・・・9・・・ ・・・体育祭、当日。 梅雨時期というのが嘘のような晴天に恵まれて、桐乃華体育祭は華々しくスタートした。最初は、演劇部による武闘舞曲とかいう組体とダンスを交えたような物が披露され、その後は各クラス対抗で、競技が行われている。 派手にクラッカーが鳴らされ、競技場の屋根のある観覧席を父兄が埋め尽くして。屋根のない方では、生徒が大声を出したり太鼓を鳴らしたりして、声援を送っている。 綾乃も今、ムカデ競争での出番が終わってクラス席に戻ってきた。大きな失敗をすることもなく、クラスの足をひっぱることもなく、無難に片付ける事が出来て、綾乃はほっと胸をなでおろす。 ――――どっかで、みんなも見てるのかな・・・・・・ そう思って、保護者観覧席に目をやるが、屋根が影を作っていて全然わからない。 ――――暑い・・・・・・ 屋根のないこちらは、その日差しは直接降り注ぐ。何もしなくても、じわりと汗が滲んできて。とりあえず、1つを無事に終えた安堵感と連夜の寝不足の所為で、早くも綾乃はぐったりと椅子にもたれかかっている。 額に濡らしたタオルをかけて、目を閉じる。 『楽しんで来いよ。失敗したって青春の思い出だぜ』 今朝、出かける綾乃に向かって、直人はにやっと笑ってそう言った。 それで、随分気分が楽になったと思う。取り繕ったって、どうせ今の自分はこんなものなのだから。 『失敗したって、誰も文句なんて言えねーよ。後ろで兄貴が睨んでっからな』 それくらい開き直ってやればいいんだよ。利用できるもんはなんでも利用しちまえ、とけらけらと直人は笑い飛ばした。 そんな風に開き直るのはまだ難しいけど、とりあえず南條家にいる事実はどうあがいたって変わらないし、変えたいとも思っていない。それならば、直人のいう様に、自分なりに取り入れていくしかないかと当日を迎えてやっと開き直れている自分に、綾乃は苦笑を浮かべる。 全部ほったらかしにして逃げる事なんて出来ない。 けれど、気付いてしまった思いを消すことも出来ないなら、向かい合って行くしかない。そんな簡単な事じゃないってのはわかってるし、出来れば杉崎のお姉さんには一生会いたくないって思ってしまうけど。 それでも今は、逃げないでがんばりたいと思えるから。 「なーに、笑ってるの?」 「・・・・・・薫」 声がして、額にかかるタオルをずらして見上げると、薫のにやけた顔があった。 「笑ってるのは薫だろ」 「あ、自覚ないんだ?綾乃もにやぁ〜って笑ってたよ」 そういうと、薫は綾乃のほっぺをつつきながら、何かいい事あったの?と聞いてくる。 「そんなんじゃないよ。薫こそいい事あったんじゃないの?」 「そりゃぁもう、うれしいよー。今日で体育祭の準備からも解放されるんだもん。やっと自由で平穏な日々の復活ー」 心底うれしそうに薫は思いっきりに伸びをする。そんな薫に綾乃は思わず笑ってしまう。 「おめでと」 「ありがとう」 「でも、これ終わったらすぐに期末テストだよ」 「まぁね。でも僕は日頃からちゃんとやってるから問題はないよ。綾乃もでしょう?」 「まぁ、ね」 綾乃にとっては体育祭よりもしろテストの方がずっと気楽だ。良くても悪くても返って来るのは自分で、それで誰かに迷惑をかけるわけでもないし。 「むしろ、その言葉で凹むのはあいつだよ」 薫は生徒席最前列で大声を出して声援を送っている、翔の背中を指差した。 「翔は、諦めてるんじゃないの」 「翔は諦めてても、お家がそれを許すわけないよ。透さんなんて、スパルタ家庭教師と化すからね」 「透さん?」 「あ―・・生徒会長」 「透さんって呼ぶんだ?」 「長い付き合いだからね」 そう言って軽く笑った顔は、何も含んでいないようで、どこかいたづらめいていて、綾乃の心に何かがひっかかる。 「気になる?」 「・・・うん、ちょっと」 詮索していいのだろうかと、ちょっと上目使いで窺ってみるけれど、やはり好奇心にも勝てなくて、遠慮がちに返事を返す。 そんな綾乃の様子に、薫はくすりと笑って、耳元でこっそり秘密を打ち明けた。 「付き合ってるからね」 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・えっ!?」 一瞬言われた意味がわからなくて、たっぷり間をあけて。 「しーっ」 「あ、ごめん」 「びっくりした?」 「うん。――――その、付き合ってるって、そういうその、恋人って事?」 