・・・3・・・

 次の日、綾乃は珍しく車で通学をしていた。というのも、雅人が朝から学校に行くと言うので一緒なのだ。
「こうやって一緒に行くのも久しぶりですね」
「うん。10日ぶりくらい?」
「そうですね、それくらいでしょうか」
 最近雅人は、いつもにも増して忙しいようで、二人は朝の『おはようございます』の挨拶くらいしか交わせていない。
 だから、学校までのわずかな時間とは言え、こうやって雅人と二人で話をする時間を持てた事が綾乃はうれしかった。
「綾乃、特訓の成果はどうですか?」
 なのにその質問。綾乃は途端に拗ねた様な顔になって、冷たい視線を送る。答えはわかっているのに聞かないで!と、口に出さずともその顔が十分に語っている。そんな綾乃の様子を雅人はさも楽しそうに見てしまい、ますます綾乃が怒った様な顔をする。
「そんな顔しないでくださいよ」
 自然とそんな顔も見せてくれるのがうれしくて、ついつい怒らすような事を言ってしまう自覚はあるのだが、あまりに落ち込ませてはせっかくの時間が台無しになってしまうと、雅人はご機嫌を取るように綾乃の髪をくしゃりと撫でる。
「やっぱり体育祭はなくならないんですね・・・」
 そんな行為に、されるがままに身を任せながらも、諦めきれないように呟く。そんな姿も雅人にはかわいくて。
「結果ではありません、その努力が大事なんですよ」
「・・・・それ、思いっきり建前ですよね?」
 綾乃の冷たい返事に、雅人はくすくす笑いながら、あいまいに頷くしかなかった。
 それを見た綾乃は、もういいんだっと、ちょっといじけた気分になって外を見る。

 ――――嫌だなぁ・・・・・・
 綾乃が本当に体育祭に出たくない理由は、運動が苦手という事以外にもまだあって。それは、やはり綾乃はまだ学校では注目度が高い事。普段は、もう慣れたクラスメイトや、翔、薫などがそれとなくカバーしてくれているから、普通に学生生活を送るのには支障はなくなってきている。
 けれど体育祭ともなれば、やはり注目されてしまうだろう。
 ――――今だって、じろじろと練習を見られてて嫌なのに
 自分の運動神経が良かったら気にならなかっただろうが、そうではなくて。かっこ悪く目立ってしまうことは、もう間違いなくて。
 ――――きっと雅人さんや雪人くんにも恥かかせる事になってしまう。せっかく見にいてくれるのに・・・・・
 そんな風に思うと、情けなくて申し訳なくて。気が重くて仕方がない。けれど、まさかずる休みするわけにも行かず。1日1日 近づいて行く日々に、綾乃は体力以上に精神的に疲れてきていた。
「綾乃?」
 急に黙り込んでため息ばかりつく綾乃の様子に、雅人はそっとその名前を呼ぶ。
 そんなにも体育祭が嫌なのだろうか?と心配になる。
「綾乃?」
 返事のない綾乃に再度呼びかけながら、そっとその頬に触れる。
「え!?」
 その感触に綾乃はびっくりして、外を眺めていた目を雅人に向ける。自分の思いに引きづられてしまっていた綾乃には、雅人の声が届いてなかったのだ。
「どうしたんですか?何か心配事でも?」
「いえっ、すいません。あの・・・体育祭の事考えてたら、だんだん憂鬱になってきて・・・」
 優しく尋ねてくれる雅人に申し訳ない。
 ――――余計な心配かけないようにしなくちゃいけないのに。
「そうですか?」
「はい」
 心配してくれているのは分かるけど、本当の気持を話て、これ以上余計な心配をかけるだわけにはいかないと、綾乃は思う。
 ――――体育祭に関してるんだから、あながち、嘘ってわけでもないし・・・
 そんな風に自分にいい訳しておく。
「そんなに心配する事はありませんよ。ばかですね」
「そういう事は雅人さんが運動神経いいから言えるんだよ。出来ない僕の悩みなんてわかんないっ」
 綾乃は、歯を出していーっとした顔を雅人に向ける。
「綾乃」
 そんな綾乃の身体を雅人は自分の方に引き寄せ、そっと抱き締めた。
「雅人さん!?」
「そんな顔したら、可愛い顔が台無しですよ」
 綾乃が離れてしまわないように、そのきゃしゃな身体を腕の中に閉じ込める。
 ―――そんな風に、無理してしまわなくていいのに。
「・・・なっ、かわいいって」
 その言葉に綾乃は耳を赤くする。その耳元に雅人は願いを込めてそっと呟く。
「ねぇ、綾乃、何かあったら1番に相談してくれるって約束してください」
 もっと、もっと甘えてくれたいいと思うのに、まだそれは無理で。それも分かっているから、届かない思いがもどかしい。
「・・・・・・・っ、何、言ってるの!?今のところ、いたって順調だよ?」
「ええ、わかってます。だから、何かあった時は、です。その時は真っ先に私の事を思い出して、1番に相談してください。いいですね?」
 雅人は、綾乃の顔を上向かせて、その瞳を覗き込んだ。その瞳に揺れる不安の影を見つけようとするかのように。
 けれど、見詰め合ったのは、ほんの一瞬。
 綾乃はすぐにそれを隠すように笑って返事をした。
 










