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「はぁ、疲れた」 「今日もしっかり1時間走らされたねぇ」 「僕、思うんだけどさぁ、今からこんなに疲れてたら、逆に本番はばてばてになると思うんだけどなぁー・・・」 「確かにね」 杉崎と綾乃はいつもどおり放課後特訓を終えて、教室に戻って来た。体操着でそのまま身体の汗を拭き、制服に着替える。桐乃華の制服はブレザーなのだが、綾乃も杉崎もすでに夏の半袖を着用している。 「翔はこの後、サッカーして帰るらしいから、ほんと凄いよ・・・」 「朝比奈君はうらやましいくらいに元気だね」 「ほんと・・・・・・」 ―――うらやましいというか、能力の全てが運動に回っちゃってるんだよ、翔は。 「あ、今日ね、僕車に迎えに来てもらってるんだ。だから、夏川君も送っていくよ」 「え、いいよそんな、悪いし」 「いいって遠慮しないで。こんなくたくたで電車で帰るのなんてしんどいよ?」 ―――確かに・・・それは言えてる。 足の筋肉は痛いし体はぐったり重い上、汗でべたつく体で駅まで歩き、さらに電車に乗って帰る事を考えれば、冷房の効いた車で送ってもらえるのは抗いがたい誘惑だった。 「んーじゃぁ、お言葉に甘えよっかな」 「うん、そうして」 杉崎は嬉しそうににっこり笑った。 桐乃華には、車で通学してくる生徒も多い。杉崎や、薫、翔もそうだ。桐乃華には裕福な家の子が多いので、安全面に配慮して車通学を許可しているというのだと聞いた時、あまりの別世界に綾乃はびっくりしたが。そういう綾乃も、当然雅人に車通学を進められたのだが、どうにも綾乃にはピンと来なくて断って以来、電車通学をしている。 「そうだ、夏川君」 「なに?」 「あのね、ちょっとお願いがあるんだけど・・・・」 「?」 「今度の土曜日、空いてるかな?」 「うん、特に予定はないけど、なんで?」 「実はこないだの英語の課題でわからないところがあって、提出は月曜日でだし・・・それで、良かったら教えてもらえないかなぁ・・・と」 「ああそんな事?全然いいよ。あれでしょ、洋書翻訳」 「うん。僕、長文訳は苦手で」 「おっけー。じゃぁどこでしよっか?」 「良かったら家に来ない?実は家にはシアタールームがあって、これはちょっと凄いんだ。是非夏川君に見てもらいたいなぁって思って。映画も好きって言ってたし、勉強終わったら、一緒に見ない?」 「本当!?いいの!?うわぁー絶対行く!!」 シアタールームという言葉に綾乃が飛びつく。翔と一緒に電気店で体験したそれに、綾乃が感動したのはついこないだなのだ。 ―――それをまた体験できるなんて!!しかも、それが家にあるなんて、凄い!!お金持ちだぁ!! その時ついていた値札を思い出し、妙なところで綾乃は実感してしまったのだった。 「良かったぁ。助かるよ」 綾乃の、そんな反応に満足したのか、杉崎がにっこり笑う。 「全然!そうだ、勉強なら薫とかも誘う?」 「いや、出来れば夏川君だけがいいんだけど」 「?」 綾乃は杉崎にその言葉にちょっと首をかしげる。 「あの、僕、なんかちょっと樋口君って苦手っていうか、ほら、彼って凄い頭いいし。僕とかさ、全然出来ないから、そーいうのって何か気後れしちゃっうっていうか、返って聞きづらいっていうかさぁ・・・」 「そうなんだ?」 「うん・・・あ、樋口君には内緒にしててね。別に嫌いとかじゃないんだ・・・・」 「うん、わかるよ。じゃぁ二人でしよ」 確かに薫はその印象から、冷たい人のように思われたり、近づきがたい人と思われたりしているのも事実だった。そういう噂話や陰口は嫌でも綾乃の耳にも入ってくる。杉崎もそうだったのかと思うと、少し寂しい気持ちがしないではなかったが、嫌いというわけではない。少しずつ薫の事もわかっていってもらえればいいと思い、この時綾乃は杉崎の発言をさして気にはとめなかった。 その週末、綾乃は約束どおり杉崎の家に遊びに来ていた。 午前中からお昼を挟んで英語の課題をやっつけた後、二人はシアタールームで映画を堪能していた。杉崎の家のホームシアターのセットは綾乃の想像以上に凄い立派な物で、最新型の一番良いものを揃えてあるらしい。 それを天井の高い部屋に備え付け、画面を見るのに一番良い場所に、これまた座り心地の良いラブソファをひとつ置いているだけの贅沢さなのだ。