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「ねぇ、俺の荷物ってどこにあんの?」
「響の荷物って?」
 翌朝二人は一緒にシャワーを浴びた後、響はフローリングに座って咲斗に髪を拭いてもらっていた。これは毎朝の日課となりつつある事なのだが、その時に響は前々から聞こうと思っていたことを口にした。
「ここに来た時、俺学生鞄持ってたと思うんだけど?」
 響は卒業式の帰り道、そのまま拉致られてここに連れて来られたのだ。服は制服に、持ち物は学生鞄と卒業証書だった。
「ああ、あるよ。なんで?」
「・・・なんでって。俺の荷物返してよ」
 響が少し怒ったように言う。
「卒業証書に、メモ、携帯電話くらいしか入ってなかった気がしたけど、何が必要なの?」
「勝手に人のもん見るな!もう、その携帯に用があんのっ痛てててっ!髪ひっぱんな!」
 "携帯"という言葉に、思わず咲斗の手に力が入って響の髪をひっぱってしまった。しかし、それに詫びるより前に咲斗には聞きたい事がある。
「なんで携帯電話に用があるの?」
「・・・電話したいから」
「誰に?」
「友達」
「友達って?」
「剛」
「剛って?」
「っだから!友達」
 ラチのあかない会話に響が声を荒げる。いや、こうなるかもしれないと言う予感はあったのだが。もう少し上手く切り出せないのかと言われても響には無理な話なのだ。
「どういう友達?」
 けれど、咲斗の声どんどん低いものになっていく。不機嫌な兆し。ここに来て10日ばかりなのに響はそれが危険信号なのを既に知っていた。ここで怒らせては元も子もないと、響は仕方なく自分が下手にでることにしようとする。
「・・・どういうって、高校の時の―――俺にとって唯一の親友、かな」
「ふーん」
 "親友"という言葉に、さらに咲斗の声が剣呑としてくる。が、響には咲斗が不機嫌になる理由がわかっていないのだから、何が地雷なのかはわからない。
 精一杯言葉を選んでいるつもりなのだ。
「だから、さ」
「だから、何?」
「連絡取りたいんだってば!!」
「なんで?」
「・・・・・・あのね」
 あくまですんなり電話を返してくれそうにない咲斗の態度に、自然と響の口からため息が洩れる。何がどうしてこんなに嫌なのだろう。咲斗は響が外に出るのも誰かに連絡をするのも酷く嫌そうなのだ。
「俺さ、高校卒業したら、そいつと一緒に住む予定・・・っ痛!!」
「あ」
 今度は思いっきりひっぱってしまった。
「もういい!痛てーよ。禿げたらどうするんだよっ」
 響は咲斗からバスタオルを奪い取ると、むくれた顔でわしわしと髪を拭いた。
 自分が買われた立場だという事を、すっかり忘れてしまっているとしか思えない不遜な態度なのだが、咲斗はその態度自体はまったく意に介してる様子はない。間違いなく、その口から発せられる言葉に激しく苛立っているのだ。
「一緒に住む予定ってなに?」
 声が自然と刺々しいものになっていっていく事も、咲斗には自覚があったけれど仕方がないと思う。
「だからさ、俺家にいたくなかったんだよね。で、独立したかったの。その為に高校入った時からバイトとかもしてたし。けど、こづかいとかほとんどなかったからさ、バイト代が日々の必要なお金に使われちゃってさ、中々貯金出来なくて」
「それで?」
「剛は高校1年時に同じクラスになって、それ以来ずっとダチで、家の事情とかもわかってたからさ。で、相談したら、自分も一人暮らしとかしたかったし、じゃぁ同居しようかって話になって」
 ―――――同居!?
