最愛の日に・・・1
後5日で12月になるという金曜日。今日もそんな時期には思えないようないいお天気で、秋晴れの快晴だった。 綾乃は、家出からこの場所に戻って来てしばらく、生徒会の引継ぎやなにやかにやに巻き込まれた忙しい日々を送っていた。それはなんだか、あまりにも普通の日常で、ついこのあいだの家出騒ぎなどなかったかのようだ。 そんな日々の小さな出来事といえば今朝、学校へ登校する車の中で雅人に言われた事。 「・・・失礼します」 それは、帰る前に理事長室に寄るようにとの事だった。そんな事を言われたのは初めてで、綾乃はなんだかドキドキしながら恐る恐る理事長室の扉をノックして開いた。 いったい何事なのかと、少し緊張してしまう。 「ああ、綾乃。待ってましたよ」 けれどそんな綾乃の緊張とは裏腹に、そこにはいつもと変わらない笑顔をたたえた雅人が待っていた。机に座って、ちょうど書類を片付けていたところ。 「えっと、何、ですか・・・?」 学校だからと、なんだかもう慣れなくなってきている敬語で話しかけた。 室内を見回しても雅人以外に人影はないようだし、雅人もいつもと変わらないように見えて、とりあえず綾乃はホッと胸をなでおろす。そんな綾乃の様子に雅人は少し笑顔を漏らした。 「今日は一緒に外で食事でもして帰りませんか?」 「えっ・・・でも、雪人くんが」 綾乃と雅人が外で食事をしてくるという事は、必然的に雪人が一人ぼっちになってしまうという事で。それを嫌がるのを知っている綾乃は、真っ先に雪人の顔が浮かんでしまう。 雅人との二人っきりの食事を喜ぶより前に、雪人の事を考えるあたりがうれしいような悔しいような、雅人にとっては複雑な感情を抱かせるのだが。 「大丈夫です。今日は直人に帰ってくるように言ってありますから」 「え・・・でも」 それでも、雪人が寂しそうな顔をするのではないかと思うと、すぐに"うん"とはなかなか綾乃は言えないのか、逡巡するような顔で雅人を見つめる。 「お願いです。今日だけは――――雪人の事を忘れてください」 その言葉は、言葉だけを取るとなんだかかわいいのに、雅人の表情はとっても切実で少し情けなくもあっておかしい。まっすぐ見つめる視線に、綾乃は今日はいったい何があったのだろうかと心の中で考えながら、とりあえず何も聞かずに小さく頷いた。 「良かった」 本当にホッとしたような雅人の声が響く。 「あ、でも、制服でもいい・・んですか?」 「行く途中でお店寄ってから行きましょう。綾乃にピッタリのカジュアルなスーツを見つけたんですよ」 「えっ!?また買うの!?勿体なっ・・い、です」 「綾乃、今は二人っきりですし、無理する事はありませんよ」 敬語でしゃべるのが難しいらしく、ちょいちょいつっかえる綾乃に、雅人は堪えきらずに笑い声を漏らす。その、一生懸命さがもうなんともかわいいらしい。 「え・・・、うん」 ちょっと恥ずかしそうに不満そうに綾乃が頷くので、雅人は一層楽しそうに笑った。 「では、そろそろ行きましょうか?」 今から服を見立ててなので、ディナーの予約6時には少し急がなければならない。 「本当に買うんですか?服・・・・。家に立ち寄ればたくさんあるのに・・・」 雅人が気に入っては勝手に買ってくるので、綾乃の部屋のクローゼットはいまや満室状態なのだ。着る服にさえ困って、同じ服しか持ち合わせていなかった日々からはあまりにも考えられない日常に、綾乃はまだ慣れることは出来ない。どうしてもそれは勿体なくて、無駄遣いに思えて仕方がないのだ。 「でも、そうしたら雪人に見つかってしまいますよ。うるさいでしょう?」 「雅人さんっ」 心底困ったような顔を作って雅人が言うので、綾乃は思わずもうっと目くじらを立てて雅人の顔を見た。仲が良いから言える言葉だとはわかっているから、その口元には笑みがこぼれているけれど。 「これです」 お店に着くと、そこの店長だろうか、30代前半くらいの男の人が雅人を認めて奥からスーツを出してきた。といっても、素材が別珍でモスグリーンの様なくすんだ色。ボタンは3つで、少しカジュアルな雰囲気で、スーツとまでは言いにくいような感じだ。 「きれいな色でしょう?」 雅人はさっそく大きな姿見の前に綾乃を立たせてそれを合わせる。すると、少し色素の薄い綾乃の白い肌にその色がとても映えた。 「あ、いいかも・・・」 最近すっかり目の肥えてきた綾乃が、つい漏らしてしまった一言に雅人はにっこりと頷いて。 「決まりですね」 「え?あっ・・・」 綾乃が、しまった、と思ったときにはもう遅い。 