・・・7・・・


 ・・・・・・・・あれ?真っ暗だ。
 綾乃が目を覚ますと、そこは暗闇だった。いや、それよりも一体自分はいつ寝ったのだろうかと、記憶を手繰り寄せる。
 ――――えっと・・・・・・・・・
 なんだか頭がぼーっとしてて、うまく思い出せない。どうしてたんだっけ?と、どこかふわふわした気分で綾乃は考える。
 ――――ああ、そうだ。ネットしてて、・・・・・・・・・・・・・・・そうだった・・・
 眠りに付くまでに自分が何をしていたのかを思い出して、綾乃は一気に気分が沈んでしまう。いつ電気消して、ベッドに入ったのか、全然覚えていなかったのに、目が痛くて、泣いていたことだけがわかる。
 綾乃は今何時なのだろうかと思い、ベッドサイドの電気をつけて時計を確認すると、時計の針は夜中2時を少し回ったところを指していた。
 ――――はぁ・・・・・・・・・なんか、喉渇いた。
 綾乃は、どこか頭の中に霞がかかっているみたいで、思考力が上がらない意識を持て余し、このまま寝なおす気分にもなれず、水でも飲もうかとベッドから起き上がった。
 音を立てないようにとそっとドアを開けて廊下に出てみると、雅人の部屋から明かりが洩れているのが見えた。
 ――――まだ、起きてるんだ・・・・・・

 『ご両親。だって、桐乃華の体育祭だよ?しかも、夏川君は今南條家にいるんだし、来ないはずないと思うけど?』

 その時、忘れていた、昼間の杉崎の言葉が綾乃の脳裏をよぎった。
 ――――そうだった・・・その事も話しておかなきゃって・・・・・・・・・思ってたんだ。
 今は彼らにはどうしても会いたくない。それが、綾乃の正直な気持だった。
 けれど、これ以上雅人にわずらわしい事を言いたくないという思いもある。自分さえ我慢すればいいんじゃないかという思いも浮かんでくる。
 ――――あんまり我侭言って、迷惑かけて、嫌われたくない・・・・・・・・・
 ずっとずっと我慢して、それを我慢だと思ったことなんてないくらいに、そんな自分があたり前で過ごしていたのに。人に好かれることなんて、どこか諦めて生きてきたのに。
 今は、嫌われるのが怖い。
 優しく笑ってくれるあの笑顔が、迷惑そうに歪むところなんて考えたくもないから、笑っていてもらうために、もっと我慢しなきゃいけないって思うのに。
 今はがんばれない、と思うのもまた事実だった。自分の許容範囲がいっぱいいっぱいで、これ以上は無理だと、心のどこかが叫んでいる。杉崎のことが、雅人の結婚の事がショックで、頭がいっぱいで、他の事なんてなにも考えたくないし、考えられる余裕もない―――と。
 綾乃は、思考がまとまらず、どうすればいいのか、どうしたいのかもわからなくて。すぐそこの雅人の部屋が、はるか遠く感じられて、行く事も戻ることもできなくて、その場にずるずると座り込んでしまった。
 それからしばらくの間、綾乃は扉にもたれる様に座り込んで、呆然とその明かりを見ていた。どれくらいそうしていたのだろうか、階段の方からギシっと微かな音が聞こえた。
「綾乃!?どうしたんです?こんな時間に・・・」
「・・・雅人さん・・・」
 座り込んでいる綾乃に雅人が駆け寄ってくる。その髪が少し濡れていて、身体からもまだ湯気があがっていて、風呂に入ってきたのだとわかる。
「どうしたんです!?気分でも悪いんですか?それとも、どこか―――っ?」
 風呂上りの上気して赤いはずの顔を青くして、雅人はおろおろと言葉を重ねる。
「あ、いえ。違うんです・・・すいません・・・・・・」
 そうじゃないと、綾乃は慌てたように首を振る。
「綾乃?」
 ――――涙の・・・痕?