「はぁ・・」
 その放課後、理事長室の窓から外を眺めていた雅人の口からは、今日何度目かのため息が洩れた。
 ――――杉崎 琢磨・・・か。
 今朝、綾乃は門のところで車を降りると、見つけた杉崎に手を振って駆けて行った。その綾乃の後ろ姿を、雅人は黙って見送るしか出来なかった。
 昨日、直人から話を聞いて、初めて綾乃が杉崎と親しくしている事を知った。
 雅人には、直人の話が信じられない気持もあって、いや信じたくない気持と言った方がいいだろう。どうしても自分の目で確かめたくて、時間がない中、今日の時間を無理矢理空けて学園に来ていた。
 そして目の当たりにした現実。直人の話は現実だったという事実をはっきり突きつけられて。
 ここのところ、体育祭の準備や、すでに来年の受験への準備、その他の雑事に追われて、綾乃とゆっくり話をする時間を持てなかった。
 ――――いや、そんな事はいい訳だな・・・・・・
 時間など本気で作ろうと思えばなんとかなるものだ。綾乃は順調そうだと安心して、注意を怠っていた自分の責任。
「はぁ・・・」
 体育の時間も二人は仲よさそうに一緒に練習をしていた。そして、今も。

 あの笑顔。

 それはなんとしても、守らなければならないと思う。だが、二人が仲良くなってしまった今、一体何が出来るのだろうか。どうすれば、あの子を傷つけないで、済ます事が出来るのか。良い考えが浮かばない苛立ちに、雅人の顔には焦りの表情が浮かぶ。
 その時、理事長室のドアがノックされた。
「はい?」
「失礼します」
 入ってきたのは、翔の兄であり生徒会長の朝比奈透だった。
「これは、こんにちは」
 雅人はこの訪問者に笑顔を向ける。
「理事長がいらっしゃってるとお聞きしましたので、ご挨拶と、今ご覧になっていた事についてお話しておいた方がいいかと思いまして」
 椅子ではなく、大きな机に背中を凭れさせて、窓際に立つ雅人は、今何を見ていたのか透には一目瞭然だった。
「そうですね、是非お聞きしたいです」
 二人はグラウンドを見下ろす様に窓際に並んで立った。
「まず、お詫びを。こんな事になってしまって申し訳ありません。二人が近づくきっかけになった時、翔が側にいたのですが、翔はどうも噂話に疎くて、ちゃんと対処出来なかった様です。薫が側にいれば良かったのですが」
「いえ、そんな事で謝らないでください。翔君が悪いわけではありません」
「いいえ、あいつももう少し自覚を持たなければ・・・・」
 自他共にその優秀さを認められている透だが、弟にはもっぱら甘いとう評判なのだ。今も頭が痛いという様に言いながらも、その顔には甘い苦笑が浮かんでいる。
「それが翔君のいいところじゃないですか」
「そう言っていただけるとうれしいのですが。翔も二人が仲良くなるのに一役かわされてしまったみたいで・・・薫の話ですと、かなり仲良くなってしまっているみたいです」
「そうみたいですね」
 雅人は、苦く笑う。それは今日1日の綾乃の顔を見てればそれはもう、一目瞭然で。
「当然綾乃君は、例の話を知らないんですよね?」
「もちろんです。あの子はつい最近まで私達とは無縁の生活を送っていましたし、こう言ってはなんですが、私達の世界にも、そのやり方にもまだ馴染んでいませんからね」
 それだけに、本当の事を知った時、綾乃は一体どれくらい傷ついてしまうのか想像もつかなくて。それを思うと心が締め付けられるような気がする。また、全てを拒絶する様になってしまったら、自分は絶対に杉崎を許せないし、私情といわれようとも杉崎家との付き合いも考え直すだろうと、雅人は思っていた。
 例えそれが、南條家に少なからず影響をあたえたとしても。
「杉崎君の狙いは一体なんなんでしょうか?綾乃君には、こう言ってはなんですが、そういう意味で影響力はないと思うのですが・・・・あの話、正式にお断りしたんですよね?」
「ええ。それももうご存知なのですね」
 透の情報の速さに、雅人の口からは思わず苦笑が洩れる。
「元々が水面下の事ですから知ってるものは少ないとは思うのですが、薫も知っていましたよ。その事で薫もやはり心配のようです」
「薫君にもお礼を言わないといけませんね。綾乃の事に心を砕いてくれて」
「いいえ。あれは自分の決めた事でしか動きませんから、今も綾乃君と仲良くしているという事は自分でそうしたいって事なんでしょう。気になさらないで下さい」
「薫君の事、詳しいですね?」
「・・・・・・長い付き合いですから」
 その返事に、微妙なニュアンスを感じ取ってしまうのは、気の所為ではないだろうと、雅人は思う。前々から不思議ではあった。いつか機会があったら聞いてみたいものだと密かに思っていたが、今はそれどころでもない。
「とりあえず、出来るだけ二人きりにならないように心がけていただけますか?」
「わかりました。その様に薫には伝えてはおきますが、ただ相手も薫の事は警戒しているようで」
「でしょうね。出来る範囲でかまいません。ひょっとすれば、二人が仲良くなったのは本当に偶然で他意はないのかもしれませんから」
「・・・そうですね」
 雅との言葉が、かなり希望的観測にもとづく発言である事は、透にも分かっている。
 もちろん、もし雅人の言うように本当に偶然だとしたらどんなに良いだろうと思うのは、二人の共通した思いなのだが、その可能性は限りなく低いなと、言った雅人ですら思っていた。








 


