・・・8・・・


・・・体育祭前夜。


「ほっぺたどうしたの?」
「え・・・・?」
 昨日といか今日というかの時間、綾乃は中々寝付けなくて。眠りにつたのは、もう夜が明けようかとしている時間だった。十分に睡眠の取れなかった身体はだるくて、頭はぼーっとして。朝から全てがまったく稼動していかない。授業の内容も頭に入ってこなくて、1限目から寝てしまい、先生に怒られてしまった。
 それなのに、2限目も寝て過ごした綾乃に、薫が苦笑を浮かべている。
「さっきからずーっと触ってるけど」
「あ・・・・・・」
 綾乃は気付かないうちに、昨日キスされた頬を触っていたらしい。その事実に思わず赤面し、困惑の表情を浮かべる。
「綾乃?」
 その反応に薫は内心驚きを感じながらも何気ないように、何があったの?とその目に好奇心を浮かべて聞いてみる。
 それにどう答えたものかと、綾乃は少し困ったように首をかしげた。
「何・・・も、ないよ」
 誤魔化したいのか相談したいのか、自分でもまだわからないうちに聞かれるその質問に、なんとも中途半端な返事をしてしまい、薫は苦笑を浮かべる。
「僕には相談できないような事?」
「・・・・・っ。て、わけじゃないんだけど」
「うん?」
 促すように聞いてくる薫に、しばらく考える顔になるも、綾乃はとうとう相談するほうを選んだ。自分でもちょっともてあまし気味の思いを、薫なら何かわかるかもしれないと期待したからだ。
「そのね、薫には弟とかっている?」
「ううん、妹ならいるけど」
「そうなんだ・・・。じゃぁ、弟がいたとして。ちょっと年の離れたって事でね」
「うん」
「その弟が泣いてたら、どうする?」
「どうするって・・・まぁ、理由を聞いて、慰めるなり励ますなりするかな」
「そういう時って、抱き締めたり、する・・・かな?」
 その質問に薫はピンとくる。朝から元気のない綾乃に、もしかして杉崎絡みの問題なのかと、少し心配していたのだが、どうやら理事長絡みなのだなと一人納得して嬉しくなる。
「うーん・・・抱き締めたりかぁ。弟が小学生低学年とかだったらかわいくてしちゃうかもね。でも、それ以上だったら・・・どうかなぁ?僕の妹は今中1だけど、生意気でかわいくないからねぇ。抱き締めて慰めてあげたいとは、到底思わないね」
「そっか・・・」
「うん」
 そこで綾乃はしばし逡巡するように視線を泳がせると、薫は急かすでもなく、綾乃が口を切るのを待つ。すると、気持を固めたのか、綾乃が意を決したような顔で口を開いた。
「じゃぁ・・・ね、泣いてるからって、ほっぺにキスしたりは・・・しないよね・・・・・・?」
 ――――理事長キスしたんだぁ
 綾乃の言葉に思わず笑顔になってしまいそうな自分の顔を、薫はなんとか引き締める。透から聞いてたよりも、少し進展したらしい2人に思わず拍手したくなってしまう気持を隠して、思案顔をなんとか作る。
「そうだねぇ、僕ならそれはしないかな」
「・・・・そう、だよねぇ・・・」
 ――――ちょっとヒント、あげるくらいならいいよね。
「それがさ、好きな子とかだったら話は別だよ」
「え?」
「だから、好きな子。大好きな人が泣いてたら、抱き締めてあげたいって思うし、泣きやんでほしくてキスくらいしちゃうと思うな」
「・・・・・・・・・好き・・・な、子?」
「うん」
 そうだよ、とにっこり笑う。
 直接的なことは何もいえないけど、好きな思いを微かにでも伝えてあげたい。愛されてる事を知って欲しいと思うから、少しは匂わすくらいは、きっと許される範囲だと思う。
 ――――っていうか、あの瞳で見つめられてて、気付かないかなぁ・・・・
 薫は、透にその可能性を聞かされるよりも前に、雅人と綾乃が一緒にいるところを見たことがあった。それは入学当初で、まだ綾乃と友達でもなかったけど、雅人の視線を見るだけで、薫には十分だった。
 ――――まぁ、僕には経験があるしね・・・・・・
 そこの差かなぁと思わないでもないが、たぶんそれだけではない綾乃の鈍さと自信のなさが、きっとその思いを気付かせないんだろうな、とも思う。
「・・・・・・・でも・・好きって、その、恋愛感情の、好き?」
「もちろん」
 当たり前でしょ、と笑って言う薫のその言葉に、綾乃はなんとも言えない顔をした。それは一瞬泣くのではないかと思わせるようにくしゃりと歪んで、薫を驚かせる。
「どうしたの!?」
「・・ううん」
 なんでもない、綾乃は首を横に振る。
 ――――だって、結婚するんだもん・・・・・・・・
 だから、好きとかそんなんじゃないのだ。
 ――――でも、それじゃぁどうしてキスなんてしたんだろう?
