最愛の日に・・・2


「あれ?雅人さんこの車、どこに向かってるの?」
 車に揺られてしばらくした頃、なんとなく違和感を覚えて綾乃は雅人に声をかけた。てっきり家に帰ると思っていたのに、どうやら家には向かっていないようなのだ。
 そんな綾乃に雅人は少し視線を泳がして。
「部屋を、取ったんです」
「え?」
「スィートです」
 雅人は思い切ったみたいに綾乃に顔を近づけると、いたずら事を告げるみたいに綾乃を見て小声で呟いた。
「――――っ!!」
 瞬間、綾乃の顔がパッと真っ赤に染まった。それは一瞬にして火がついたように真っ赤になって、今にも焦げてぶすぶすと音を立てそうなくらいに。そして、目をぱちぱちさせたかと思うと俯いてしまった。
 そんな綾乃の反応に、くすっと雅人は笑顔を漏らすとともに、少し心配そうな顔をしたが何も言わず。車はそのままホテルへと滑り込んだ。
 通された部屋は、もちろんスィート。
「凄っ」
 部屋に入るなり綾乃は思わず呟いてしまった。いや、エスカレーターを降りた直後から敷き詰められる絨毯に、そう思っていたのだが。部屋へ入った瞬間にその美しいエントランスホールにまずびっくりして、そのまま連れられたリビングルームを見て息を飲んだ。そこには大きな窓があって、東京の美しい夜景が目に飛び込んできた。そしてリビングには柔らかい革張りのソファがゆったりと置かれている。その横に、弾く人もいないのにグランドピアノが置かれ。その置くにはダイニングテーブルとキッチンまで備え付けられている。ダイニングテーブルには美しく飾られた華と、灯された蝋燭の明かりが幻想的に揺らめいている。リビングのローテーブルにはおいしそうなフルーツが盛られていた。
 その迫力と豪華さに思わず立ち尽くしている綾乃を、雅人はそっと促してソファへと座らせる。
「気に入っていただけたみたいですね」
 綾乃の反応に、満足そうに雅人は笑う。キッチンに備えられている冷蔵庫をこっそり開けて、さらに雅人は嬉しそうに微笑んだ。
「雅人さん?」
 夜景や室内の装飾に見惚れていた綾乃は、ハタと雅人がそばにいないことに気がついて声をあげると、雅人がゆっくりと何かを運んできた。
「・・・・え」
 それはゆらゆらと蝋燭の炎が揺れていて。一人分よりも少し大きめの丸い――――ケーキ。雅人はそれをそっとテーブルに乗せた。表面には特に飾り気のないとてもシンプルなクリームのケーキ。ただたった一つ、ホワイトチョコのボードが乗っていて、そこには"HAPPYBARTHDAY"の文字。
「少しフライングですけどね」
 雅人がもう一つ運んできたもの。スパークリングワインとグラスが二つ。それをケーキの横に並べて置く。
「明日、16歳の誕生日でしょう?」
 隣に腰を下ろした雅人が、ゆっくりと微笑むのを見つめて、綾乃は瞳を大きく見開いたまま動かない。息をするのも忘れているかのようにピクリともしないで、驚愕の瞳のまま。
「綾乃?――――え、もしかして間違ってます!?」
 間違いはないはずなのだが、あまりに綾乃がびっくりして呆然としているので、見つめられる雅人の方が心配になって少し慌てた顔になった。すると、綾乃は固まっていた首をなんとか動かして、ゆっくりと頭を横に振った。
「・・・忘れてた」
 ぽつりと呟かれる言葉。
 綾乃はそんな事、すっかりと忘れてしまっていた。誕生日なんて。自分の誕生日だなんて。すっかり忘れ去っていて。
「・・・生まれて、初めてだから・・・」
 こんな事、初めて。自分の生まれた日を覚えていてくれる人がいて、祝ってくれる人がいるなんて。
「・・・びっくり、しちゃった」
 生まれた日にケーキがあるなんて。こんな風におめでとうって言ってもらえるなんて。そんな日が来る事があるなんて、想像もしていなかった。だって、遠い、本当に遠い昔に、そんな夢を見る事を諦めていたから。だから、忘れていた。
 綾乃の口の端が、少し引きつったように上がった。
「・・・・昔、ね・・・いつも、思ってたんだ。祝ってもらえないのは、生まれてきちゃいけなかったからかなって」
「綾乃!?」
 そんな事、考えていた事も本当はすっかり忘れていた。
