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綾乃の高校生活が始まって1ヶ月と少しが過ぎていた。 そんなGW明けのこの時期、なんだか身体もだるくて、やる気が出ないのを学校は十分理解しているらしい。桐乃華は6月の1週目の日曜日に体育祭を開催するのだ。 しかもそれは学年対抗でかなり盛り上がる為、担任は大いに張り切って激を飛ばすし、体育教師は嬉々としてしごきにかかってくる。生徒達は皆、やる気が出ないなどとは言ってられない状況下に強制的に置かれるのだ。 それは当然綾乃も例外ではなく、その連日の練習で、かなりぐったりとした日々を送らされていた。 「なんだかお疲れですね?」 雅人の部屋でソファにぐったり沈んでいる綾乃を見て、雅人は笑いながら言った。 「雅人さん・・・なんで、桐乃華には体育祭なんてあるんですか!?もう、理事長権限で止めさせてよっ」 「はは、綾乃は体育だけはダメですねぇ」 愉快そう笑って言う雅人を、綾乃はうらめしそうに見る。 そうなのだ、綾乃は勉強はそこそこ出来成績もいいのだが、運動だけはどうしても出来ない。これはもう努力してどうにかなる域を超えて出来ないのだ。そんな綾乃にとって体育祭というのは、最低最悪の行事であり、その為に連日のように放課後残って特訓される日々など地獄以外なにものでもなかった。 ――――体力と気力の全てを奪われていく気がする。 「ところで、どうですか?最近はだいぶ落ち着きましたか?」 先ほどのからかう様ななりを潜め、心配そうに問いかける。その顔を見て綾乃は苦笑を浮かべた。 「うん、最初はどうなる事かと思ったけど、もう大丈夫。だから雅人さんも、もう気にしないでください」 その事を、雅人が非常に気にしている事を分かっている綾乃は、もう大丈夫だからと笑って見せた。 それは、桐乃華入学当初、綾乃が理事長の親戚だという情報が流れ、一緒に住んでいる事が発覚してしまった事だ。どこから洩れたかわからないその情報は瞬く間に全校生徒の間を駆け抜け、教室には次々と知らない人々が押し寄せた。それは同級生だけではなく上級生も含まれ、南條家に近づきたいばかりに綾乃に接近して来た。そこで綾乃は初めて南條家の大きさと、付き合いという物を嫌でも実感させられた。 そしてそのあからさまな態度と白々しさの中に一人放り出された格好の綾乃は、どう対処していいのかわからず、ただ戸惑い呆然と立ち尽くすしか出来なかった。 それを助けてくれたのが同じクラスの朝比奈翔(アサヒナ カケル)と樋口薫(ヒグチ カオル)だった。 翔は綾乃よりちょっと背が高いくらいのそんな大柄な子でもないのだが、負けん気が強く元気少年で体育の時間は1番で駆けて行くようなタイプ。それと対照的なのが、薫。物静かで声を荒げる事などめったになく穏やかな笑みをつねに浮かべている。背もすらっと高く頭も凄く良いい。 そんな対照的な二人なのだが、翔と薫は絶妙に息があっていて、二人してわらわらとやってくる人達を片っ端から追い払ってくれた。 聞けば、薫と翔は幼等部から桐乃華に通っていて、小等部時代からの友人らしい。息が合ってるのも頷ける。しかも現生徒会長が翔の兄だと聞いた時は、もっとびっくりした。そして何故か薫が生徒会の手伝いなどもしているのだが。 「本当にすいませんでした。どこから情報が洩れてしまったのか・・・私のミスです」 「雅人さん、本当にもういいです。そのおかげでって言ったら変だけど、友達も出来たし」 「そうですか?」 「はい」 綾乃が笑顔で答える。 その笑顔を見て、雅人はホッとため息をもらした。 もう1度笑ってくれたこの笑顔を、何があっても守りたいと雅人は思う。 あの日、自分の力が及ばなくて、綾乃の心を傷つけた。それは自分が、陽子という女に対する判断を見誤ったからで。あの時ほど自分の愚かさに嫌気がさした事はなかった。