 それが分からない。どうしてあんなふうに優しく抱き締めて、あんな瞳をするのか。
 ずっとずっと考えているのに、答えはちっとも出なくて、綾乃は唇を噛む。手に入らない答え。それが歯がゆくて、どうしようもなくて。心がざわめき立つ。さざ波立って、平常心でいられなくて、どんどん苦しくなる。
「綾乃?」
「あ・・・・・ううん、ごめんね、変な事聞いて」
 綾乃が一生懸命浮かべる笑顔はぎこちなくて、薫は内心不思議になる。今の話では、前向きな進展があったように思うのに、綾乃の表情はそれを物語っていない。
「それはいいけど、どうしたの?他に何かあるの?―――なんでも、話してよ」
 その言ってくれる言葉はあまりに優しくて、綾乃は思わず涙が出そうになる。けれど、自分から進むには勇気がなくて。どうしようかと悩んでいると、休憩の終わりを知らせるチャイムが鳴ってしまう。
「もう、今いいところなのに―――仕方ない、綾乃、行くよ」
「え!?」
 行くって何?と綾乃が問い返す間もなく、薫は綾乃の腕を掴んで教室の外へ飛び出した。
「え、ちょっと、薫っ―――先生がっ」
 ちょうど前のドアから先生が入ろうとしていて。
「走ってっ」
「え―!?」
 言うが早いか、薫は綾乃の腕をとったまま走り出す。後ろから、次の授業の先生の怒鳴り声が廊下に響いて来ても、薫はその腕を離す事は無く、綾乃はそのまま屋上に連れて行かれた。
 一気に駆け上った階段は、思いのほかキツくて、2人ともゼイゼイ言いながらその場に座り込んだ。
「授業さぼっちゃったね」
 愉快そうに言う薫に、綾乃は形ばかり睨む。けれど、その目もしょうがないと、笑ってしまっている。
 見上げた空は抜けるほど青く澄み渡っていた。
「・・・薫。どういうつもり?」
「だって、あんな顔されたら、理由聞き出さないわけにはいかないでしょ?」
 薫が、すこし試すみたいな目をして綾乃を見る。
「何があったの?さっきの話―――――綾乃と、理事長のことでしょ?」
「っ」
 綾乃の顔が途端に赤くなってしまって、その答えは言葉を聞くより明らか。
 どうしてバレたんだろうとか、考える余裕もなくて、ただ恥ずかしくて。綾乃はどう返事をしたらいいのかわからず、困った顔に上目使いで、薫を窺う。
「でも、それだけじゃない、何かがあった?」
 薫はそんなこと無視して、余裕の笑みを湛えて聞いてくる。こうなっては、自分には誤魔化しようがないかと、綾乃は小さく息を吐いて顔を上げた。
「・・・何も、何もないよ。ただ、その、びっくりしてさ、僕、思いっきり拒絶しちゃって・・・」
「え!?キスされて?」
「うん」
 綾乃は、消え入りそうな声で小さく呟くと、ちょっと泣き笑いみたいな顔を浮かべる。
「嫌、だったの?」
「ううん、嫌じゃないよ!ただ・・・びっくりしちゃって。なんか、そういう事された事もなかったし。急に、近くて・・・」
 綾乃は自分でもわからないんだ、と少し泣き笑いみたいな顔をする。
 ただ、純粋に吃驚して、そう、怖かったのだ。  それは急激にどんどん深いところに雅人が入ってくる感覚、それが怖かった。誰も寄せ付けないようにがんばってきた心が、最近の許容範囲オーバーで、パンクしそうで。それは、防御本能と呼ぶ物なのかもしれない。
 だから、考えるより先に、心が、綾乃の本能がそうさせてしまったのかもしれない。
「怖かったんだね?」
「うん」
「ばかだな。そんなのさ、わけをちゃんと話せばいいんだよ。理事長はわかってくれると思うよ」
 薫の声は優しく響いて、綾乃を励ます様に言ってくれるから、綾乃は、薫に今自分ができる精一杯の笑顔を向けて頷いた。
 薫の気持はうれしい。けれど、綾乃にはそれだけじゃない思いがあって。なのに、それを薫に吐き出してしまえないから、いう事は出来ないから、そんな思いを悟られないように、全部覆い隠すように、綾乃は笑うしかできなかった。












 その夜、綾乃は雅人の帰りが遅い事に、初めて感謝してしまった。いつもの様に雪人と2人の夕食に、ホッとする。
「そうそう、明日のお弁当、リクエストは何かありますか?」
 給仕に立つ松岡が、笑顔を浮かべて綾乃にきく。
「んー・・特には。でも、たぶん疲れてると思うんで、あんまり食欲ないかもなんで、その少なめで」
