海の上の籠の中で 前編11
アオイが怪我をしてから10日が過ぎ様としていたその夜。 アオイはベッドの上で、腕を天に伸ばしてみた。 「――――痛っ」 伸びきる手前で、背中に痛みが走ってアオイは顔を顰めた。最近は動く事もだいぶ自力で出来てきていたけれど、物を持つという行為は相変わらず苦しくて。剣の練習などとんでもない。 「はぁー・・・」 アオイはそっと降ろした腕を見つめて、深いため息をついた。そしてもう1度ゆっくりゆっくり伸ばして―――――― 「何をしてる?」 「あっ――――痛!」 「バカ」 扉に開けられる音に気付かないで、急に掛けられた様に感じた声に思わず驚いて、そちらを見ようと身体をひねった瞬間、さっきよりも強い痛みが走り抜けて思わず肩を押さえて俯いたアオイに、デュークは慌てて寄って来た。 「何をしてる!」 「っ・・・だって・・・」 早くちゃんと動ける様になりたくて。 言葉にしなかったその思いは、どうやら顔にしっかり出ていたらしく、デュークの呆れるような深いため息を誘った。 「焦るなって、ヒデローにも言われただろう?」 「ん・・・」 「こないだ無理して、皿を割ったのを忘れたのか?」 「ううん・・・」 そうなのだ。無理してトウヤの手伝いをしようとして、皿の重さに背中の痛みが耐え切れず。せっかくトウヤが作った料理ともども木っ端微塵になった。 「なら、わかってるだろう?」 項垂れてしまったアオイが可哀相に思えたのか、その頭を優しく抱き寄せたデュークのなだめる声が優しい物になった。 「無理して酷くしたらどうする?」 「・・・・・・」 「それこそ、またベッドに逆戻りだぞ?それでいいのか?」 「嫌だ」 肩口に乗せたアオイの頭が僅かに揺れる。 「なら、・・・・・・わかるな?」 「ん。ごめんなさい」 素直に謝罪の言葉を口にするのは、デュークがどれだけ心配してくれていたかを知っているからだ。 熱が出るたびに、寝ないで看病してくれて。優しく抱き起こして水を飲ませて食事を運んでくれた。アオイも、優しいデュークの視線を感じるだけで、何故か安心して眠れるようになって。 いつしか、デュークが傍にいても眠れる事が普通になっていた。 「わかればいい。さて、もう寝ろ」 身体を拭かれる事も、平気になった。 「うん」 デュークはそっとアオイの身体に腕を回してその身体を横たわらせ、その上に、そっと布団を掛けた。 「デュークは?」 「ああ、もう少ししたら、な」 「・・・ん」 「そんな顔するな。すぐに来るよ」 ――――そんな顔って、どんな顔だろう・・・? 「うん」 アオイは自分がどんな顔をしているのか、到底分かりようがなかったが、デュークが直ぐに来るという言葉に安心して、素直に頷いて瞳を閉じた。 何度か、頭を撫でる優しい指の感触を感じたが、何かまだ用が残っていたのかデュークはアオイが寝付くのを待たずに部屋を出て行った。 パタン・・・と扉が閉じられる音を聞いてアオイの瞳が再び開けられた。 「・・・ちぇ・・・」 小さく漏らした声に、アオイは自分でも少し驚いてしまった。 そこにいると安心して、そこにいないと不安で寂しくなるのだ。 「・・・なんか」 不思議だ。 デュークは不思議だと思う。 助けてくれて、優しくしてくれて。あったかく笑ってくれて、海賊なのに全然怖くない。海賊って、もと乱暴で横暴なのかと思っていたのに。 デュークはまったく違う。 何も聞かず。 指一本触れてこない。 「・・・・・・お兄さん・・・」 って、あんな感じなのかな? アオイには兄弟はいないから分からないけれど。もしいたら、デュークみたいなのかもしれないと思う。優しくてカッコよくて、守ってくれる人。 父――――というには、若すぎるし失礼だよね。うん。 「クス」 アオイは、父としてのデュークを想像して思わず笑ってしまった。うん、やっぱりちょっと無いよね。こんな事言うと、そんなデカい子はいねぇ!って怒鳴られそうだと思う。 ――――やっぱり、兄さんだね。 うんうんと、アオイは一人ベッドの中で納得していた。 そんな、デュークにとって良いのか悪いのか図りかねる想像をアオイがしていた頃、デュークはダイニングのソファに腰掛けて酒を流し込んでいた。 「・・・はぁ・・・」 その口からは苦悩に近いため息が漏れ、その瞳は空を1点じっと見据えていた。 アオイの楽しそうな顔とは、雲泥の差だ。 "・・・イ、ヤァ・・・、ふっ・・・っ・・・" 熱にうなされたアオイの口から漏れた、切れ切れの言葉が耳を離れない。デュークは結局その言葉の意味をアオイに問う事も、うなされていた事を告げることも出来なかった。 ただ、優しく揺り起こしてやる事しか出来なかった。 