あれほど後悔した日々を送った事はなかった。 あの時を、あの後の日々を、思い出すだけで今でも胸が苦しくなる。 ―――きっと生涯忘れる事は出来ないだろう・・・・ けれど今見る綾乃はちゃんと笑顔でいてくれる。 「じゃぁ楽しい学校生活なんですよね?」 「体育さえなければいう事なしです」 そんな子供っぽい返事に、思わず笑ってしまう。愛おしさで胸が一杯になる。 「だって翔ったらひどいんだもん。聞いてよ。こなだの体育でバスケをした時なんなんだけどね」 「はい」 「僕は苦手だって最初に言ったのに、凄い急にパスして来て。あんなの絶対受け止めれるわけがないから、避けたら」 「避けたんですか?パスを?」 「だから、あれは翔が思いもよらない所からパスするからぶつかりそうになって、思わず!って雅人さん何笑ってんの!!」 「いえ、わかりやすいパスでは、相手にボールを取られるでしょうしねぇ」 「むむぅ〜〜〜」 「それで?」 「もーいいですぅ!」 「綾乃、ほら怒らないで、続きを話してくださいよ」 「だって笑うもん」 「笑いませんよ」 「既に笑ってるよ!!もう」 すっかり拗ねてしまった綾乃を、雅人はどうなだめたものかと思案する。 きっと、受け取れなくて、朝比奈君に怒られたのだろうと言う事は容易に想像がつく事で、笑ってるのは、そんな綾乃がかわいいから。 「綾乃・・・」 雅人が、ご機嫌を取るように呼びかけると、綾乃はちらっと横目で見る。その頬が少し赤らんでいて。 こんな風に二人で話す時間をどれくらい重ねてきたのだろうか。 あの日から、雅人は少しの時間を見つけては綾乃との言葉を重ねて来た。 そうやって、少しずつ、少しずつ距離を縮めた二人。 そうやって、少しずつ、少しずつ増えた綾乃の笑顔。 少しずつ、少しずつ増えた雅人の笑顔。 それが、今はお互いにとって何よりも大切なものになっていた。 それから二日後の日曜日、綾乃と翔は渋谷まで買い物に出てきていた。 買いたい物があって人気のショッピングビルへと出かけてきたのだが、綾乃が連日の特訓の疲れの上、この人ごみの為にぐったりしてしまい、早々に引き上げ近くのスタバでへたり込んでいた 「綾乃、なんも買わなくて良かったのか?Tシャツ欲しいって言ってたじゃん?」 「うん、でも、今日はいい。もうあの人ごみに戻る気力がない・・・」 翔は前々から目をつけていた物があったらしく、それを見事GET出来て上機嫌なのだが、それと対照的なのが綾乃。買い物どころではなかったのだ。 「大丈夫かぁー?綾乃、お前体力なさすぎ」 「・・・」 綾乃はじとっと翔を見て、無言の抗議する。翔が異常なのだ!!と。 「ったく薫といい綾乃といいだらしないなぁー」 「薫?薫は今日は用事があるんじゃなかったの?」 「違うねあれは。あいつも絶対家でバテてる」 「そーなんだ・・・」 ――――良かった、僕だけじゃなくて。 薫は、人前でぐったりしてる所なんて見せたくないってとこなんだろう、なんとも薫らしいと綾乃は思った。 しかも今日はまだ5月だというのに夏の様に暑い。街を歩く人も半袖の人がほとんどで、中にはノースリーブの人もいる。それなのに二人は今、外の席に座っていた。綾乃は暑いから店内の席に座ろうと言ったのだが、翔がさっさと外の席を選んでしまったのだ。 ――――あづい・・・・・・・ 買ったドリンクは既に飲み干し、先ほどからずっと溶けた氷水をずるずるすすっている。水を取りに行けばいいのだが、その気力ももはやない。 「ったく、水取ってきてやるよ」 それに見かねた翔が席を立つ。 「・・・ごめん」 外を選んだ翔に問題があるような気がするのだが、とりあえず綾乃は謝っておく。 「あれ?朝比奈君に、夏川君?」 「――杉崎くん」 名前を呼ばれ振り返ると、そこに立っていたのは同じクラスの杉崎琢磨だった。キャラメルマキアートを手にしているところをみると、杉崎も外席を選んでやってきたのだろう。 その杉崎が綾乃を見て苦笑を浮かべる。 