 昔、周りの子供たちがうらやましいと思っていた事。誕生日にケーキを買ってもらえて。ましてやプレゼントまで貰って。うらやましくてうらやましくて。すごく憧れたけど。いつの間にかそんな期待なんてしなくなっていた。だって期待なんてしたら、した分だけ自分が惨めになるから。それが分かったから。
 そしていつしか、自分の誕生日なんて忘れていた。
「僕がね・・・生まれたから、母さんは死んじゃって。父さんもおかしくなったんだって思ってた」
 ふと、あの父と過ごしたボロアパートの頃を思い出す。食べるものにも困った日があった。暖房もない寒い部屋で、膝を抱えて真っ暗な中父親の帰りをポツンと待っていた事も。
 叔父の家にいた時は、そんな事思い出すのも苦しくて、人にそんな事話す事なんて到底出来なかったけど。今は、ちょっと切ないけどこんなにも平気。
「・・・こんなの・・・、夢みたい」
 綾乃の泣きそうになりながら笑った顔は、少し失敗して奇妙に崩れた。
「綾乃っ」
 うれし泣きに崩れた綾乃の顔が、雅人には切なくて、堪らず抱き寄せた。そして目尻に優しくキスを落とす。瞳に溜まった涙をぬぐうように、そっと優しく。
 やるせない切なさと愛おしさが雅人の胸の中を渦巻いた。おずおずと回される綾乃の腕の感触に、雅人の綾乃への愛おしさがさらに募る。
「夢じゃありませんよ。これからは毎年毎年お祝いしましょう?綾乃が生まれた素晴らしい日に」
「雅人さん・・・」
 ううん違うの。悲しいからの、涙じゃない。幸せで、嬉しいから泣けちゃうんだ。そう思うのに、小さくしゃくりあげてしまって、上手く言葉が出てこない。
「本当は明日、二人っきりでお祝いしたかったんですけどね。そんな事をしたら後で雪人になんて言われるかわかりませんし・・・。それに松岡が――――」
「松岡さんが?」
「初めてのお祝いなんだから、自分の手料理でお祝いしたいと」
 綾乃が家を出てしまっていた数日間。松岡は何も言わなかったけれど、相当こたえていたのを雅人は知っていた。綾乃がどんなに傷ついた日々を送っていて、そのためにどれほど傷つきやすい弱い心か知っていたはずなのに、判断ミスをして追い込んでしまったのだと、自分を責めていた。
「嬉しそうに準備をしていましたから、明日はきっと凄いご馳走が並びますよ」
 綾乃を愛しそうに見つめて、雅人が言う。
「・・・なんか、信じられない。・・・いいのかな?」
 いいのかな?こんなに幸せで。
 そんな雅人の顔をまじまじ綾乃は見つめて。なんだか凄く申し訳ないような気持ちになってしまう。
「いいんですよ」
 本当に?・・・本当に?
「みんな、綾乃が好きなんですから。だから優しくしたいし、こうやって抱きしめたくなるんです。―――もちろん抱きしめるのは私だけのですけどね」
 雅人の言葉に綾乃は少し笑みを漏らす。
「さ、まずは蝋燭を消してください」
「・・・はい」
 綾乃は促されるままにそっと息を吹きかける。けれどそんな弱い息では蝋燭は消えない。そんな事も綾乃は知らなくて、雅人に言われるままに綾乃はもう一度息を吸い込んで、今度はもう少し強く息を吐くと、灯された蝋燭の炎がフッと消えた。
 一瞬の暗闇に、綾乃は驚いたように雅人の服を掴んだ。けれど次の瞬間、雅人は手にしたリモコンを操作して、部屋に少し暗めの明かりがともる。
 その灯りの下に、綾乃のホッと笑った顔が浮かぶ。
「誕生日、おめでとうございます」
 改めてそう告げると、綾乃の頬にキスを落とした。
「さぁ、今日は特別にお酒もちょっとね」
 雅人はそういうとスパークリングワインに手を伸ばし、小気味良い音を鳴らして開けた。そっとグラスに注げば、泡がシュワーっと上がってくる。雅人は飲みやすいように、白の甘めの味を用意していた。
「ワイン?」
「ええ」
 期待にドキドキしたような綾乃に瞳に、雅人も嬉しそうに笑う。
「このケーキはチョコレートとアーモンドのスポンジが重なり合っていて、クリームはピスタチオのクリームになっているんですよ」
「へぇ〜」
 シンプルなデザインにしたのは、どうも明日用意されるケーキが豪華そうだったからだ。だから今日は食後だしあっさりめにと思い、ホテルのパテイシエに用意してもらったのがこのシンプルなもの。
「さ、食べましょう」
 雅人はそう言うと綾乃にフォークを渡した。
「うん」
 綾乃はフォークを受け取って、雅人の顔を見つめる。
