまりにも寝顔が苦しそうだったから。
 揺り起こして、ゆっくりと二人でお風呂に入って身体は温まったけれど、心まではどうだったのか。
 咲斗は涙の理由はとうとう聞き出せなかった。
 今朝は朝からなんともないように見えるけれど、せっかくだから明日は映画でも見にいく?と問いかけた言葉は、思いっきり拒否された。
 家で二人でいたい、と。それは普段なら間違いなくうれしい甘いお誘いの言葉として受け止めるけれど、さすがに今日はそんな気分にもなれず。
 ――――いったい何があったんだか・・・
 咲斗はため息をつきながらキッチンを出た。
「はーい、お待たせ」
 いつもは響がご飯の用意をするのだが、今日は久々に咲斗が夕飯の用意をした。献立は茄子の甘みそ掛け、ユリネの茶碗蒸し、とんかつのおろしダレ、カンパチのサラダ、お麩のスマシ汁。土曜の夜はお酒も添えるから、メインというよりも、あても兼ねての献立になるように考えた。
「うわぁ〜おいしそう!!」
 テーブルではなくて、もっとゆっくりと食事をしようとリビングのローテーブルに並べられた料理。響はソファではなく、その下にペタリと座る。
 以前響が来るまでは咲斗はソファに座ったし、食事は簡単にテーブルで済ませていたので敷かれていなかった毛足の長い絨毯を、この冬は響のために買って敷き詰めた。
 肌触りにこだわって選んだそれは響のお気に入りになったらしく、普段からその絨毯の上でごろごろしている。そんな姿は、咲斗をいたく満足させているのだが。
「さぁ、食べようっか」
「うんっ」
 少し寒くなってきたとはいえ、とりあえずビールで乾杯して食事を勧めていった。響のカクテルの試飲は明日へのお楽しみになるのだろうか。
 まだ1度も使われていないシェイカーとお酒類。なんとなく、響がそのことに触れるのを避けている気がするのも、咲斗は気になっていた。
「あ、これおいし〜」
 響はナスを口に入れて、その甘い味付けが気に入ったらしい。もともと響がナスが好きというのもあるのだろうけれど。
「ありがとう、お酒は?」
「うーん・・・咲斗さんは?」
「俺は、焼酎にしようかな。せっかくいいやつもらったしね」
 先日客からプレゼントでもらった、中々手に入らないらしい一品の米焼酎。少し寒くなってきたので、それを咲斗はお湯割りにしてみる。
「じゃぁ、俺もそれ」
「ほんとに?」
 あまり酒に強くない響が焼酎なんて飲んで大丈夫なのかと、咲斗は少し薄めにして作って響に渡してやる。
 それをコクコクと飲んで行く響に、咲斗は思わず目を見張ったのだが何も言わずに食事を勧めていった。テレビでは、高視聴率らしいバラエティ番組がとりあえず映し出されている。今人気のお笑いコンビを中心に進められている構成は、今日はコントをやっているようだった。
 ふと始まった、恋に関するコント。偶然彼氏の携帯を見てしまったら、昔の彼女と連絡を取り合っているのを知って。そんなありきたりな話を、おもしろおかしく演じている。
「・・・響?」
 そんなテレビを、くすりともしないで見入っている響の態度に気付いて、咲斗はふと呼びかける。
「な、に?」
「いや、なんだか見入ってるから」
「あー・・・、そうかな。―――――ちょっと、考えてた」
 響が、ふと視線をはずして、迷うように言葉を口にした。
「何を?」
「・・・・・咲斗、さんって、俺の前は、どんな人と付き合ってたのかな―――――って」
 視線を伏せて、つむがれた言葉に咲斗は軽く息を飲んだ。
「・・・どうしたの、急に?」
 とっさに浮かんだそんな思いをとりあえず口にしてみるけれど、それよりも先にどう答えればいいのか考え出さないといけない。
「気に、しちゃいけない?・・・咲斗さんの事、知りたいって思っちゃいけない?」
「そんな事ないよ。響が、そう思ってくれたのは凄くうれしいよ」
 とりあえず安心させるように咲斗は笑ってみる。そんな笑顔では誤魔化せない事もわかっているのに。
「じゃぁー・・・教えて?」
 響が、はっきりと赤らんだ顔を咲斗に向けた。お酒の所為なのかどうなのか、その瞳は濡れて潤んでいる。
 酔わないと、酔って勢いでもつけないと、きっと響には言えなかった言葉なのかもしれない。
「んーどういえばいいのかな。俺がまだ学生だった頃なんだけど。バイトしててね、そのバイト先の後輩だった。俺が色々教えてあげているうちに仲良くなって、一緒にも遊びにいくようになって」