「なんだか、夏川君疲れてるね?」 「そーなの。こいつ体力なくて全然ダメ」 「・・・るさい」 綾乃がぼそっとつぶやく。 「で、氷水ずるずるすするからさぁ、仕方ないから俺が水もらいに行ってやろうかとね」 「あ、じゃぁ僕が取ってくるよ。その変わりといっちゃなんだけど、同席させてもらえない?席空いてなくて困ってたんだ」 「おーもちろんいいぜ」 綾乃と翔は荷物をどけて椅子を空けやる。 「ありがと」 杉崎は、キャラメルマキアートを置くと水を3つ取って戻ってきた。杉崎の取ってきてくれた水を受け取りながら綾乃もお礼を言う。 「なんでそんなのバテてるの?」 「連日の体育祭の練習の所為。僕、運動大嫌いなんだよ」 「知ってる。僕よりひどい人がいてラッキーって思ってるから」 その言葉を聞いて、翔がたまらず声を立てて笑う。 「・・・ひどい」 確かに、杉崎は自分と近いところにいる事は授業などで知っていたが、その杉崎にまでこう言われるなんて、悲しすぎる。 「でも、夏川君はその分成績良いんだしいいよ。僕は成績も中途半端なところにいるからねぇ。親としてはそっちが問題みたいで・・・」 ―――そういえば、杉崎って良い方でも悪い方でも名を聞いた事ないなぁ 綾乃はクラスでは5番前後、学年で30番以内というあたりをキープしている。薫はクラストップ学年で5位内なのだが。 「そんな事言ったら俺はどうなるのさ」 「翔の場合は、ご両親も言うだけ無駄ってわかってるんじゃない?」 さっきの復讐とばかりに綾乃が言う。 「綾乃、お前なぁーっ!」 翔は薫と反対で、下から5番あたりにいて、小テストから定期テストまで何をやってもその度に担任に呼び出されているのだ。 「いいんだよ、細かい事は気にせず、俺は楽しい学校生活を満喫中なの!」 「うん、朝比奈君見てるとそんな感じがする」 「僕も体育祭さえなければ、楽しい学校生活なのになぁー」 あまりにしみじみ言う綾乃に、今度は二人が声を出して笑った。 その後、結局3人はスタバで午後の時間を過ごした。 というのも、3人はサッカー好きな所や、ハマッてる漫画や好きな映画など、話してみると以外に共通点が多い事が分かり、話が思いのほか盛り上がったのだ。3人は夕方にはすっかり打ち解け仲良くなっていた。 特に綾乃は、自分と同じ様に運動が苦手という事もあって、この新しい友人誕生を大いに喜んだ。翔や薫とは違い、出来ない者同士は何かと慰めあえるのだ。 学校でも体育祭の準備が進むにつれて、綾乃と杉崎は二人で行動を共にする事が多くなっていった。 というのも、杉崎と綾乃は運動レベルが近いので、放課後の特訓や体育の時間でのレベル分けで、つねに同じチームになるからだ。 翔は当然上位グループだし、薫もそうだった。それに加え薫は放課後は体育祭の準備の為、生徒会に借り出される事が多く、行動が完璧に別になっていた。 「特訓なんて絶対無意味だと思うんだよね」 今も、綾乃と杉崎は並んでグラウンドへ向かうべくローカを歩いていた。今から走り込みと、リレーのバトンの練習を1時間ほどさせられるのだ。 「確かにね。ちょっと練習したくらいで足が速くなるなら苦労はしない」 「ほんと。みんな全然わかってないんだから。これはもう生まれつきの遺伝子の問題なんだよ」 「でも、仕方ないよ。さぼるわけにもいかないし」 「クラス対抗リレーは全員参加で」 「結局遅い人をいかに減らし、カバーするかが問題になってくる分けだし」 「そーなんだよねぇ・・・」 となれば、ある意味自分たちの為の特訓なのだ。それを思うと二人の口からは自然とため息が出てしまい、思わず顔を合わせて笑った。 「さて、いつまでも愚痴ってても仕方ない。がんばるか」 ため息をついていても、逃げれるわけでもない。 「そうだね」 そう言うと、意を決して二人はグラウンドへと急いだ。 しかし、人間いかに気分を入れ替え前向きにがんばろうとしても、無理なものは無理。