「中のシャツは何色がいいですかねぇ?」 雅人のその一言で、店長はすばやく選び出した何枚かのシャツを手に持ってきた。キナリの無地、キナリのストライプ、オフホワイトのガーゼ素材のものに、ブラウンの無地、ブラウンにカラシ色とオレンジのストライプ、淡いピンクの無地もある。 雅人はその全てを綾乃に合わせていく。こうなると綾乃はもうされるがままだ。 「柄物もいいですねぇ」 どうも雅人のおめがねに叶ったのは、キナリ地に淡いイエローのストライプと、ブラウンにカラシ色とオレンジのストライプ。 「こういうの、持ってるよ」 綾乃はコソっとキナリ地の方を指差した。確かあれはストライプではなくてチェックだったような気がするが、確かに先日買ってもらったのが同じ色合いだったはずだ。 あれはまだ1回も袖を通していない気がする・・・ 「そうでしたか?」 「うんっ」 「でも、今はここにありませんからねぇ・・・」 だから家に寄ってからって言ったのに!そんな綾乃の心の叫びは当然口から発せられる事はないし、発せられたとしても聞き入れられるはずもない。 「でも僕、茶色の方がいいかな」 どうせ聞き入れられないならせめて違うタイプにしてもらう方が、なんとなく気分的に楽な綾乃は、ちょっと違う攻め方で言葉を発すると、それが良かったらしく雅人はにこりと微笑んだ。 「ではそうしましょう。着替えてきてください」 雅人の扱いに少し慣れてきたような、まだまだのような。 綾乃は渡された服を持ってフィッティングルームに入ると、その中でため息を一つついてから、着替えを始めた。見たくはなかったが見ないわけにも行かない値札に、ため息は再び漏れる。 0が一つ多いよ・・・そんな、いつも思う気持ちは雅人にはきっと理解できないだろうけれど。 0が多いだけのことはあるのか、それはとても着心地が良くてとても着やすいのだけれど、綾乃はいつも少し身分不相応な思いをしてしまう。もちろん雅人の思いに、うれしさは感じるのだけれど。 「ああ、いいですね。良く似合ってます」 フィッティングルームを出ると、雅人が目を細めて嬉しそうに笑った。 「パンツ丈は、この長さでいいですか?」 店長がサッと合わせた裾を指して雅人に確認すると、雅人はそれでいいと頷いた。綾乃は再びフィッティングルームに戻ってパンツだけ履き替えて外に出ると、ついていた値札が全て取られた。 どうやらこれで、今日の買い物は決まったらしい。――――と、ホッとしたのだが甘かった。 「綾乃、この靴を履いてみてください」 「え・・・・?靴って、これでいいじゃん」 制服の靴だって十分ちゃんとしたもので。スーツにあわすならそれで十分だと綾乃は思うのだが、雅人は納得出来ないらしい。 「駄目ですよ。ほら、こっちに来て」 かなり渋い顔の綾乃を雅人は笑みを浮かべて手招きをして。そんな笑顔に綾乃が逆らえるはずもなく、仕方なく雅人のそばへ歩いていくと何足かの靴が用意されていた。 「どれがいいか・・・」 「紐のがいいな」 「これですか?」 「うん」 どうせ何を言ったところで買うはめになるのだったら、せめて持っていないタイプにしたいと考えた綾乃は、紐のタイプを選んだ。他の2足はそっくりなのが家にある。 「履いてみてください」 「うん」 綾乃は渡された靴ベラを使って靴を履き替えて鏡の前に立つ。するとその靴は、そんな理由で選んだにも関わらず綾乃にとっても似合っていた。 「履きやすい・・・」 なんだかすっごく足に馴染んだ感触に、また綾乃がポツリと漏らしてしまう。 「それは良かった。ではそれで」 雅人は軽く頷くと、店長はすばやく綾乃の制靴を箱にしまって制服と一緒に袋に入れてしまった。もちろん値札も外される。その際チラリと盗み見た値札に一瞬綾乃の身体は固まってしまった。 そこにあったのは52000円の文字。雅人そしてはそんなに高くない値段だなと思ったのだが、綾乃にはビックリしてしまうくらいの値段だった。 ――――はぁ・・・ 綾乃が何回目かのため息をこっそり吐いていると、さらにネクタイもからし色の無地に決められて、パンツの裾上げも完了して、綾乃は完全に着替えた状態で店を後にしたのだった。 車の中で今日はイタリアンだと聞かされて連れて行かれた店は、赤坂の大きな通りから少し入った道。古い洋館を買い取って改築したと言うだけあって、古めかしい威厳をたたえた店構えだった。レンガ作りの建物が歴史を感じさせる。昔、門扉のあったところだろうか、そこを抜けて店へとたどり着くと、これまた重厚な2枚の木の扉。