「もちろん」 「・・・・・・そう、なんだ」 生徒会長、さっき開会式で宣言をしていた、あの、スラッと背の高い、翔とはちょっと似てないキリっとした、どこか冷たい感じの印象を受ける、あの人が、薫と。綾乃はなんとか2人を並べて考えようとするのだが、どうしてもうまくいかない。 「気持悪いとか思う?」 ちょっと変な顔を浮かべた綾乃の反応に、薫はちょっと試すみたいに言う。 「ううん。そんな風に思ったりしないよ。人と人がさ、ちゃんと向き合って好きになったんだったら、男とか女とか関係ないって思う。それでいいって思うもん。ただ・・・なんだか、生徒会長のイメージがね。怖そうな人っていうか、なんかそういう事とは無縁な雰囲気がしてて。ちょっとびっくりした。イメージ出来ない」 その率直な感想に、薫は満足そうに笑う。 「まぁねぇ、見た感じちょっとね。はっきり陰険な人だからねぇ」 さらっと言う薫に、綾乃は小さく噴出す。。 「いいの?そんな事言っても」 「いいよ。ったく、人の事好き勝手こき使うだしね。・・・・・でも、良かった。綾乃に嫌そうにされたらちょっとねって思ってたから」 「まさか。だって、薫、幸せそう」 「うん。まぁね。だから、綾乃の事も応援してるからね」 「・・・・・・・・・・・・・・え?」 ――――僕?・・・・・・・・・・それって僕と・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ じっと、こっちをまっすぐに見つめてくる薫の瞳の奥に何があるのか、答えを知りたいと綾乃はそれを凝視する。一瞬、周りの騒音も雑音も全て遮断されて。 ――――薫は何を知ってるの?杉崎君の事以外で、まだ何かあるの? 「樋口!こんなところにいたのか。この後の段取りでなんか備品がどこにあるかわかんないって実行委員が青くなってお前を捜してたぞ」 ―――― っ! 薫も、一瞬顔が歪む。が、その生徒の方へ振り返った時には、もう普通の営業スマイルで。 「本当ですか?ちゃんと出してたはずですけど」 「とにかくすぐ行ったほうがいい」 「はい。綾乃・・・・・・・・・・・・・ごめんね、話の途中で」 薫は、申し訳なさそうな顔を浮かべて、けれどその瞳はどこか冷えてて。 「薫」 立ち上がって行こうとする薫を綾乃は呼び止めた。 「何?」 「・・・・・・僕、杉崎の事知ってるから」 「え・・・・・・・?」 「ずっと、心配してくれたんだよね?でもね、これからはちゃんと教えて欲しい。後で分かるのは、ちょっとキツいからさ」 ――――薫の知ってる事ってその事じゃないの?まだ、何かあるの? 綾乃は、薫の反応を見る。その全てを見落とさないようにと。 「・・・・・・・・・綾乃」 「おい、樋口!早く!!」 「あっ、はい!」 ―――ああ、こんなに薫の焦った顔ってなんか初めてかも。そっか・・・まだ、なんかあるんだ。僕の知らない事が。 「ほら、呼んでるよ」 「〜〜〜っ、綾乃、後でちゃんと話するからね!」 薫は納得できない顔をしながらも、仕方なく呼びに来た生徒について走り去って行った。その背中を見てほっとして、ため息が洩れるまた突きつけられた事に、顔の血の気が引いていく様で。綾乃はそれを隠すように、もう1度タオルを額にかけようとして、スタンドの隅に杉崎の背中を見つけた。 その背中をしばらく見つめ、綾乃の口から2度目の大きなため息が洩れた。 綾乃にはいまだにわからなかったのだ。なんで杉崎が自分に近づいたか、だ。 ――――・・・・・・・・・もしかして、本当に友達になりたかったとか・・・・・・・・・? ふと、そんな考えがよぎるが、それはないなと思いなおす。それなら薫があんなに杉崎を嫌うわけはない。やはり薫はその事で、綾乃の知らない何かを知っているのかもしれないと、思う。 ――――その事で、僕には何かあるのだろうか?僕は南條家の人間じゃないし、仲良くしたって、ほんとに特典ないし 卒業したら自分がどうなるかなんて、さっぱりわからない状況。昨日の感じだと、卒業してすぐあの家を出て行く事になるのか、どうなるのか、中途半端な今の状況。 ――――ああでも、貯金とかないと部屋も借りれないしなぁ。・・・桐乃華ってバイトできたっけ・・・? たぶんダメだろうなと首を横に振る。 ――――卒業か・・・・・・・・・ まだ、当分先だけれど、たぶん過ぎてしまえばアッという間の3年。これから先どうなるのか、やっぱり卒業したら、もう薫や翔とも会う事もなくなってしまうのだろうかと考えて、ふいに涙が込み上げる。 いくら雅人さんがああ言ったって、結婚してしまえばどんどん疎遠になって、南条家を出たらやっぱりなんの関係もなくなっちゃうんだろと思う。 ――――雅人さんとも・・・・・・・・・っ そう思うと、じわっと涙が浮かんできて、綾乃は慌ててタオルをかけて目を覆い隠す。 今はもう何も考えたくないと、そのままきつく目を閉じた。 「!?」 ひときわ大きな歓声が上がり、綾乃の身体がビクっと震える。どうやら、うとうととしてしまっていたらしい。 「えーっと・・・」 なんだか周りは凄く盛り上がってるんだけれど、いまいち状況がわからなくて綾乃が呆然と座っていると、前のほうに固まって応援していた生徒がばらばらと後ろに戻ってくる。 その中あった杉崎の姿が、まっすぐにこっちへ向かってくるのが見えた。 「夏川くん。ここにいたんだ?」 「うん、ちょっとばててて・・・・・・えっと、今って・・・どういう状況?」 「やだな、寝てでもいたのかい?今ちょうど午前の部の最終種目が終わったところだよ。朝比奈君も出てたのに、応援してあげなかったの?」 「あ・・・・・・うん」 「友達なのに、冷たいね」 その言葉に綾乃は黙って曖昧な笑顔を浮かべる。どうして気付かないフリをしていたんだろう。杉崎の言葉はこんなにも悪意に満ちていたのに。 「ところで、夏川君お昼はどうするの?」 「・・・家の人が来るはずだから・・・」 「家って南條家の人?」 自分の鈍さに嫌になってくる。 「うん」 「そうなんだ。じゃぁ父兄観覧席まで一緒に行こうよ」 にっこり笑う笑顔が、こんなにも白々しかったのに。 「夏川くん?」 「ごめん、俺、薫に用あって、そっちよってから行くから」 「そうなんだ、残念。じゃぁ途中まで一緒に行こう」 杉崎は笑顔で言う。どうしたって一緒に行きたいらしいその行動に、綾乃は深いため息をつく。薫に用があるなんて口からでまかせなのだが、こうなっては本当に準備室による事になりそうだ。 そう思って気持が憂鬱になった時。 「綾乃」 「薫っ」 薫が立っていた。 「さっきはごめん。時間出来たから」 「うん。あ、じゃぁ、杉崎君悪いけど・・・・・・」 薫と行くから、と言おうと振り返った瞬間、綾乃は息を飲んだ。杉崎が、刺すような冷たい顔でこちらを見ていたからだ。しかしそれもまた一瞬の事。すぐにいつもの笑顔に戻って。 「わかった。じゃぁまた後で」 杉崎は軽く手を振って、離れていく。その姿がだいぶ向こうに見えるようになってから、薫が心配そうに綾乃に言う。 「大丈夫?なんか言われたの?」 「ううん。そんなんじゃないよ」 「でも、顔色悪いし」 「あ、それは寝不足だからかなぁ。でも今ちょっと寝てたから」 だからもう大丈夫と言おうとして、薫が眉をしかめる。 「え?この暑い中?それ、ちゃんと水分取った?」 「あ・・・うん、平気だよ」 明らかに先ほどとは少し違う様子で、空元気な雰囲気な綾乃に、薫は心の中で、思い切り杉崎を罵倒した。 けれど、薫はそんな内心はまったく見せず、笑顔で綾乃を促して、ゆっくりめの歩調で父兄席へと向かって歩きだして、回りの人影がだいぶ減ってから、薫は口を開いた。 「さっきの話だけど」 「・・・うん」 「杉崎の事、知ってたって?」 「うん。薫はちゃんと最初から知ってたんだよね?」 「まぁね。だいぶ噂になったしね。翔は知らなかったみたいだけど。あのばか・・・・・・」 「薫。そこが翔の良いとこだよ。それに僕だって全然知らなかった」 綾乃は苦い笑顔を浮かべて薫をたしなめる。 「それは、理事長に聞いたの?」 「ううん、ネットでたまたま見たんだ」 「そっか・・・・・・じゃぁその事で理事長と話は?」 その問いに綾乃は静かに首を横に振る。 「ちゃんと話したほうがいいよ」 足を止めて、真っ直ぐに綾乃を見つめる薫。 「何を?」 「何って・・・・・・」 「・・・・・・・・・ごめん、確かに話はしなきゃって思うけど、今はうまく整理できないんだ」 何を、どう話したらいいのか。自分の思いをありのままに話したりできないから、上手く誤魔化さなきゃいけないのに、まだ、整理が全然つかなくて。 「いいんじゃないの?思ったまま、感じたままを話したら」 そういう薫に、綾乃は首を振る。 「そんなこと出来ないよ」 「なんで?」 どこか、ぐずる子供をあやすような声で優しく聞かれて、綾乃は張り詰める思いが、決めた思いがぐらぐらと揺らぐ。 「だって・・・・・・」 それでなくても、心のどこかで弱音を吐きたい自分がいて。 「だって?」 薫は、優しくその先を促す。 「だって・・・・・・・・・言えない。結婚しないで、なんて・・・・・・言えないっ!」 |