 咲斗は出来るだけ言葉を選んで話していた。
 本当ならいい機会になるはずだった響の問いかけも、今は答えるすべが咲斗にはなかった。由岐人の思いを知った後では、全ての事を話すことはどうしても躊躇われてしまうから。当たり障りのない部分だけを選び出していくしかない。
「告白したのは、咲斗さん?」
「ううん、向こうからだった」
「で、OKしたんだ?」
 響は膝を抱くように座って、咲斗を見上げる。
「まぁ、ね」
 あれは、ちょうど今くらいの時期だっただろうか。冬の気配がそこまで訪れて、世間の町並みにもクリスマスの気配が見え始めた頃。
 当時人気だったダッフルコートに身を包んで、緊張に青ざめた顔で告白してきた。
「好きだったんだ?」
「そうだね。好き―――――もちろん好きだったけれど、あの時は色々あって、支えになってくれる人が欲しかった。それを、彼に求めたのも事実だよ」
「・・・彼、か」
「ああ、うん」
 響の顔がドンドン曇っていくのが気になる。そんな事は、もう何年も前の過去の、本当は思い出したくもないものでしかないのに。決して美しいだけの思い出でもない。
「色々って?」
「母さんが、死んだ後で。俺がまだ17の時だったから―――――」
「あ、前に随分前に亡くなったって・・・・でも咲斗さんが、17っていったら、お母さんもまだ若いよね?」
 うん。21で俺たちを一人で生んだ母。死んだ時はまだ38歳だった。
「―――――自殺したんだ」
「え・・っ・・・あ、ごめん」
 まさかそんな言葉が返ってくるとは思っていなかったのだろう。響の顔に動揺と気まずさが広がった。
「ううん」
「あの・・・お父さんは?」
「母は、愛人だったんだ。だから、俺たちは父親の顔も知らずに育った。父親の記憶は俺にはないよ」
「っ、―――――そう、だったんだ。ごめん、全然知らなくて、俺」
 さらに動揺してしまったらしい、響がばつが悪そうに咲斗から視線をはずす。
「別に、気にしてないよ」
 そんな事は全然どうでもいいんだ。
「えっと、どうして別れちゃったの?」
「え・・・・」
「彼氏と・・・」
「あ、ああ・・・・」
 頭の中をもっと早く回転させなくてはと咲斗は焦るのに、動揺とお酒の酔いでちゃんと回ってくれない。どう言えば良いのかわからなくて、思わず咲斗は視線をさまよわせる。
「・・・一緒に、いるわけにはいかなくなったから」
 やっとの思いで紡ぎだしたのは、そんな中途半端な言葉。
 それはだいぶ言葉をはしょって選んでいるけれど、間違ってもいないような、そんな曖昧な言葉。
「そっか・・・・」
「えっ!?」
 苦し紛れに呟いた言葉の何が不味かったのか、咲斗の言葉を聞いた響の瞳からポロリと涙がこぼれた。
「あっ、ごめっ」
 響は慌てて手で頬をぬぐって、顔を膝に埋めた。
「響?」
「ごめんっ、なんでもない。なんか、ちょっと―――――過去に動揺しちゃっただけ。でも、当然だよね。咲斗さんにとって、俺が初恋だったら怖いもん」
 膝の間に顔を埋めたまま、くぐもった声で慌てて言いつくろうその声すらも揺れて震えている。
 咲斗は、腕を伸ばして響の身体を抱きしめた。少し、震えているのがわかる。
「昔の、事だよ?全然、もう終わってしまったこと。もうずっと前に終わって、それからはずーっと響だけが好きだよ」
「・・・うん」
「響だけを愛している」
 声だけでもわかる。響は全然泣き止む気配がない。そのことに、今は中途半端にしか告げられないと分かっていながらしゃべりだしてしまった自分に咲斗は強い後悔の念に駆られた。何が不味かったのか、何が響にとってショックだったのかはわからないけれど、自分のした事は最悪だったんじゃないかと咲斗には思われた。
「響だけが、必要なんだ」
 ぎゅっと強く抱き寄せるけれど、いつものように甘えるように響の腕が伸びてくる事はない。響は、ずっと膝を抱きしめて。
 そして、そっと咲斗の体を退けてから顔を上げた。
「うん。―――――ごめん、泣いたりして。ちょっと、顔を洗ってくるね」
 響はにこりと笑って立ち上がって洗面所へと駆けて行った。
 無理に笑っているのが分かる。
 もしかしたら洗面所でまた一人泣くんじゃないかと咲斗は思うのだが、今は追いかけることも出来ない。追いかけたところで、かけてあげられる言葉が見つからない。見つけられない。






"どうして、死のうとしたの?"