しかも部屋には冷蔵庫やバーカウンタまである。 「凄いねぇー、音響とかも綺麗だし、迫力や美しさもそのままだし、それにこの見心地!足をのばしてゆったりだよ〜映画館以上だぁ〜」 二人で見た映画は、綾乃が以前から見たかった映画で、そのストーリーも堪能したのだが、やはりその口から出るのはその性能に対する感激の言葉だった。映画みたいに凄い迫力を、家のゆったりした空間で見る事が出来るのだ。なんて素晴らしい、なんて贅沢だろうと思う。 「おもしろかったね」 そんな綾乃の様子に杉崎は笑いながら言う。 「うん。あの最後の、結局娘を母親に取られて、その後姿をただ呆然と見送る姿がジーンときちゃったよ・・・・その時の音楽がこう、グッと来た〜音響がいいから余計だよー本当いいなぁ、コレ」 結局はそこに戻る綾乃である。 「そんなに言うなら夏川君も理事長に頼んで作ってもらえばいいじゃないか」 「そんな!そんな事できるわけないよ」 その発言に綾乃が慌てて首を横に振る。 「どうして?理事長は夏川君の事凄く大切にしてるって聞いたよ」 「あ、いや、確かに凄くよくはしてもらってるけど、それとこれとは・・・」 「南條家といえば、うちなんかよりもっと凄い家柄じゃないか。これくらいのシアタールームなんて安い買い物だと思うけど」 「それは・・・南條家のお金であって僕の物じゃないし。第一、僕は南條家の人間じゃないから」 「そうなの?でも、養子に入るんでしょ?」 「え!?何それ」 「え?噂でそういうの聞いたけど」 「まさか!そんな知らないし!!そんなのデマだよ!!」 「そーなんだ」 「うん・・・・・・あ、がっかりした?俺が南條家の人間じゃなくて?」 そういう人を何人も知っているから、と綾乃はつい口に出してしまった。 「まさか!そんなつもりで聞いたんじゃないよ!!・・・・・・・そんな風に言うなんて、ひどいよ」 綾乃の言葉に、杉崎は悲しそうに顔を歪めた。 「ご、ごめん」 「僕は、ただ夏川君と友達になりたかったし、そうなれて良かったなって思ってたんだけだよ」 「杉崎君・・・」 「僕、前から夏川君と友達になれたらなぁって思ってたんだ。でもなんか、ほら朝比奈君と樋口君がいつも一緒だからさ、なかなか友達になれなくて、ほんと偶然に感謝したんだ」 「そうなの?」 「うん。僕は夏川君ほど勉強できないけど、なんか運動苦手なとことか、ちょっと人見知りっぽとことかさ似てるなぁって思ってて。勝手に親近感持ってたんだよね」 「本当!?僕も!!ちょっと思ってた・・・・・あ・・・・・・・杉崎くん・・・ごめん、そんな風に思ってくれてるとか知らなくて、凄いひどい事言っちゃったね。本当にごめん」 そんな風に思ってくれていたなんて知らなかったとはい、綾乃は杉崎に言ってはならない事を言ったと思った。その気持を傷つけてしまったのだ。 ――――なんてバカな事を言っちゃったんだろう・・・ 色々あって、そういう事にちょっと過剰になってしまってるのかもしれない。友達に、あんな事言っちゃうなんて、最低だ。 「ううん、いいんだ。僕も噂話とか出してきて、色々言ったのがいけなかった。ごめんね」 「ううん!そんな事ないよ。僕が悪かったから・・・」 「ううん・・・ほんとにもういいから」 「杉崎くん・・・」 「ね、もうこの話は終わり。これからも、友達でいてくれるでしょ?」 「もちろんだよ!!」 「良かった!そうだ、仲直りにって言ったら変だけど、良かったら夕飯食べていかない?」 「あ・・・ごめんっ。夕飯は家で食べる事にしてるんだ。僕が家で食べないと、一番下の雪人くんが一人になっちゃうんだ。まだ小学生なのに」 「そうなんだ!?そっかぁ、じゃぁ仕方ないね」 せっかくの杉崎の申し出を断るのは忍びなかったが、雪人に一人で夕飯を食べさせるわけにはいかない。雪人のがっかりした顔を見たくないし、させたくもないんだから。 「うん、ごめんね」 「ううん。そういう事なら仕方ないんだから、気にしないで」 「うん」 「それよりさ、こないだ話したオンラインゲームなんだけど」 少し、落ち込んでしまっている綾乃を元気づけようと杉崎が明るく言う。 「ああ、あれどうなってるの!?」 「見る?」 「見たい!!」 