「切り分けないで、このままでいいですよね?」
 一つのケーキを一緒に食べる。そんなシチュエーションに雅人は嬉しそうに笑っていうと、綾乃もにっこり笑って頷いた。
 それなのに、雅人の顔を見て一向にケーキに口をつけようとしない。いつも、家での食事でも、誰かの後じゃないと口をつけようとしない綾乃のクセ。クセというよりは、身についてしまった習性という方がきっと正しいだろう。
「綾乃のケーキなんですから。綾乃が先に食べないと」
「あっ・・・、うん」
 そんな綾乃に雅人が優しく促すと、綾乃はそれもそうかとなんとなく頷いて、おずおずとケーキの端にフォークを刺して、一口口に入れる。
「うわっ、おいしいぃっ。なんか、チョコの苦さとクリームの甘さがすっごいおいしいよ!!」
「それは良かった」
 綾乃のとっても嬉しそうな顔に、雅人もホッと嬉しそうに笑って、少し大きめにケーキを取り分けて口に運んだ。本当は少しでいいのだが、雅人が少ししか食べないと綾乃が遠慮してしまうのがわかっているからだ。
「本当ですね。凄くおいしい。これは松岡のよりおいしいかもしれませんよ?」
 雅人の胸に切なさがこみ上げてしまって、そんな想いを誤魔化すようにわざと茶化した言葉を口にする。
「そんな事ないよっ。松岡さんのケーキはすっごくおいしいんだから。そんな事言ってると、松岡さんに言いつけるよ?」
 雅人の軽口にくすくす笑って、やっとリラックスしたのか綾乃も大きくケーキを取って口に運んだ。それを見た雅人はまた嬉しそうに笑って。甘いものよりお酒とばかりに、ワインを口に含む。
「これも飲みやすいね」
 そんな雅人に習ったのか、綾乃もワインを口に含んで。おいしかったらしく、ゴクっと大きく飲んでいく。
「そんなに飲むと、酔いますよ?」
「へーきだもんっ」
 綾乃はそういうともう一口飲んで、今度はケーキを口に入れて。なんとも嬉しそうな顔をする。綾乃はおいいしものが大好きなのだ。それは無意識に顔がにこにこするからすぐに分かる。
 だから雅人は何かおいしいものを見つけたり、おいしい店を発見したりしたら綾乃を連れていきたくなるのだ。今だって、こんなケーキでそんなに笑ってくれるなら、毎日でも用意するのにと思ってしまう。
「あーそうでした。すっかり忘れるところでした」
 自分で思った"用意する"の言葉に、今まで忘れてしまっていた事を思い出した。肝心なことなのに。雅人は立ち上がって、側のローボードの上に置いてあったパンフレットを手に戻ってきた。そのパンフレットは久保兄が用意して置いておいたものだ。
「なんですか?」
「誕生日プレゼント」
「・・・・・誕生日プレゼント!?」
 一瞬の間のあと、綾乃が変な声をあげた。ちょっと裏返ってる。
「どうしたんですか?」
 少し過剰な反応に、雅人は少し目を見張ってくすくす笑う。なんとなく綾乃の思っていることがわかったからだ。
「そんなのっ」
「だめですよ。いらないって言葉は受け付けませんからね。もらってもらいます」
 雅人には、きっと綾乃が僕には勿体ないとか、申し訳ないとかそういう遠慮する事を思っているのは想像がついた。
 そしてその通りに綾乃は思っていた。だって、そんな事信じられるはずがない。生まれて17年、そんなものをもらったことがないのだから。
「も、もう一杯してもらったし。そんなっ」
 綾乃は首をふるふると横に振った。だってなんだか、怖いのだ。幸せすぎて怖い。これ以上幸せになるのは本当に怖い。
 けれど雅人はそんな綾乃の言葉を受け付ける気はさらさらない。
「携帯電話です。綾乃、持ってないでしょう?」
「え・・・うん」
 雅人は手にしたパンフレットをテーブルに広げる。それは色んな会社の色んなタイプの携帯電話のパンフレット。
「どれがいいのかわからなくて。適当に選ぼうかとも思ったのですが、久保が最近の子はこだわりがありますよ、って言うので。綾乃に選んでもらおうとパンフレットを用意しておいたんです」
「だ、だから・・・」
「私の為に持っていて欲しいんです。それでもダメですか?」
 まだふるふると首を横に振る綾乃に、雅人は窺うように顔を覗きこむ。
「・・・雅人さんの、ため?」