 ―――――聞けなかった。
 勢いよく蛇口をひねって、水が激しく流れ出している。響は洗面所に手をついて、その水を見つめていた。
 ポタリポタリとまだ響の瞳から涙が零れ落ちて、洗面台を濡らしている。無理やりに一時的に止めた涙は、洗面所に駆け込むなり再び流れ出してきた。
『・・・一緒に、いるわけにはいかなくなったから』
 やっぱり―――――そう思った。男が言った事に間違いはなかったのだ。好きだったのに、一緒にはいれなくなってしまって、別れてしまった二人。
 その事実が、響に与えたショックは大きかった。咲斗の口からも肯定されて、心のどこかで男の思い込みで、本当は咲斗は嫌いで別れたんじゃないかなんて思っていたのに。もうどうしていいのかわからなくなった。
 ―――――昔の、こと?ほんと、に・・・・?
 今はそう思っているのかもしれない。けれどもし、今あの男が目の前に現れて、咲斗にもう1度やり直してくれと言ったとき、咲斗は本当に自分を選んでくれるのか、響にはそんな自信がなかった。それどころか、今の咲斗の言葉でその可能性はドンドン低くなっていく気がして。
 もし、咲斗が彼の手を取ってしまったら―――――?
「痛っ」
 思わず浮かんだ思いに、強く洗面台につめを立てて爪が割れたらしい。その人差し指を呆然と響は見つめた。
 傷は特にないようだけれど、ジンジンと痛んだ。
「・・・・痛い」
 心が―――――イタイ・・・
 やっと見つけた、手に入れた大好きな自分の居場所が、霞んで消えていく気がした。





「響?」
「んー?」
 あまり長く閉じこもってもいられないと、響は冷たい水で顔を洗って。なんとか無理に涙を止めて頭を真っ白にさせて、力任せにタオルで顔をこすっていると、あまりの遅さに心配した咲斗がやってきた。
「あーあ、そんなにゴシゴシやっちゃだめだよ」
「んー・・」
「ほらぁ、顔がちょっと赤くなっちゃってる」
「そ、かな?」
 響はちょっと困ったように笑って。咲斗も少しあきれたように笑う。
 顔が赤いのは何も今タオルでこすった所為じゃない。だったらまぶたが赤く腫れたりしなんかしない。目が、赤く充血していたりしない。
 お互いにそんな事はわかっているけれど、今は何も言葉には出来なかった。
「髪もちょっと濡れてる」
「え?」
「貸して。拭いたあげる」
 咲斗は響からタオルを受け取って、優しく優しく響の髪を拭いて、顔の水もぬぐってやる。今は何も言葉にできないけれど、せめてこの切ないまでの響への思いが伝わればいいと。宝物をそっと扱うように、優しく優しく咲斗は響に触れたのだった。
 ―――――大好き。
 たったそれだけの言葉。たったそれだけの想い。その短い言葉が2人の真実なのに。
 少しずつズレた想いは、今は一つに重なり合わない・・・














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