 咲斗のこめかみがピクっと動いたかと思うと、無言のまま響の肩に手をかけ、そのまま床に押し倒した。
「ちょっとっ!」
「なに?」
「なんで、いきなり押し倒されなきゃいけないんだよっ」
「なんで、それで同居の話になるの?その親友に生活費出してもらう予定だったのか?」
 自分がまだ響の居場所を知らなかった頃の話。それは分かっていても、悔しくて腹立たしい。自分じゃない誰かと響が一緒に住むなんて、許せるはずが無い。
 それが例え響にとって理不尽な怒りでも。
「違うよ。敷金礼金とかが思ってたより高くてちょっと厳しくて・・・それだけちょっと剛に出してもらったの。もちろんちょっとづつ返すからって約束で。それに同居の方が光熱費とか管理費とか、食費とかもだけど、なにかと浮くし」
 ―――――本当に同居なんだか。そいつに下心があったらどうするんだ!!
 咲斗は苦々しげに響の言葉を聴いていた。その説明に納得出来ない、というよりも嫉妬心が収まらない。まったくこっちの気持ちも全然わかろうともしない、その上無神経な言葉を吐く響に咲斗は腹が立ち、どうしようもない苛立ちを持って響を見下ろした。
 その視線を、響も負けじと睨み返す。
 その見つめあう時間は、少しの間だったはずなのに響には異様に長く感じられて。結局根負けしたのは響の方だった。
「頼むよ」
「・・・・・」
「明日引っ越す予定だった奴がいきなり行方不明で連絡もないってなったら普通心配するだろ?俺なら絶対する。だから、大丈夫だって言うだけは言いたい」
 咲斗は目を細め響を見つめる。響はその目の色に、咲斗の思いを読み取ろうとするが、生憎と何を考えてるのかわからない。
 結局今度折れたのは咲斗の方だった。ふっと視線を外す。
「考えとく」
 言うと、咲斗はそのまま響の上からどいて立ち上がろうとしたが、その腕を響がつかんだ。
「待てよ。何?なんの心配してんの?俺、別に剛に電話して逃げる相談とかしないよ?それに、そんなに心配なら電話してる時横にいればいいだろ?」
 ―――――俺の知らない、お前の高校時代を知ってる男・・・・・・・・そんなものに、連絡なんてさせたくないんだよ。ばか。
 その口から他の男の名前が出るのも嫌なのに。我慢出来ないくらい、胸が焼け付くくらい苦しくなるのに。
 けれど、そんな想いを口には出来るはずもなく、結局言葉にするのは違うもの。
「考えとく」
「咲斗さんっ」
「・・・・・・・」
 しつこく食い下がる響に、咲斗は冷たい一瞥を投げかけた。その冷たさの意味を響は推し量ることが出来ず、困惑の色を顔に浮かべた。
 ―――――嫌がるとは思ってたけど、なんでこうも頑なに嫌がんのかわけわかんねーよ!
 咲斗が何を思っているのか、何を考えているのか知りたいと響は思っていた。けれど、そう思うけれど、咲斗は響よりずっと大人で、いつも上手に想いを隠してしまって響には簡単には踏み込まさせてはくれなかった。
 だから、勘違いしてしまう。
「なぁ、8000万踏み倒そうとか思ってないから。ちゃんと返すから」
 そして発せられたその見当違いなその言葉に、咲斗の目に一層の苛立ちと怒りが強く滲み、響を睨みつける。
「・・・な、なに?」
 明らかに変わった空気。それは響にもわかって、うろたえた顔をするけれど、それをフォローしてやる余裕が咲斗には無かった。
「もう出かける時間が近い。腕、放して」
 響の問いには答えず、咲斗が放った言葉は心の底から冷たく突き放すような声音で、響の顔色サッと変わる。一瞬逡巡した後、それ以上言葉を連ねる事が出来きず言われるままにつかんだ腕を放した。
 その響を振り返ることなく咲斗は自室に戻って行く。
 ―――――なんだよ、俺、なんかまずいこと言ったかな・・・・・・・・・・全然わかんないっ
 あまりのその変化に、響は呆然とその後姿を見送るしか出来なかった。言葉をかけるなんて、あの迫力の前には到底無理で、ただ困った顔でその場にうな垂れるしか出来なかった。
 一方、着替えに自室に入った咲斗はやり場のない思いを何にもぶつける事ができず、ギリっと奥歯を鳴らした。
 ―――――"80000万踏み倒そうとか思ってない"だとっ!