それが半分だけ開け放たれていた。 「いらっしゃいませ」 出迎えたのは30歳そこそこだろうか、黒のスーツをスタイリッシュに着こなした落ち着いた雰囲気の男が、少し微笑んで雅人に頭を下げた。 「お待ちしておりました」 男は名前も確認せずにそう言うと、こちらへという言葉とともに先を歩き出した。 「行きますよ?」 「う、うん」 しばし唖然としている綾乃に、雅人は声をかける。綾乃は、イタリアンだと聞いていたので、もっとカジュアルなお店を想像していたのだ。これでは以前連れて行ってもらったフレンチのお店とかわらないと、思わず緊張して硬くなってしまっていた。 店内へ足を踏み入れ導かれるままに右手へと行くと、そこは完全に吹き抜けになっていて、素晴らしい開放感だった。天井からは大きなシャンデリアがかかり、淡い光で店内を照らしている。奥は全面が窓ガラスになってあり、美しくライトアップされた外の庭園が一望出来るようになっていた。 その美しさと迫力に、綾乃は一瞬目を奪われた。 店の中でも一番良い席に雅人と綾乃は案内された。雅人は立ち止まって振り返って、綾乃を見る。 「どうぞ」 男は綾乃に先に声をかけて、椅子へと座らす。雅人の仕草から、今日の主役が綾乃である事を悟ったからだ。そして次に雅人の椅子を引いて座らすと、一礼して下がっていった。 綾乃がふと床に視線をやると、そこにはアンティーク調のベージュ色の大きなタイル張りだ。二人で座るにはちょうど良いくらいの大きさのテーブルは、それだけで何十万もする代物。それに、美しく磨き上げられた銀のスプーンやナイフが並び。1枚何万もする皿が置かれている。 「綾乃?」 「えっ!?」 明らかに緊張しまくっている綾乃に、雅人は声をかける。 雅人は今ダークグレーのスーツに濃紺のネクタイという姿でカチっと決めていてかっこいい。それに引き換え・・・と綾乃は思うのだ。綾乃は少しカジュアルなスタイルなのだ。これはこれで凄くかっこよくて気に入っているのだが、ここではもっとあらたまった格好の方が良かったのではないかと思ってしまう。 「あの、僕こんな格好でもいいのかな?」 「ええ、問題ありませんよ。ちゃんとジャケットとタイは着用しているんですから」 少しおどおどと尋ねる綾乃に、雅人は問題ないとにっこりと笑う。 そこへギャルソンがワインリスとなどドリンクのメニューを持ってやってきた。 「お飲み物はいかがいたしましょう?」 「そうですね、私は赤で少し軽めのものが良いのですね。彼はまだ未成年ですから、ノンアルコールで何か作っていただけますか?」 「かしこまりました」 雅人の言葉にギャルソンが一礼して下がっていくと、雅人が綾乃を見てくすくすと笑う。 「そんなに硬くなる事はありませんよ?」 「だって・・・、僕作法とか全然わからないしっ」 静かなピアノ曲の流れる店内では、なんだか普通の声も大きく響くような気がして、ついつい小声で話してしまう。 「でも綾乃は作法とか学んでいきたいって言いませんでしたか?」 「っ・・・」 「実地訓練ですよ。こういうことは数をこなさないと覚えませんから」 雅人はにっこりと笑いながら、綾乃の痛いところを突いてきた。 綾乃にしてみれば、それならそれで、家で前もって教えておいて欲しいとか、前もって言ってくれれば予習もしてきたのにとか心の準備があるのだとか、言いたい事は色々あるのだが、綾乃がそれを口にするより前に先ほどのギャルソンが飲み物を持って戻ってきてしまい、綾乃は口をつぐむしかなかった。 まぁ、雅人にそんな事を話したところで聞き入れられるはずもないのだが。 その日のディナーは、綾乃にはもう想像を絶するくらいの素晴らしくおいしい料理だった。少し失敗してクロスに派手なシミを作ってしまい綾乃は真っ赤になっていたりもしたが。雅人はそんな綾乃の些細な失敗などは気にもしていないようだった。そんな雅人の様子に綾乃の肩の力も段々抜けて、最後の方は本当に純粋の食事を楽しんでいるようで、そんな綾乃の様子が雅人を一層幸せな気持ちにさせてくれた。 食事の最後にシェフが挨拶にやってきた。 「大変おいしかったです」 雅人は知った顔のシェフに軽く笑顔を向けた。そのシェフが綾乃にも顔を向ける。 「凄いおいしかったです。ありがとうございます」 その、なんのてらいもない嬉しそうな笑みに、シェフは一瞬目を奪われるように綾乃を見つめて、つられるようににっこりと笑った。 きれいに食べられた料理とその笑顔だけでシェフは綾乃がすっかり気に入ったのか、帰る際も玄関まで見送りにでたほどだった。 |