早速綾乃と杉崎は杉崎の部屋へと場所を移し、今度はオンラインゲームの話題で盛り上がっていった。あまりに話が弾んでしまい、思ってたよりも長居してしまった綾乃は、夕飯へ間に合わせなければと筋肉痛にもかかわらず、駅まで走らなければならなかった。 その甲斐もあって、綾乃はなんとか6時過ぎには南條家の門扉に手をかけていた。 ―――夕飯は6時半からだから、間に合って良かった。 ホッとして玄関扉を開ける。 「ただいま」 「おかえりなさい」 門扉を開ける音でわかるのだろうか、松岡はいつも玄関で綾乃を迎えてくれる。もちろんそれは綾乃だけではなく、全ての人に対してそうなのだが、こんな風に『おかりなさい』を言ってもらえる事が、綾乃には凄くうれしかった。 時折不安になっても、この言葉を聴くと、ああ帰って来て良かったんだなぁって思わせてくれる。 「すいません、遅くなってしまいました」 「大丈夫ですよ。今日はね、珍しい人がいらっしゃいますよ」 「珍しい人?え、誰ですか?」 松岡はその質問には答えず、リビングへと綾乃を連れて行く。綾乃は初めはお客様なのだろうかと、少し緊張した面持ちでいたのだが、廊下を進むにつれ聞こえてくる声に笑顔を広がる。 「直人さん!うわぁ、久しぶり!」 「おう」 ソファに偉そうにふんぞり返って座りながら直人が片手を上げる。その横には当然、満面笑みの雪人が座ってる。 「おかえり、綾ちゃん」 「ただいま、雪人くん」 直人はこの春から、南條家が経営しているホテルグループのほうで働く事になり、連日の忙しさでなかなか帰宅して来れなかったのだ。普段はホテルの部屋や、仮眠室で寝て過ごしているらしい。6週間以上ぶりの帰宅である。 「ね、珍しい人でしょ?」 「はい、確かに」 松岡の物言いの、綾乃は笑ってしまう。 「なんだよ?」 「いいえなんでも。荷物置いてくるね」 「おう」 綾乃は部屋に荷物を置くと、大急ぎで階下へと急いだ。久しぶりの直人との3人の食事が嬉しいのは雪人ばかりではない、綾乃もうれしかった。 久しぶりのそれは、いつも以上に話が進んでにぎやかな物だった。雪人は終始嬉しそうにして上機嫌だったし、そんな雪人がかわいくて仕方ない直人も、一緒に風呂まで入って甘やかしている。そんな二人を見てるだけで、幸せな気持ちになった。 風呂には綾乃も誘われたのだが、この年になって3人で風呂に入るのは抵抗があり、丁重に断って部屋で宿題をしていた。 すると、風呂からあがったらしい直人がドアをノックした。 「ちょっといいか?」 「うん」 綾乃の返事と同時に、直人は部屋へ入っきてベッドに腰かけた。綾乃は座っていた椅子を反転させ、直人を見る。 「元気そうだな」 「はい」 「入学して直ぐばたばたしてたんだろ?ごめんな、なんか何もしてやれなくて・・・」 直人が、いつもの軽い笑顔をひっこめて、改めて言う。 「そんなっあれはもう本当に大丈夫だから。こないだ雅人さんにも言ったけど、気にしないでいいから」 「ああ、その顔みたらそんな感じだな」 そう言って直人は綾乃の髪をくしゃくしゃにしていく。 「直人さん!!もうっ」 その手を払いのけて、怒った顔して髪を元に戻す。そんな綾乃を見て直人は目を細めた。 ―――ほんと、しっかり立ち直ってきたな・・・・・・良かった。 あの日を境に、綾乃がどうなっていくのか、直人だって雅人と同じように心配しその心を痛めていた。あの事で雅人を責めはしたが、何も出来なかったのは結局自分も同じだったのだから。 それが、ちゃんと明るく笑っていてくれてる事がなによりうれしい。 「学校は順調なんだな?」 「うん。今日も友達の家に行ってたんだ」 「そうらしいなぁ。凄い成長ぶりだ」 「成長って・・・・・・」 「薫か?翔んとこか?」 綾乃の口から聞いた事のある名前はその二人だったので、直人はそのどちらかだろうと思ったのだ。 「ううん、違う子。その子の家にね、でっかいシアタールームがあって、そこで映画見せてもらってきたんだ!そのシアターセットが本当にすっごいのでね!!立派でかっこいいんだー」 綾乃は今日自分が見て体験した事、それに自分がいかに感動したかという事を直人に力説していった。それを黙って聞いていた直人だが、話が終わるとなんでもない事にように言った。 「そんなに良かったんなら、作るか?シアタールーム。