・・・10・・・

「「結婚!?」」
 声が変な風にハモった。
「雅人さん!?」
「理事長――っ」
 綾乃と薫が立っていた位置からちょうど影になった角から、慌てた様子の雅人が飛び出してきた。
「ちょっと待ってください。誰が誰と結婚するんです!?」
 多少うわずった声で言う雅人を、聞かれた恥ずかしさで真っ赤になった綾乃は見上げて、細い声で言う。
「・・・・・・・・・え?雅人さんが・・・・・・・杉崎君のお姉さんと・・・・」
「そうだったんですか?理事長」
 それは知らなかったと、薫が思い切り眉をひそめると、雅人は慌てたように首を振る。
「違いますよ。そんな話はありませんよ。一体どこからそんな話が?」
 薫の言葉を否定して、雅人は綾乃に尋ねる。
「え―――・・・・」
「夏川君。ここにいたんだ?」
 その時、今雅人が現れたのと同じ場所から杉崎が現れた。
 ―――あ・・・・・・・・・
 チッと、薫が小さく舌打ちした声が、隣にいた綾乃には聞こえる。
 杉崎は薄い笑顔を浮かべながら3人の方へと近づいてくると、続いて後ろから、綺麗な女の人の姿が現れた。綾乃は、まじまじとその女の人を見てしまう。そんな綾乃の視線を十分に意識しながら、杉崎はその女性を指してはにかんだように笑った。
「姉だよ」
 ―――やっぱり・・・・・
 会いたくないと思っていたのに。綾乃は微かに顔を歪めた。それは、他の人か気が付くほどのものではなかったが。
「はじめまして、姉の理恵です。弟からいつもお話をうかがっているんですよ。仲良くしてくださってるみたいでありがとう」
 理恵と名乗ったその女性は、華やかな、けれど楚々とした笑顔を綾乃に向ける。
 スラっとした背に、少し華奢な身体つき。手入れの行き届いた真っ直ぐに伸ばされた髪が、頭を下げた拍子に前へと滑り落ちて、綺麗に光る。
「理恵さん」
 雅人が、呼ぶ。
 その声に、理恵はうれしそうな笑顔を雅人に向けて、綾乃の心がズキンと痛んだ。
「南條さん、こんにちは。ご無沙汰しております」
「こんにちは。見違えましたよ、お美しくなられて」
 雅人の言葉に、理恵はパァっと頬を赤らめて、恥らうように笑顔を浮かべる。
「まぁ、ありがとうございます。だって、以前お会いした時はまだ学生でしたもの。南條さんの方こそ、とても男らしい、素敵な方になられて。お噂は色々聞いていますわ」
 ―――お似合いだなぁ・・・・・
 並び立つ二人を見て、自然とそんな思いが浮かぶ。こんなに似合う2人なんだから、やっぱり結婚するんだろうかという思いが、綾乃の頭をよぎる。
 雅人と並んで正装でもしたら、凄い絵になると思う。自分にはない自信と、気品が理恵からは溢れてて。
「いえいえ、私などまだまだです。色んな人の手を借りて、やっと立っているだけですよ」
「まぁ、そんな謙遜ばかりおっしゃって。父から聞きましたわ。先日の成功話」
 いたずらっぽく笑う理恵に、雅人も笑顔を答える。
「止めて下さい。あれはそういうのではないんですよ。お恥ずかしい」
 綾乃にはなんの事かさっぱりわからない話を、2人は笑顔で話しあって、そこだけが抜き取られた美しい絵のようで、競技場のローカの片隅などには見えなくて。
 自分などが入る余地など、まったくなくて。
 自分の想いの醜さに、ばかばかしさに恥ずかしくて。
「―――っ」
 綾乃は思わず、背を向けて走り出してた。
「綾乃!?」
 薫の驚いた声が響いて。
 なんて、かっこ悪いことしてるんだろうって思う。いきなり走り出した自分の後始末に、雅人は言い訳に困るかもしれない。恥かしい思いをさせたかもしれないと思っても、分かっていても、それでもあの場に居続ける事は出来なかった。