 綾乃の顔に微かに残るその痕を確認した雅人は、眉根を寄せ、その頬に優しく手を添える。
「どうしたんです?具合が悪いんですか?」
「いえ、本当にそういうんじゃないんです。ちょっと・・・立ちくらみです」
 そう言うと、何かを隠すように慌てた様子で扉につかまって立ち上がろうとする綾乃を、雅人は問い詰める事はせずに、そっと抱えるように助け起こす。
 そして、立ち上がった綾乃からその腕を離す事無く、その瞳を穏やかな色に染めて言う。
「綾乃、少し話をしませんか?」
「・・・・・・あ・・・っと・・・」
「ね?まだ寝れそうにないんですよ。少し付き合ってください」
 その優しい声色は、けれどどこか拒否の言葉を口にできない響きがあって、綾乃は頷くしかできなかった。
 雅人はその返事に満足したのか、綾乃を抱えるようにして部屋へと連れて行く。ソファに座らせ、備え付けの小さな冷蔵庫の中から、缶のカフェオレを1本とって綾乃に手渡す。
「すいません。ジュースとかなくて。でも、これは甘めなので綾乃にも飲めると思いますよ」
「すいません。ありがとうございます」
 受け取った缶はよく冷えていて、その指先から冷たさが身体に伝わっていく。一口飲むと、中からもじんわりと冷えていき、ぼーっとしてた頭が少し覚めた気がする。
「さて、綾乃、何があったんですか?」
 綾乃の横に座った雅人は、優しい笑顔を浮かべつつも単刀直入に切り出した。
 こんな夜中に、涙の痕を残して、座り込んでいた綾乃。それが立ちくらみなんかじゃないことは、雅人が1番分かっていた。
 元気にしていたと思っていたのに、一体いつの間に、何にこんなに苦しんでいたのだろうかと、いつも気付けない自分に、雅人はどうしようもないほど苛立っていた。
 それを隠すように、綾乃を安心させるように、笑顔を顔に貼り付ける。
「あ・・・・・・・何って・・・」
「約束しましたよね?なんでも話してくれるって。1番に相談してくれるって」
 畳み掛けるように言葉を重ねてくる雅人に、綾乃は唇を噛んで下を向いた。
 そんなことを言ったって、雅人だって結婚のことを綾乃には言わなかった。杉崎の事も黙っていたじゃないかと思う。
 それを悲しいと思うのは、自分には過ぎた事なのだろうか?悔しいと思うのは、身の程をしっていないのだろうか?
 つらいと、―――嫌だと思うのは、ただの我侭なのだろうか―――?
 綾乃は、どうしたらいいのかと伺うように雅人に視線を向けると、雅人はまっすぐいつもとかわらない優しい瞳で、綾乃を見つめ返していて。
「学校で何かあったんですか?」
 心底心配そうに尋ねてくる言葉に、何も裏がないように思えて。綾乃はどんどん分からなくなる。上手く誤魔化す術も思いつかなくて、もう1度その顔を窺うとやっぱり笑っている。けれど、納得のいく事を聞かない限り誤魔化されてくれる気配もなくて、綾乃はため息をついて、気になる事2つのうちの1つを白状する事にした。
「今日、昼間、っ・・・杉崎君に言われた事が・・・」
 けれど、『杉崎』とその名を言おうとして綾乃は一瞬言葉に詰まってしまった。さっきまで普通に呼べたその名が、今は違う物のように思える。
 何か気付かれなかっただろうかと、内心どきどきしていたが、雅人はそこには気づかなかったらしく、言葉の先を促してくる。
「何をです?」
「その、僕の両親・・・あ、彼は両親って思ってるけど、その叔父さん達が、体育祭に来るんじゃないかって。僕が南條家にいるんだし、叔父さんも会社経営してるから、その、チャンスだからって・・・・」
 綾乃は、雅人の顔を見ることが出来ず、再び下を向いてしまう。
 本当はこんな事いいたくなかった。自分でさらっと解決できるようになりたいと思った。そんな事もできず、我慢も出来ず、呆然と座り込んでいるところを見つかって、結局雅人に頼ろうとしている自分はなんて無力でどうしようもない人間なんだろうと思う。
 ――――雅人さんだって、きっと困ったなんて思ってる・・・・・・・
 そう思と、恥ずかしくてかっこ悪くて、まとものその顔を見ることができなくて、顔を上げることなんて出来ない。
 しかし、綾乃が顔を上げていたら、違う意味でその雅人の顔を見て真っ青になっただろう。雅人は、表情をつくろうう事も出来ないほどに、苛立ちと腹立たしい気持ちでいっぱいになっていたのだ。
 ――――余計な事を・・・・・・っ
 その鋭利に冷えた顔に、かみ締めた奥歯がギリっと微かな音をたてた。
 もし、杉崎がそんな事を言わなければ綾乃はそんな事考えもしなかっただろうし、それならばこんな風に落ち込む事もなかったのだ。夜中に一人泣くこともなかった。
 杉崎の言葉が、綾乃を苦しめている。そう考えるだけで、腸が煮えくり返る思いだった。
 当然雅人は、早くからその可能性を考え、すでに手は打ってあったのだ。ただ、その事を綾乃に言うつもりは毛頭なかったし、それどころか何も気付かずいてくれればいいと願っていたのだ。