兄貴に言えばいっぱつだろ」 「・・・直人さんまで、そーいう事言う」 その言葉に綾乃が途端に渋い顔をする。 「俺までって?」 その顔を無視して直人が聞く。どうせ、金の事とかの心配なんだから、そっちはどうでもいい。 「その友達、杉崎君っていうんだけど、彼にも同じ事言われたから」 「杉崎?そいつ杉崎って言うんだ?」 「うん、杉崎琢磨君」 「新しい奴だな。名前聞くの初めてだ」 「ああ、そっか。うん、最近仲良くなったから」 そこで綾乃は、杉崎と仲良くなった顛末やどういう人かなど、自分の印象を交えながら直人に話して聞かせた。 「なるほどなぁ、似たもの同士で気が合ったわけか」 直人が面白そうに、にやにやしながら言う。そのいかにもからかいを含んだ顔を綾乃は睨みつける。 「体育祭かぁー俺も綾乃の勇士見たかったんだけどなぁー」 「見なくていい!」 「なんだよ、俺なんていなくてもいいーって事だ?まぁ、あんま家にもいないし、珍しい人にされてるしなぁー」 「直人さん!?そんな事言ってるんじゃ・・・」 ちょっと拗ねた顔をする直人に、からかわれているだけと分かるのに、綾乃はつい慌ててしまう。 「綾乃はかわいいなぁ」 「直人さん!」 ―――もう、ふざけてるんだか、真剣なんだかちっともわかんない 今度は綾乃が拗ねた様な顔になる。その顔を眺めながら、直人は真面目な顔をする。 「ごめんなぁ、行けなくてさ。ほんと、俺お前になんもしてやれやれてねーのな」 「直人さん!そんな事ないよ・・・・気持だけでも、本当にうれしいから。そんな風に言ってくれるだけで、本当に」 直人の言葉に綾乃が困った顔をしてしまう。 直人は、今回の体育祭にどうしても行ってやりたかったのだ。綾乃が南條家に来て初めての体育祭で、しかも今まで叔父一家は一度も来た事もなかったと聞いては、行かないなんて事考えられなかった。それなのに、どうしてもはずせない仕事が入ってしまったのだ。それでもなんとかならないかと、秘書に頼んで日程や時間など色々と調節してみたのだが、どうしてもその日を空けることが出来なかったのだ。 ―――俺以外は全員行くのに。 「俺が行きたかったの。ほんとにごめんな」 「もう、本当にいいから気にしないで。昔の事考えたら、今は恵まれすぎてて怖いくらいなんだから・・・そんな事より直人さんが忙し過ぎて体壊したりしないか、そっちの方が心配だよ」 「それは大丈夫、俺は元気だけがとりえだからな」 直人は安心させるようににっこり笑うと、綾乃もつられて笑った。 「お?宿題してんのか?わかんねーとことかあるなら教えてやるぜ」 「本当!?じゃぁーちょっとこの世界史なんだけど・・・」 綾乃は早速、さっきから困っていた文を指してみた。どうもカタカナが多い世界史は苦手だ。名前は似てるし、馴染みがないから中々覚えられないし、どっちがどっちで、どれが先だったかとか頭がこんがらがっていく。そんな綾乃に直人は早速教科書を読みながら、次々と助言をしていく。直人は答えを教えるなんて事はしない。ヒントを与えて、自分で答えを導き出させるのだ。 綾乃も元が出来ているので、それで十分だった。そして、直人の助力で、思ったより早く宿題を終える事が出来た。 「ありがとう。これでちょっと早く寝れるっ」 「眠いのか?」 「毎日、体育祭の練習があるんだもん、くたくた」 そう言うと綾乃は早速風呂に入る事にする。 「ちゃんと100まで数えろよ」 バスルームに向かう綾乃に直人は言う。 「直人さんっ僕をいくつだと思ってるの!?」 直人は笑って、ダイニングへと消えていった。 ―――まったくもう。 綾乃は、ため息をつきながらも、笑顔でバスルームに向かったが、ダイニングへと入った直人の顔から笑顔は消え、その顔つきは一変していた。 「直人様、どうされました?」 その顔つきだけで松岡には十分だった。 「俺、部屋にいるから、兄貴が帰って来たら部屋に来るように伝えてくれるか?」 「分かりました」 「頼むな」 直人はそれだけ告げると松岡には詳しい事は一切話さなかったし、松岡も聞こうとはしなかった。必要になれば、直人なり雅人なりが話してくれる事をわかっているからだ。 ――――とりあえず、兄貴に確認をとってからだ。 『杉崎』違いという事もある。特別変わった苗字というわけでもないのだから。直人は、そうであって欲しいと願っていた。 |