 そんな風に、自分の周りがにわかに騒がしくなっている事などまったく気付いていない綾乃は、その日もいつものように放課後の走り込みにつき合わされ、今日もまた杉崎に車で送ってもらって帰宅していた。
 それはここのところ、毎日となっていて。
 というのも、体育祭まであと4日と迫ったのに、なかなかバトンの受け渡しが上手く出来ない綾乃に対して、練習がどんどん過酷になっているのだ。
 綾乃は、部屋へ入るなりベッドに倒れ込む。
「・・・・・・つかれた・・・・・・」
 最近は、雪人と遊んであげる事も出来てなくて。綾乃は、その事がずっと気にはなっているのだが、立ち上る気力がない。
 そのまま、制服も脱がずに、しばらくの間ベッドでうとうととしていると、ドアがノックされて松岡が顔を覗かした。
「あれ?・・・あ、もう夕飯ですか?」
 うとうとしている間にもうそんな時間かと、綾乃は慌てて身体を起こす。
「いえ違うんです。杉崎君と言う子が下に来ていますよ」
「え!?杉崎くんが??」
 ――――なんで!?さっき分かれたばかりなのに・・・
 綾乃の顔に困惑の色が滲む。送ってもらっておいてなんなんだが、いきなり家に訪ねて来られるというのはやはり困るのだ。南條家は自分の家とは違うのだし。
「ええ、上がってくださいと言ったのですが、車を待たせているからと玄関に」
 その言葉を聞いて綾乃は慌てて階下に降りていく。玄関へ行くと、そこには確かにさっき別れたばかりの杉崎が立っていた。
「杉崎君、どうしたの?」
「ごめん、これ借りたのに返すの忘れてて。途中で思い出して引き返してきたんだ。今日古典の宿題出てたから必要だと思って」
 そういって杉崎が差し出したノートは、今日の昼間綾乃が杉崎に貸していた、古典のノートだった。
「ああ!すっかり忘れてた。助かったぁ。ありがとう」
「ううん、借りていたのは僕なんだもん。本当にごめんね」
 しきりと恐縮する杉崎から綾乃はノートを受け取る。
「ううん」
「じゃあ、僕外に車待たせてるから」
 そういって、ドアノブに手をかける杉崎に、少しホッとして『うん、ありがとう』と綾乃が言おうとした瞬間、外から玄関のドアが開けられた。
「な、直人さん!?え、どうして??」
 二日連続で帰宅してくるなんて、直人が働き出して初めての事だ。
「おいおい、どうしてって、自分家に帰ってきただけなんだけどな」
 綾乃の反応に、直人が苦笑を浮かべる。
「っあ・・・すいません・・・」
 2日も続けて帰って来た直人にびっくりしたのと、杉崎がここにいる気まずさと焦りから、綾乃は「お帰りなさい」というより先に、驚きの言葉を口にしてしまったのだ。他意はなかったのだが、直人の言うとおり、直人は自分の家に帰ってきただけ・・・・・・
「誰?綾乃の友達か?」
「あ、す、杉崎君。ノートね、僕が忘れてて、それで、わざわざ届けてくれたんだ。もう、帰るとこだからっ」
「はじめまして」
 慌てる綾乃とは対称的に、杉崎は落ち着いた態度で、丁寧に頭を下げた。