 ―――まだ、まだ泣いちゃだめっ

 一人になれる場所にいくまでは、我慢しなきゃ。

 涙で霞む目を必死で開けて、綾乃は廊下を走った。


  階段を駆け下りて、なんとか見つけた空き部屋に滑り込む。誰も使ってないから、ムッと空気が澱んでいる。少し埃がかぶった床に、綾乃は崩れるように座り込んだ。
 堪える事の出来なくなった涙が、ぽたぽたと膝や床に落ちる。
 ―――なんでこんな事になってしまったんだろう。
 全部ちゃんと諦めていたのに。そうやって今まで生きてきたのに。いつのまにか、手に入るはずのないものを、望んでしまっていた。そうと気付かないで、もしかしたらなんて淡い期待を抱いてた。
 ―――ばかだ・・・・・・・・
 目の前に突きつけられた、違い。自分とは、所詮住む世界が違う。違うのに・・・・・・・・
 とめどない涙が頬を伝って、綾乃が呆然と空を見上げていると、微かに音がして。
 ―――あ・・・・・・・
「綾乃−!どこです?」
 すぐに雅人の声が響いてきて、手当たり次第ドアが開けられる音がする。
 綾乃は慌てて周りを見渡して、ドア横に置かれたロッカーに影に身を隠すように自分を抱き締めて座り込んだ。
 見つかりたいのか、見つかりたくないのか、探しに来てくれてうれしいのか、困ってるのか、もう全然わからなくて、涙に濡れた顔を閉じた膝の間に埋める。
 カタカタと震える自分の身体の音まで大きく響いているようで、ぎゅっと強く抱き締めて。
 一歩一歩近づいてくる音に、心臓がドキドキとうるさく鳴って。
「―――綾乃っ!・・・・・・・・良かったっ。ここにいたんですね」
 ドアが開けられて、綾乃はすぐに見つかってしまう。
 変わらない、雅人の優しい声が降りてきて。安堵の思いが込み上げる。心がその波に流されて、どんどん新しい涙が綾乃の瞳から溢れ出した。
「っ!!」
 強い、強い力で抱き締められた。抱える膝ごと。
「綾乃」
 切ない、どうしようもない思いを込めて雅人が呼ぶ。その声が、苦く苦しい響きで。
「・・・・ごめっ・・・・・ごめんなさい」
「綾乃。謝らないで」
「だってっ」
「綾乃が謝ることなんて何一つないっ」
 雅人にしては珍しく強い口調で、言い切る。
 そしてその身体を少し離して、綾乃の顎に手をかけて上を向かせる。まだ流れつづける新しい涙を優しくぬぐいとって、不安で揺れる綾乃の瞳をまっすぐに見つめ返した。
「さっき、話していたことですが」
「・・・・・さっき?」
「私の結婚です。誰からそれを?」
「あ・・・・・ネットで、偶然見つけて。杉崎の姉さんと結婚するって」
 綾乃が呟くように言うと、雅人は納得したように頷く。
「それを信じたんですか?」
 綾乃は、コクリと頷いた。
「だって、杉崎君の事、薫は嫌いみたいで、なんでかなって思ってたら、その記事みつけて・・・・・・それで、そうなんだなって、思って・・・・・・・でも」
「でも?」
 言っていいのかわからない続き。でも、一旦あふれ出した思いをせきとめる強さが、綾乃の心からいつのまにかいなくなって。感情のままに、口を開く。
「・・・・・でも、そしたら、直人さんも・・・・・・・・・・・・・・・・・・雅人さんも、なんでなんも言わないのかなって思って、・・・・・・・・・それは、やっぱり結婚するから、仲良くしてた方がいいって思ってるのかなって」
「綾乃っ」
 その、初めて知らされる綾乃の思いに、雅人は激しくうちのめされた。自分が良かれと思って黙っていた事が、逆に綾乃を余計に苦しめていたというのだ。
 全て自分の所為で、綾乃を苦しめて傷つけてしまった事実。
「―――すいませんでした」
 強く後悔の念が滲んだ声は、唸るように搾り出すように苦いもので。
 守ると言いながら、直人にも自分にも誓っておきながら、苦しめていたのが自分自身だったなんて。あまりにも悔しくて、悲しくて、おろかな自分にどうしょうもなく腹が立つ。
 けれど、綾乃はわからないと、首を振る。
「なんで、雅人さんが謝るの?」
「私は、綾乃を全然守れてなかったから。何一つ守れず、こんなにも苦しめてしまっていた」
「・・・・・・そんな・・」
「綾乃、私は結婚なんてしませんよ」
 優しくそっと、雅人はその事実を囁く。
「・・・・・・・・・・・・・・・・え!?・・・・・・・えっ・・・・・そう、なの?」
「はい」
 雅人はゆっくりと微笑を浮かべた。
「だって・・・・・」
「本当に結婚と書いてあったのなら、完全に誤報です。確かに、そういう話があったのは事実ですが、きっぱりはっきり断りました」
「ほんと、に?」
「はい」
 雅人の穏やかな笑みを見て、綾乃の顔に安堵の表情が広がって。
「あ、泣きやみましたね?」
「あっ」
 指摘された、そんな現金な自分に、赤くなって俯く。
 ―――だからって、別に・・・・・・・・・・・・・・
 くすりと雅人が笑う気配がして、反射的に顔をあげると、優しい瞳にぶつかる。
「さっき、結婚して欲しくないって、言いましたよね?」
「あっ・・・・・・・・え、っと・・・・・」
 一瞬にして、綾乃の顔が耳まで赤くなる。
 ―――やっぱり、聞かれてた。