「大丈夫ですよ、あまった分は雪人様が全て食べられますでしょうからね」
「うん!」
 綾乃の微かな主張は、松岡の笑顔と雪人の返事に一蹴される。
 そう、体育祭は明日なのだ。こんな思いを抱えたまま、明日、雪人も松岡も見にくる予定になっている。そのことを考えると、綾乃の気持は自然と沈んでしまって。
「あのね・・・・・・・本当に来るの?」
 無邪気に笑う雪人には悪いと思いながらも、聞かずにはいれなかった。
「うん!雅人兄様がみんなで行こうねって。あ、でも直人兄様はお仕事で行けないって言ってたけど」
「そう・・・・」
「どうかされたんですか?」
 浮かない顔の綾乃に、空になったグラスにお茶を注ぎながら松岡は尋ねる。
「ん・・・」
「何かあるなら、話してください」
 そのにこやかな笑顔は、柔和で穏やかで、黙ってなきゃって思うのに、ついそのたがが緩んで。いつもなら、絶対言ったりしないのに、色んな事があって、ちょっと疲れてて。
 そんな言葉を自分への言い訳にして、言ってはならない言葉を、綾乃は口にした。
「ん・・・・僕ね、かなり運動が出来ないんだ」
「運動が出来ない?」
 綾乃の言葉に雪人が不思議そうに首をかしげる。
「体育がね苦手なの。わかるかな?雪人くんのクラスでも1番かけっこの遅い子とか、跳び箱が飛べない子とかいるよね?」
「うん」
「僕もねそうなんだ。だから体育祭でも、僕は全然活躍しないどころか、かっこ悪いと思うんだ」
「ふう・・ん」
 よくわからないという顔で、雪人は曖昧に頷く。
「だからね、雪人くんが恥ずかしい思いをするかもしれないの。わかるかなぁ?」
「うーん、綾ちゃんがかけっこ遅いと、どうして僕が恥ずかしいの?」
 雪人は綾乃の言いたい事がわからないと、ますます首をかしげる。その横で松岡は密かな苦笑を浮かべる。松岡には綾乃の言いたいことが手に取るように分かったからだ。
「だからね・・・かっこよくて自慢になるお兄さんと、かっこ悪くて自慢にならないお兄さんがいるでしょ?」
「うーん・・・・・・」
「僕は雪人君のお兄さんじゃないけど、そのかっこ悪くて自慢にならない方なの」
 だから、来ない方がいいよ、と続くはずの言葉を綾乃は一旦切る。そこまで言うのは、何もわからないだろう雪人には、やっぱり気が引けて、自分から『じゃぁ行かない』と言ってくれないだろうかと、卑怯にもその言葉を待つ。
 ところが、雪人は綾乃の期待には反して、違うところに反応を返した。
「え!?雅人兄様は、綾ちゃんは新しいお兄さんだと思えばいいよって言ったよ?」
「え!?」
「違うの?」
 雪人が少し悲しそうな顔になる。
「あ、いや・・・えーっと・・・・・僕は・・・・うーん、居候ってわかる?」
「うん。前テレビで見た。えっと、家族じゃないけど、一緒に住んでる人だね」
「そうそう、僕はそういうのなんだよ」
「えー。違うよーだって、綾ちゃんはずっとここにいるんでしょう?」
「あー・・・うーん」
「・・・違うの?」
 曖昧に困った顔で返事をする綾乃に、雪人の顔はどんどん悲しそうになっていく。 雪人は、綾乃が『ずっとここにいるよ』と、笑って言ってくれるものと思っていたのだ。
「あ、いや」
「・・・・うう〜〜」
「待っ、泣かないで!その、ね、ほら、僕は家族じゃないから、いつまでも一緒にいられるって訳じゃないんだよ。うん」
「・・・・・・・っ・・・」
 綾乃の事を、新しい兄だと、家族の一人だと信じて疑わなかった。だからこそ、綾乃の返事は雪人の想像していたものとは、まったく違っていて。
 その言葉に、みるみるうちに雪人の目に涙が溜まっていく。
「お2人ともその辺で。後ろの二人が怒ってますよ」
 苦笑まじりのその松岡の言葉に、綾乃と雪人は思わず振り返ると、そこにはいつのまに帰ってきていたのか、直人と雅人が立っていた。
 しかも、そこから漂う雰囲気が、松岡が言うような生易しいものではなくて。
「あー直人兄様だぁ!最近良く帰って来るね」
 雪人は2人の顔を見た途端、涙をその大きな瞳にためつつも、嬉しそうな声をあげる。
「ああ、やっぱ松岡の飯が恋しくなるんだよなぁ〜もちろん雪人にも会いたいぜ」
「わぁーい、僕もだよ〜」
 うれしそうに直人にかけていく雪人を綾乃は見送るしかなかなく、綾乃は雅人を見て、微動だに出来なかった。