「はじめまして。へー君が杉崎君か。綾乃から話は聞いてるよ。仲良くしてくれてるみたいでありがとうな」
「いえ、とんでもありません。僕の方こそ夏川君には色々お世話になっています」
「そうなの?ふーん、そうだ、せっかくだし夕飯食べていかないか?その辺りも聞いてみたいし」
「申し訳ありません、せっかくのお申し出なのですが、家の者が用意してくれてますので」
「ああ、そっかぁ、確かにそりゃそうだよな。残念。じゃぁーまた今度にでも」
「はい、ありがとうございます。では僕は失礼します」
 杉崎は綾乃に「また明日」と声をかけ、直人には再び一礼してから出て行った。その態度はいたく堂々としたもので。
 ――――あれが、杉崎琢磨か。俺と出くわして内心相当慌てたはずなのに、顔には一切出さねーって
 やはり、そういう家に生まれ育った男ってところなんだろうなと、冷ややかな思いで直人は考えていた。
「あの、直人さん?」
 そんな直人に、綾乃は遠慮がちに声をかけた。
「あ、おう。なんだ?」
「あの・・・すいませんでした。さっき・・・・・・」
「さっき?」
 何の事かわからないという風に直人は言う。
「僕、そんなつもりで言ったわけじゃないんです。ただ、2日続けて直人さんが帰宅するなんて珍しくて、その何かあったのかと思ってびっくりしちゃって・・・・・・ほんとに、ごめんなさい」
 ――――ああ、わかった。
 綾乃が何に謝っているのか分かった直人は、やれやれとため息をついて、情けない顔になっている綾乃のほっぺを軽くひっぱる。
「ばーか。そんな事気にしてねーよ」
 普段は、全然普通でいられる様になったのに。綾乃は人に嫌われる事に敏感すぎて、時々こういう顔が覗く。
「ごめんなひゃい・・・」
「ほんとにわかってんのか!?」
 俺が怒ってる意味、絶対わかってねーだろと思うともどかしくて、綾乃の所為じゃないと分かっていても、少し腹立たしい。直人はほっぺをひっぱってた手をさらにひっぱってから離した。
「痛い・・・・・・」
「くだんねー事言うからお仕置きだ」
 そう言うと直人は、ちょっと怒った顔をしながらリビングへと歩いて行く。まだ、信頼されてないのかと思うと、少し悲しい気分になる。それで綾乃を責めるのは違うと、頭では分かっていても、気持がいらだってしまう直人は、まだまだ子供というところだろうか。
 そんな背中を見て、綾乃はそっとため息をつく。
 ――――じゃぁ、杉崎が来ちゃった事に怒ってるのかな・・・
 それは、綾乃自身も気にした事で。自分の発言以外で直人が機嫌が悪くなってる原因はそれしかないように思えて。綾乃はその事を話すために、直人の後を追った。

 けれど、そのまったく見当違いな言葉を聞かされた直人は、今度は綾乃の両方のほっぺをひっぱたのだった。
 










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