 ――――それを・・・・・・っ、あのガキっ―――
 雅人の普段の穏やかな笑顔は影を潜め、その顔には冴えて切れるような冷たい表情と、怒りに狂う瞳が浮かぶ。けれど、それも一瞬の事。すぐに覆い隠して、綾乃には微塵も見せず、いつもの様に優しい落ち着いた口調で話かけるのは、さすがと言うべきか。
「そんなこと心配していたんですか?大丈夫ですよ。桐乃華の体育祭は、そのご両親の所に招待状が行く仕組みになっていまして、その招待状がなければ中に入る事はできません。綾乃の後見人には私がなっていますので、雪人や直人には招待状がありますが、叔父さんの家に招待状が届くことはありませんよ」
 もちろん抜け道もあるし、入場者はそれだけではないのだがそんな事を話す必要はない。雅人は、何も心配することはないですよと、綾乃の手を取って優しく笑った。
 その言葉に、綾乃は俯いていた顔を微かに上向かせる。
「そうなんですか?」
「ええ、だから会う事はありません。何も心配する必要はありませんよ」
「・・・・・・・・・良かった」
 そのあまりに安堵した表情に、雅人は思わず綾乃の身体を抱き寄せた。叔父一家が来る事が、泣くほど心配だったのかと思うと、くだらない事を言った杉崎への怒りがまた新になって湧き上がってくる。
 ――――絶対許しません。この借りはきっちり返してもらいますからね
 子供相手に、雅人は本気でそう思っていた。自分の大切な人を泣かすなんて、例え子供でも許すことなんて出来ないのだ。
「大丈夫ですよ。綾乃はそんな事心配しなくていいんですよ。ちゃんと私が守っていきますから」
 その思いが、伝われば言いと思う。
「・・・・・・・」
 雅人は綾乃をなだめるように、頭を、頬を優しくなでる。
「ね?」
 けれど、綾乃はその言葉に返事を返す事はできず、乾いた涙が、再び頬を伝って流れ出す。それを見た雅人は、ぎょっとして途端に慌てた顔をする。
「綾乃!?どうしたんです?本当に大丈夫なんですよ。そんなに気にしていたなんて・・・もっと早く話せば良かったですね」
 綾乃は首を横に振る。
 ――――違う・・・・・そうじゃない
 雅人はその事がそんなに綾乃の心を痛めいていたのかと、一層の力を込めて綾乃の身体を抱き締めるけれど、2人の思いは交差していなくて。
「今度からはもっと早く心配事は話してください」
 ――――そうじゃないよ・・・・・・・
 泣きやまない綾乃を、雅人はただ抱き締め続けるけれど、思いの隔たりは広くて、かみ合わない思いが、綾乃の気持を沈めて行く。
 ――――どうして?
 綾乃には、いつもは安心できる大好きなその腕の中が、苦しかった。
 ――――どうしてそんなに、優しくしてくれるの?
 雅人の指先が、涙をそっとすくう。綾乃は無意識のうちの、雅人の服に指を絡めて、その額を正人に擦り付けてしまう。無意識のうちに甘えてしまう。
 ――――僕は、雅人さんにとって、なんの繋がりもないのに・・・・・・・・
 雅人が綾乃の髪を優しく梳く。それに身を任せても、心は一つも晴れなくて、ただ届かない思いに不安になる。
 ――――わからない。全然、わかんないよ・・・・・・・・
 こんなことなら、何も知らないままでいたかった。期待する事もなく、人に優しくされる事もなく全てを諦めていたあの頃のままで良かった。
 雅人が結婚して、別に家庭を持てば、こんな時間もなくなって。自分たちの関係も変化するだろう。それどころか、18歳になってここを出たら、もう関わり合う事もなくなってしまうだろう。
 ――――また、一人になるんだ・・・・・・・・・・・
 そう思うと怖くて、不安で震えてしまう。
 ――――どうして・・・・・・・・っ、それならどうして、優しくしたりするの!?
 答えのない問いを抱えて、割り切れないどうしようもない思いが湧き上がって、こんなにも甘えたな態度を取ってしまう。涙を止めることができなくて、そんな自分がどうしょうもなく嫌になってくるのに、それでも綾乃は駄々をこねるように首を振る。それしか思いを表す術をしらない子供のように。
 すると、雅人がそっとそのあごを捕らえ、上を向かせる。眼前に迫った雅人の顔は、優しく微笑んでいて、綺麗で、かっこよくて、その視線を間近で正面から見つめられて、綾乃は目が離せなくなる。
 吸い込まれそうなその顔がだんだん近づいてきて、綾乃が『え?』と思った時には、雅人の唇が綾乃の目元に落ちた。
 泣きやまない綾乃の涙を、吸いとるように、優しく、触れられる雅人の唇。
 ――――・・・・・・・・・・・・・・・・何・・・・・?これ・・・・・・・・・
「泣かないで」
 そう囁くと、雅人の唇がもう1度落ちてくる。
「もう、辛いことは何もおこらないから」
 ――――・・・・・・辛いこと?