 その顔を見るだけで、雅人が怒っているのが十分に分かる。勢いと弱気にまかせたとはいえ、言ってはいけなかった事を口にしてしまった後悔が募る。
 そして、たぶん、怒るだけじゃなくて、雅人を傷つけた事もわかっているから、綾乃はその視線に耐えかねて、下を向く。
「綾乃・・・・」
 その、なんともいえない苦い響きに、心が締め付けられる。
 再び名を呼んで近づいてくる声に、おずおずと顔を上げると、そこには静かに怒りを湛えた瞳が綾乃に向けられていて。雅人が、綾乃の頬を叩いた。
 パシっと乾いた音をたてる。
「っ!!」
「兄貴!?」
「雅人様!?」
 その雅人の行動に、雪人にいたっては呆然と見つめている。
 叩かれた本人ですら、吃驚して、何が起きたのかと、思わずその頬に手をやって、雅人を見上げる。すると、そこには切なくて悲しみに揺れる雅人の瞳があった。
「私は綾乃の事を家族だと思ってると、何度もそういいませんでしたか?」
「・・・・・・・・・」
「それを、何もわからない雪人に居候だなんて言うとは思いませんでしたよ。明日だって、別に活躍するとかかっこいいところを見せて欲しいとかではなくて、ただ一緒に楽しめたらって」
 家族を知らないから、少しでもそういう物を味わってもらえたらって思っていたんですよ?そう告げる言葉があまりにく、やりきれない切なさで。
「あ・・・・・・」
「私たちでは、代わりにはなりませんか?そう思うのも、おこがましいですか?」
 その苦く搾り出すような響きに、綾乃はただ首を横に振るしかできなかった。
 ――――なんてバカな事、言っちゃったんだろ・・・・
 後悔だけが、どんどん心から溢れてくる。けれど、言ってしまったことを、もう取り返すことはできない。
「兄の様に慕っている雪人に言う前に、私に言ってください。思う事があるなら、どんな些細な事でもいいんです。なんでも話してくださいっ言ってるじゃないですか?」
 怒ってるんじゃない、ただ、悲しんでるのだと伝えるその切ないまでの苦しい響きが、綾乃の心を突き刺す。
「・・・・・・・ごめんなさいっ」
 軽く叩かれたので、頬はそんなには痛くなかった。
 涙が出るのは、自分の言ってる事が、卑怯で最低だって思いはあったけど、止められなかったから。それよりも、自分の方が大事で、自分が傷つきたくなくて、その為なら他の誰かを傷つけてる事に目を瞑ろうとしていた事。
 いつもいつも、自分を守ることで精一杯で。誰も、何も守れないから。
「綾乃」
 こんなんじゃぁ、誰も好きになる資格なんてない。
 大切なことは隠されたままでも、文句なんて言えない。
「ごめんなさい」
 自分が嫌で嫌で、惨めで、かっこ悪くて、泣く事しかできなくてこぼれた涙が膝の上にぽたぽたと落ちて、いくつものシミを作っていく。
「泣かないでください。ね?」
 怒ってたはずの雅人の声が、甘やかすようななだめる様な、どこか困ったものに変わっていく。
 雅人は、少し怒りすぎたかと泣き出してしまう綾乃におろおろとして、助けを求めるように周りに目をやると、さっきまでそこにいたはずの3人の姿は既になくて。
「ごめ、んなさい・・・」
 ただ、その言葉だけを繰り返す綾乃に、雅人はどうしていいのかわからず、その場に座って綾乃がただ泣きやむのを待つしかなかった。
 本当は、腕の中に抱き締めて、背中をさすって、頬に手をあてて、叩いてすいませんと謝って、その髪にキスをしたかった。
 泣きやむまで、ずっとずっとその身体を抱き締めていたかった。
 けれど、昨日拒絶されての今日、その腕を伸ばすには、雅人には少し勇気が足りなくて、微かにあげられた手も、空を泳いでそのまま下ろされる。
 ――――好きすぎて、愛しすぎて・・・・・・・・・・・
 遠かった。全てが、遠くて。
「ごめんなさい・・・」
 雅人はただ、綾乃が泣きやむのをじっと待つしか出来なかった。その顔にはどうしようもない苦渋の表情が浮かぶ。
 そして綾乃もまた、その指先を伸ばすことが出来なくて。いつもは優しく抱き締めてくれるその胸に飛び込んでいきたいのに、そこは遠くて、勇気がなくて。
 思いはすれ違ったまま・・・・・・・・・、長い長い1日を、終えようとしていた。

















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