何も無かったような顔をするだけ。 アオイの過去に何があったのか。 何に捕まって、何から逃げようとしていたのか、それさえも分かっていない。 気にならないと言えば、嘘になる。 しかしそれ以上に、気にしている自分がわからない。 いや、・・・・・・――――――― 「お、一人かぁ?」 「ヒデロー」 声にハッとして視線を向けると、ヒデローが一人入ってきた。そしてグラスを取って、当然の様にデュークの向かいに腰を下ろした。 デュークが酒瓶を持ち上げ酒をグラスに注いでやる。 「どーも」 相変わらずに飄々とした笑みを浮かべたままヒデローはグラスに口をつけて、喉を潤す。 風の無い晩で、開け放たれた窓のカーテンも揺れない。なんともいえない蒸し暑さだった。 「アオイは?」 「寝かせてきた」 その返事に、ヒデローの顔が奇妙に歪んだ。 「なんだ?」 「いやぁ、まるで子供を寝かせつけたお父さんみたいだな、と」 「おい」 やはり父と言われるのは嫌らしい。 「・・・それはさておき、一人で何考えてんだ?」 「いや、――――別に」 「別に?そーか?」 「何が言いたい」 「ケイトが心配してたぜ?あんなどこの馬の骨とも分からん、と。どうやらアオイが相手じゃぁ不満らしい」 デュークの額がピクっと動いた。 「・・・なんの話だ?」 「だから、デュークとアオイの話」 「―――――」 酒をゴクリと飲むヒデローとは逆に、デュークの手がぴたりと止まっていた。 「お父さん、じゃぁ嫌なんだろう?」 「当たり前だ」 「じゃあ、―――――何になりたい?」 相変わらずににやけた顔に、デュークの鋭い視線が突き刺さる。そんな事で臆する相手ではないのだが。 「お兄ちゃんか?お友達か?それとも――――――恋人か?」 「ふざけるなっ」 押し殺した、きつい声が飛ぶ。 あまりにも早い即答だった。 「ふざけてねーぜ。俺はな」 「なら、随分悪趣味な、冗談だ」 「冗談も、言ってねぇ」 ヒデローの顔から、ふっと笑みが消えた。 「惚れたっていいじゃねーか」 音も無い室内。 「何が悪い?――――あれから何年だ」 音量を落としたヒデローの声と、音も無いデュークのキツい視線だけの部屋。 「お前は生きてるんだ。腹も減れば、トイレにも行く。笑うこともあれば、泣くこともある」 痛いくらいに張り詰めた空気。 「人を好きになる事も」 「やめろっ!!」 静寂を引き裂く、デュークの荒げた声。 思わず立ち上がったデュークは、なんとも言えない瞳でヒデローを見下ろしていた。その瞳に宿るのは、怒りなのか諦めなのか、苦悩なのか。 「デューク・・・」 「それ以上何も言うな――――っ」 デュークとヒデローの睨みあいは、ほんの数秒。視線を外したデュークはそのまま自室へと戻ろうとヒデローに背中を向ける。 その背中に、ヒデローの視線が突き刺さる。廊下の向こうに消えてしまうまで。 「バカが・・・」 小さく呟いた顔は、誰も見たことの無いような苦渋に満ちていた。自棄の様に、グラスに残っていた酒を煽った。 「寡夫になったって、――――返ってくるもんじゃねーだろうが・・・・・・」 呟いた言葉は、返事も無しに闇に消えた。 「あ・・・」 ガチャっと扉の閉まる音に、アオイが僅かに身じろいで視線を向けた。 けれど。 「・・・デューク・・・」 気後れしたようアオイの声。それもそのはず、デュークの身体からは今みなぎる様なオーラが出ていた。 それが何なのか、本人にさえわからないだろうが、それを初めて目にしたアオイはデュークが怒りを湛えているように見えた。 「まだ起きてたのか」 「ごめ・・・っ」 苦々しい声に、アオイの身体が思わずベッドの中で後退するように動く。その仕草とアオイの声に、デュークがハッと我に返った。 アオイが怯えている、それだけで。 「悪い。・・・ちょっとヒデローと言い争いになって。イライラしてた」 今まで血が登っていた頭が、サっと醒めていく。 「・・・喧嘩?」 「そんな大事じゃねーよ。入っていいか?」 「ん」 デュークの空気が変わったのが分かったのか、ほっとしたように頷くアオイにデュークも安心してスッとベッド身体を入れる。 その途端、擦り寄ってくるように近寄ってくるアオイの身体。離れてしか眠れなかったのに、看病の結果不安が取り払われたのかなんなのか、今はくっついて眠る事が多い。 どうも、そのほうが安心する様になってしまったらしい。 「おやすみ・・・」 ほっとしたのか、途端に半分寝たような声。 「ああ。おやすみ」 反対に、デュークの返した言葉は随分苦い響きのものだったけれど。 幸い、瞬く間に眠りに落ちたアオイには聞こえなかった様だ。 |