 咲斗は思わず脱いだTシャツを床に投げつけた。その言葉は、咲斗の響の間にあるものは所詮金銭でしかない、と言われた気がした。いや、実際そうなのだろう。結局のところ買った者と買われた者でしかないのだ。
 例えここ数日、甘いように感じられた空気があったとしても、二人に優しい時間が流れた気がしたとしても、それは所詮ただの戯言でしかない。何もかもが、ただの淡い幻想。
 手に入れたかったのは身体じゃない。本当に手に入れたいのは、その心なのに。
 ―――――遠いな・・・・・・
 ふいに咲斗は自嘲気味に笑う。仕方がない。彼はすっかり覚えていなかった。ずっと想い望んでいたのは自分だけだったのだ。一方的に恋焦がれたのは、自分だけだった。
 それが分かったとき、心が手に入らないなら身体だけでもいい。縛り付けておけるのなら例えそれがお金でもいいと、開き直ってきたじゃないか――――と思う。それを自分は今更何を期待しているんだ。
「・・・わかってる」
 力の無い言葉が洩れる。
 わかっていても、それでも密やかな甘い時間に夢を見てしまいそうになる。
 ―――――ばかだな。
 咲斗はくだらない思いを振り払う様に、軽く頭を振った。考えてもどうしようもない事なのだ。諦めた様にため息をつき、ネクタイを一本選んで抜き取った時、かすかに扉がノックされた。
「はい?」
 扉を開ける事なく、声だけで返事をする。まだ、心の準備が出来ていなくて扉を開けるのは苦しいから、追い払いたいと思うのに。
「あの、簡単に昼食作ったんだけど・・・」
 遠慮がちな響の声に、咲斗の目が一瞬見開き苦笑が洩れる。
 こんな、なんでもない瞬間―――――思う。
 ―――――好きだ・・・・・・
 告げる事は出来ない、狂おしいまでの想い。あの日からずっと思ってた。いつからか思いが想いへと変わり、恋になった。ずっと会いたくて、ずっと捜してた。
 ―――――切なくて、泣きたくなるな・・・
 それでも咲斗は笑みを浮かべて、扉を開けた。心の準備はまだ完璧じゃなかったけど、ちゃんと笑える自信はあったから。
「ありがとう、食べて行くよ」
 咲斗は言うなりその頬にキスをすると、途端に響は頬を赤らめ睨む。それでも激しく抗うこともない、その態度が胸を締め付ける。
 密やかに甘い時間。それが幻想だと分かっているのに、馬鹿な期待しそうな自分がいる。





・・・・・





 咲斗が昼食をちょうど食べ終わった時、由岐人が迎えにやって来た。特別な事がないかぎり二人は毎日由岐人の車で本店へ向かう。
 その車内でA4サイズの茶封筒を由岐人が咲斗に手渡した。
「はいこれ、報告書」
「ああ、ありがとう」
「目、通させてもらったけど」
「ああ」
 咲斗がその封筒から取り出した書類に書かれている文字は『冬柴響に関する報告書』。
 響が咲斗の家に来た次の日に調べるよう手配していた物。それがようやくやって来て、咲斗は黙ってその報告書に目を通した。しかし読み進むにつれ、その眉がかすかに寄せられ、その口からは自然とため息が洩れた。
「結構、ヘビーだよね」
「・・・」
 無言のままの咲斗の横顔を、由岐人がちらっと盗み見ると、その顔はやり場のない想いにかすかに歪んでいた。
「知らなかったの?」
「口ぶりから、うまくはいっていなかったのはわかったけど、――――母親は実母だろう」
 その口調が苦々しい。
「母親は旦那の言いなりだったみたいだね」
 報告書には、響の母親は未婚で響を生み、近くの居酒屋で住み込みで働いていた。そこの客と良い仲になり響が4歳の時に再婚。それが響の義父だ。再婚した時は、暖かい家庭が築かれるだろうと夢を描いていたのだろうか?けれど、その後繰り返されたのは義父による響への折檻だった。弟が生まれてからは、無視されたり家から閉め出されたりと、そこにいないものとして扱われていた様だと書かれてあった。