「ずっと、ずっと守っていきます。何に変えても、綾乃を守っていきますから―――」
 ――――結婚するのに?人のものになって、いつかは子供も出来て、お父さんになってしまうのに?
 喉まででかかって、それでも発することのできない思いを綾乃は飲み込む。
 自分を見ようとはしなかった父が、自分の存在を無視し続けた叔父一家が綾乃の脳裏に浮かび上がる。自分を必要としなかった父。自分の家庭を守ることしか興味のなかった叔父。その姿が、雅人と重なって・・・・・・・
 再び雅人の唇が綾乃の目じりに触れられた時。
「いやっ!」
 綾乃は、思わず叫んで雅人の腕の中から飛び出した。
「・・・・・・・・・・・あ・・・・・・・・っ」
 その綾乃の行動を、雅人は驚いた様に綾乃を見つめる。その真っ直ぐな視線にさらされて、綾乃の顔がどんどん青ざめていく。
 自分でもどうしてそんな態度をとってしまったのかわからない。自分のしてしまった行動に一番驚いたのは綾乃自身だった。ただ、仕舞いきれない思いが苦しくて、涙がどんどん溢れて来る。見つめる雅人の顔が、悲しく歪んで見えたのは、涙で視界が歪んでいたからか、雅人の顔がそうだったのか、綾乃にはわからなくて、確かめようと必死で見るのに、その視界はどんどん歪んでいく。
「すいませんでした。つい、子供の頃の雪人にしたようにしてしまいました」
 聞こえる声だけは、いつも通りで。なんでもない事の様にしてしまう。
「僕っ・・・・・・僕の方こそごめんなさい・・・・・・びっくりして・・・・・・僕・・・・・・」
「いえ・・・」
 その声が少し、切なく苦く響いた。
「あ、あの、僕もう、戻りますね」
 綾乃は、どうしていいのかわからず、雅人の次の言葉を聞くのが怖くて、身の置き所がなくて、ただ逃げるように部屋から飛び出し自室へと戻った。
 残されたのは、密かに手の中に残るぬくもりと、飲みかけのカフ・オレの缶。
 雅人はその後を追うことも出来ず、綾乃がたった今出て行った、閉じられた扉を見つめ、その身体をソファに深く沈めていく。
 ――――何故、あんな事を・・・・・・
 自分の意思に弱さに嫌気がさす。後悔の思いが押し寄せてくる
 ―――― 一生言わないと、直人に言ったばかりなのに・・・・・・・・・
 ほとんど無意識だった。ただ、泣きやんで欲しくて。ただ、言葉に出来ない思いを、伝えたくて、ただ、触れたくて。気付いたらキスしていた。
 愛しくて、愛しくて―――ただ愛しくて。抱き締めたかった。キスしたかった。
 それが綾乃にとって、迷惑であろうとか、困るだろうかとか、考える余裕を失ってしまっていた。
 ――――・・・・・・愛してる・・・・・・
 言葉にする事の出来ない思いを、心の中で、大切にそっと呟く。が、その顔には、すぐに自嘲めいた笑みが浮かんだ。  困らせて、泣かせて、一人で泣かせて、きっと眠れないだろう夜を押し付けて、何が愛しているだ。守ってやることも出来なくて、あんな風に、一人で廊下にしゃがみこませて、寂しい思いをさせて。
 その挙句、もう少しで自分の思いを押し付けるところだった。
 理性の糸が焼ききれて、本能のままに、この思いのままに、あの身体をこのソファに押し倒して、全てを暴いて、もっと泣かせてしまいそうだった。
 ――――直人が知ったら、烈火のごとく怒り狂うな・・・・・・
 直人に言った事が嘘というわけではない。それだって、自分の中にある思いには違いないのだ。けれで、もっと正直に本能のままに言えば、綾乃を抱き締めて、キスして、その身体を組み敷いて、全てを暴いて、自分の物にしたい。
 人になんか、渡したくない。
 どこかのわけのわからない女なんかにどうしてやらなければいけないのだろうかと思う。
 大切に、大切にしたい、たった一人愛しているあの子を、どうして他人なんかに渡したいと思うだろうか。狂おしい程に、愛しているのに。
 泣いても、苦しんでも、嫌がっても、この庇護の下に閉じ込めて、自分なしではいられなくしたい。南條の力を使えば、それは十分可能だろうと思う、その甘い誘惑に心が傾いてしまうことだってある。
 拒絶されたあの瞳が、その思いを貫いて、責めているのか、それとも誘惑しているのかわからない。
 そこまで考えて、苦笑を浮かべて雅人は立ち上がった。チェストに近づいて、中からウィスキーの瓶を取り出す。

 このまましらふではとても眠れそうになかった。
 長い夜になりそうだった。













next    top    novels