出来ない事は出来ない事であり、その体力的な疲れと精神的な疲れは綾乃の身体にどんどん溜まっていっていた。 人間あまりにしんどい時は食欲が失せていく、という事を綾乃は初めて実感した。せっかくの松岡のお弁当も食が進まず、食べるとなしにその中身をつついているばかり。 「綾乃、行儀悪いよ」 その仕草に薫が釘を刺す。 昼休み、いつもの様に中庭に出て4人は昼食を取っていた。ちょうど木陰になったところに陣取っていたので、ときおり吹くそよ風が気持ち良い。 「綾乃、食わねーんなら、そのから揚げくれ」 「いいよ」 綾乃は、から揚げと言わずそのまま弁当箱を差し出す。 「夏川君、食欲ないのも分かるけど、ちゃんと食べないと」 「うん・・・」 5月にしては珍しく暑い日が続き、その上普段しない運動を強いられてる所為もあって、綾乃はかなりバテ気味なのだ。薫などは加えて生徒会の手伝いもあるので、本当のところ綾乃以上に疲れているはずなのだが、他人に弱みなど絶対見せたくない薫は顔にも態度にも一切出さない。 分かるのは長く付き合ってる翔くらいだろう。 ―――ほんと、薫は凄いよ。 「綾乃、何に出るんだっけ?」 「ムカデ競争と、クラス対抗リレー・・・」 足が遅くても出来るだろうとムカデ競争に決められたのだが、確かにそっちはまだいい、問題はリレーなのだ。クラス対抗ということでみんなの気合が入りまくっている。 その中で明らかにクラスの足をひっぱっているのがわかるのだから、気も滅入ってくる。 自然とその口からはため息が洩れる。 「綾乃、落ち込まないの」 薫が頭をぽんぽんたたいて慰めてくれる。 「そーそー綾乃の遅れくらいは俺様の脚で取り返してやるって」 「うん」 「それに食べないと、本当に本番で倒れちゃうよ。それでなくても食細いのに」 「そうだぞ。夏はこれから。今から体力つけとかねーと!!夏遊び回れないじゃん!!」 「うん、ありがと」 「翔は別の理由で夏は遊べないんじゃない?」 「なんで?」 「夏休みの前には期末テストがあってね、あんまり悪いと補習が待ってるからね」 「――っ薫!!」 「だから、とりあえず目の前の事考えて、そのお弁当をちゃんと食べて、松岡さんを安心させてあげて」 「うん」 「綾乃は体育祭さえ乗り切れば問題ないんだから。翔は、中間も期末も乗り越えなきゃいけないんだよ。可哀想だよねぇ」 「・・・薫、てめぇ!!」 「うん、ありがと」 綾乃は、二人の慰めが心に響いてうれしかった。その薫の気遣いも、翔の気遣いも十分に分かるから。 二人の慰めに綾乃も顔をあげ、気を取り直してお弁当を食べ出した。 その様子をしみじみ見ていた杉崎が思わず言う。 「夏川君、二人に愛されてるねぇ・・・」 「え!?」 その唐突な言葉に思わず食べていた玉子焼きを喉につまらす。 「いや、こんな事言うとなんだけど、ほら夏川君って入学当初色々騒がしかったじゃない?ところが、二人が現れてさ、なんか守ってますみたいなオーラ凄くて、誰も近づけなくなっちゃって」 「え・・・っと」 「それって生徒会長が影で動いてたからみたいな噂も聞いたから、どういう付き合いなんだろって思ってたんだけど、本当に仲良いんだね。うらやましいよ」 杉崎は少し寂しそうな顔をして笑った。 「な、何言ってんだよ、杉崎だって俺らの友達じゃん」 翔が勢いよくその背中を叩いて言う。 「朝比奈君・・・ありがと」 確かに、あの日偶然会うまでは、ほとんど話した事もなかったし、あまり杉崎君の事意識した事もなかったなと、綾乃は思った。 杉崎は、良くも悪くも目立たないタイプで。 きっとそういうのは寂しかったに違いないから、これからもっともっと仲良くなっていこう。寂しい気持ちは自分には凄くわかるから。これからどんどん仲良くなっていけばいい。まだ学生生活は始まったばかりなんだから。 けれど、そんな綾乃の思いとは対照的に、薫は杉崎に冷たい視線を向けていた。 |