 しかし、その義父は何故か一人暮らしには反対だったらしい。それで最近は喧嘩が絶えなかった、と報告書は締めくくっている。
「――――」
 無言のまま咲斗は、さらにページをめくっていく。
 そこにあるのは、普通のサラリーマンの家庭像。中の中というところか。大きな財産があるわけでもないが、反対に大きな借金があるわけでもない。住宅ローンと車のローンが少し。どこの家庭にでもある程度のもの。その家庭にして8000万は大金だろう。しかし何かに使った形式は今のところない。
「8000万、どうしたのかな」
「さぁ・・・な」
 咲斗は、車の窓から外を眺め響の事を考えていた。普段は普通のそこら辺にいる子と変わりないように、怒ったり笑ったりと喜怒哀楽もはっきりしてて、見ていて飽きない。その顔に時々見せる不安そうな顔。翳り。こちらを伺うような視線。てっきり、自分に警戒しているのかと思っていたが。
 ―――――原因は、こういう事だったのか・・・
「その角川剛って子の事は?聞いてたの?」
「ああ・・・・・・今朝、響がそいつに電話したいと言い出した」
「そうなんだ。うーんでも、一緒に住む予定だったんでしょう?それは言うんじゃない?」
「ああ」
 "剛"――――それは響の口から出て来た初めての人の名前。その名前は報告書にも載っていた。響が唯一信じていた友人。そう、響が親友と言ったのは間違いじゃない。その、角川剛が必死になって響を捜していると、報告書には書かれてある。
「どうすんの?」
「電話、させたくないんだけどな」
 それは間違いのない本音。
 誰にも会わせないで、自分ひとりの世界にだけ閉じ込めてしまいたい。その全てを縛って自分だけのものにしたい、抑えられない欲望。そして願望。狂気にも似たこの想いがおかしいとは自分でも思うのに、止められないんだ。
 何度身体を抱いても足りないと思うのは、身体だけだからだろう。
「妬ける?」
 だから、不安なのだろう。
「ああ」
 咲斗は正直に頷いた。
 そうだ、間違いなく自分は妬いている。響が辛い時期、自分は何も出来ず助けてもあげられなかった。その存在がどこにいるのかも知らなかった頃。響の横にいた男。響が唯一親友と呼ぶ男。
 そんな相手に嫉妬しない者がいるだろうか。そいつは、響の心をちゃんと持っている。自分が望んでも、手に入らないものを持っているんだ。
 咲斗の口から思わず自嘲の笑みがこぼれた。自分はだんだん欲深くなるな・・・・
 咲斗は思う。
 自分は絶対の響を手放せないだろう、と。
 生まれて2度目の本気の恋。
 恋愛ゲームはいく度となくした。女に甘い言葉を囁いて、その気にさせて、貢がせて。そうやってでかくしていった店。自分の会社。それがおもしろいと思った時期があった。愉快だと。
 けれどいつも、言いようの無いむなしさが残った。

 そして、響への想いだけが募った。





・・・・・





「あ、おかえりぃ」
 ベッドの軋む感覚で目が覚めたのか、響が舌足らずな口調で言った。
「ごめん、いつも起こしてしまう」
 そっと、起こさない様にしているつもりなのに。
「ん、へーき」
 咲斗が布団を捲って身体をベッドの中に滑り込ませてる。軽く浴びたシャワーの所為で髪が少し濡れていた。
「おいで」
 咲斗はそう言うと、響を引き寄せてその背中を抱く。響からは既に寝息が聞こえてきて、安心して寝てくれている現実が嬉しくて、眩暈を起こしそうだ。
 咲斗はそのまま瞼を閉じて、自分と同じシャンプーにまじる響の髪に優しいキスをする。今は何も考えない、考えたくない。ただ 無意識に流れる甘い気分に、咲斗は酔いたかった。
 しばらく後 "おなか減った"と起こされるまでのわずかな時間、このまま幸せな気持ちのままに、ただ眠りたい。
 甘い夢に、浸っていたい。




 
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