 あのタイミングなのだ、それは確かめるまでもなく当然の事。綾乃は恥ずかしくて、再び顔を伏せる。何を言われるのか、なんて思われてるのか、雅人の次の言葉が怖くて、思わず耳でもふさいでしまいたいのに、その両手は自分の膝をしっかり抱いていて、その上にはしっかり雅人が抱き締めていて。
 逃げることも出来ない。震える思いで次の言葉を待つと―――
「それは、うぬぼれてもいいですか?」
 落ちてきた言葉は、想像していたどれとも違っていた。
 その言葉の意味を知りたくて、はじかれる様に顔を上げると、雅人の顔をその視界に捉えるまえに、その唇が優しく目じりに触れる。
 そのまま、雅人は祈るように耳元で囁いた。
「―――愛してます」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・え・・・・・・・・・・?」
 その、あまりにも意外な、想像もしていなかった言葉に、綾乃の目を大きく見開かれて、心臓が壊れた目覚まし時計のように激しい音をたて始める。
「私の思いを押し付けるつもりはありません。ただ、知っていて欲しかったんです」
「・・・・・・・・・・」
「いつでも私は、綾乃の側にいて、綾乃を愛していますから。だから、他の誰かと結婚したりしません。――――絶対に」
 雅人は、それを牧師の前で宣誓する新郎の様に静かに厳かに言うと、綾乃の身体をそっと、離そうとした。
 その背中を、今度は綾乃が慌てて腕を回して捉える。
「ほんとに?ほんとに―――――――――僕なんかが、好き?」
 震えてしがみついている身体を、雅人は壊れてしまいそうなほど、再び力強く抱き締めて。
「僕なんか、なんて言わないで。私の愛している人を、たとえ本人でも卑下して欲しくないっ」
 その強い言葉が、綾乃の胸に突き刺さる。
「だって・・・・・・・・・だって・・・・・・・・・・・・僕は・・・・・・・・・」
 誰にも、愛されなかった。
 誰にも、必要とされなかった。
 父さんにも捨てられて、親ですらいらない子供で。
 そんな僕を・・・・・・・・・・・・雅人さんが、雅人さんが愛してるなんて―――――
「信じられないっ」
 信じる事が、恐い。信じて、もし信じて、失くしたらどうなるの?僕は雅人さんに想ってもらえるような人間じゃないのに。
 きっと絶対、幻滅されるから・・・・・・
「んっ・・・!?」
 突然雅人の唇が、荒々しく綾乃の唇をふさぐ。そして、それは触れ合う軽いキスではなくて。
「ふぅ・・・・・・ぁ・・・、んんっ」
 歯列を割ってゆっくり舌を差し入れて、逃げる綾乃の舌を捉える。
 存分に味わって、背中に回して服を掴んでいた綾乃の指に、力が入らなくなるころになってようやく雅人はゆっくり出て行った。
 綾乃は初めての深いキスに、肩で息をしながら、その額を雅人の胸に押し付けてぐったりとよりかかる。
 雅人は少し満足そうな笑顔を浮かべて、耳元でそっと囁く。
「じゃぁ、どうしたら信じてくれますか?」
「・・・え?」
「綾乃のためなら、なんでも出来ますよ?」
「・・・・・・っ」
 優しくつむがれるその言葉に、わからないと綾乃は微かに首を振る。額を雅人の胸元にすり寄せるような仕草は、どこか子供がぐずっている様にも見えて。
 そんな綾乃の様子がかわいくて仕方が無いのか、雅人が愛しそうに目を細める。
「じゃぁ、毎日言いましょうか、愛してる、と」
「えっ!?」
「それなら信じてくれますか?」
 雅人はわざとどこかからかうみたいな口調で言い、綾乃の額や頬にキスを落とすと、綾乃が僅かに顔を上げて、真っ赤に潤んだ瞳を向ける。それが煽情的で、色っぽくて。
「キス、していいですか?」
「は?えっ・・・っ・・・んん・・・・・・ふぅ・・・」
 雅人は綾乃の返事も待たずに、再び綾乃の口をふさいだ。
「はぁ・・・・・・っ・・・・・・ふっ・・・」
 すると、綾乃がおずおすと舌を差し出して、雅人は少し驚きながらも、うれしくて。しっかり絡めて吸いあげると、その刺激に綾乃の背中がビクっと揺れる。
 飲みきれない唾液が、口の端から流れて。今度はそれを綺麗にするように、雅人はゆっくりと舌を移動させて舐めていく。
「あっ・・・・・・だめ・・・」
 ゆっくり首筋をたどる舌に、綾乃は思わず腰を引かせて腕を捉えてひっぱる。その抗議に、雅人は苦笑を浮かべて視線をあげる。
「綾乃?」
「・・・・・・だめっ」
 潤んだ瞳は決して嫌がってはいない事がわかるが、ここで無理強いするつもりも雅人にはなくて、あっさりとそに舌をひっこめて、スイマセンと笑って、お詫びと目じりにチュっとキスを落とす。
「なんだか・・・・・・我慢できなくて」
 少し困った様に言う雅人の態度に、なんだかいつもと違う男っぽい一面を見て、綾乃は戸惑いの中でドキっとする。
 けれど、それを言うにも受け入れるにも、綾乃はまだまだ子供過ぎて。頭の中も整理が出来てなさ過ぎて。
「・・・・・・おなか減ったっ」
 そんな、色気のない言葉で誤魔化した。












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