「はい。これがあるだけで、どんなに仕事が忙しくて綾乃との時間が取れなくても、出張で離れたところにいても、繋がっていられる気がするんです。声を聞きたいときにはすぐに聞く事だってできます。だから、私のために持っていてくれませんか?」
 こういう言い方は卑怯だ、と綾乃は思った。
「・・・ずるい」
 こんな風に言われたら、嫌とは言い通せない。だって、その言葉がすっごく嬉しいから。
「はい」
 その言葉を肯定ととったらしく、雅人はうれしそうに笑ってパンフのページをめくる。
「ささ、どれがいいですか?」
「んー・・・」
「これなんか最新機種で、音楽が凄くクリアに聞こえるらしいですし、こっちはテレビが見れるらしいです。そっちはGPS機能が付いていて道案内もしてくれるらしいですよ。―――ああ、それは携帯をデザインした人が有名らしくて人気らしいですね。こっちはテレビ電話が出来て・・・」
 綾乃がその気になったときにとばかりに雅人が色々広げて説明をしだす。その雅人に勧められるままにしばらくパンフを眺めていた綾乃は、ふと思い立ったように雅人を見た。
「・・・雅人さんの携帯って、どんなの?」
「私ですか?わたしのはこれですよ」
 雅人はそういうと、ジャケットの内ポケットにしまわれていた携帯を取り出して綾乃に見せた。それは、黒のシンプルな形で。電話会社は日本の最大手の、テレビ電話が出来るものだった。
 綾乃はそれをしばらくじっと見つめて。
「・・・これと同じのが、いい」
「え?」
「お揃いがいいな・・・だめ?」
 真っ赤になって呟かれる言葉と、うかがってくるような上目遣いに雅人は思わずクラっとしてしまった。その姿は凶悪的にかわいすぎて。本人は無自覚なんだろうけれど、少しびくびくした感じがもう、征服欲と保護欲を掻き立てられる。
「まさかっ。でも、これは最新機種ではありませんよ?半年くらい前のですし。なんならこの機会にお揃いの最新機種に変えましょうか?」
 雅人がそういうと、綾乃は慌てたように頭を横に振った。
「そんなの勿体ないよ!半年なんて十分最近だし。それがいいのっ」
「そうですか?」
 意外に強く返ってきた反応に、雅人は少し不満そうな顔を浮かべながらも、綾乃がそう言うならばとゆっくりと頷いた。
「では出来るだけ早く用意させます」
「うん。――――雅人さん、ありがとう」
 少し照れたようにその言葉を告げると、綾乃は嬉しそうに笑った。まるで、今まさに花が開花する瞬間のように綺麗にぱーっと顔中に広がる笑顔。
 そんな綾乃に一瞬目を奪われた雅人は、思わず目を細めた。
「いえ・・・」
 きっと綾乃はこれからどんどん綺麗になる。それは雅人の中の、予感を越えた確信。みんなから愛されて自信をつけて、きっと綾乃はもっともっと綺麗に輝いてくに違いない。
「私もがんばらないと・・・」
「え?」
 ボソっと呟かれた雅人の言葉を聞き逃した綾乃が、何?と首を傾げると、雅人はなんでもないと笑って首を振った。
 綺麗になっていろんな人間に言い寄られても、絶対に誰にも渡せないから、他の誰にも取られないように、綾乃が他に目移りしてしまわないように、綾乃にとって最高の男でいたいと、その時雅人は強く心に思った。
「眠いですか?」
 小さくあくびをした綾乃に、雅人は尋ねた。
「あ・・・」
 綾乃は少しお酒も回ってきて、目がとろんとしてきている。けれど、雅人のその言葉にピクっと背筋が伸びた。
「一緒にお風呂に入りましょうか?」
「え!?」
 雅人の言葉にこの間の露天風呂のことが、もうまるで昨日の出来事のように綾乃は思い出して来て、思わず身体が固まってしまった。
「ね?」
「だっ、だめっ。お風呂は、一人で入るっ」
「どうしてです?こないだだって一緒に入ったじゃありませんか」
 その言葉にますます綾乃の顔は真っ赤に色づいていく。
「っ、だから嫌なの!!ぜ、絶対入ってこないでねっ」
 綾乃はそういうと、慌ててバタバタと廊下を走って行ってしまった。シーンとなった室内に、カチャっと鍵をかける音が聞こえてきて、雅人は思わず忍び笑いをもらした。
 ――――かわいすぎる・・・
 雅人はくすくすと笑いを漏らしながら、久保に携帯を用意させるために、自分の携帯を開いたのだった。







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