海の上の籠の中で 前編13





 それから数日、後の事だった。
「陸、――――陸が見えるっ!!」
 甲板に出ていたすっかり元気になったアオイが、前方に見えるものを指差して声を上げた。
「ああ、見えてきたな」
 その後ろにいたデュークもゆっくりアオイの傍に歩み寄って、その地上を見つめた。そこは小ぶりの港で、寄港するのも初めてではない。
 デュークは、アオイのほうに穏やかな視線を向けた。
「どうする?陸に上がるか?」
「・・・え?」
 甲板には、少し強めの風が吹いていた。その風がアオイの髪をなびかせる。その髪の合間にアオイの驚いた瞳が見えた。
「船番が必要だからな、全員が陸に上がるわけじゃない。今回はミヤとトウヤが残る予定なんだが」
「・・・ああ、うん・・・」
「アオイは、どうする?」
 ――――り、く・・・・・・
 ゴクっとアオイの喉が鳴った。
 その時、二人の会話を聞いていたのか少し離れた場所にいたはずのミヤがアオイの横に顔を出した。
「せっかくなんだから、陸に上がってきなよ!」
「―――ミヤは、陸に上がりたくないの?」
「うん。今回はトウヤと留守番でいいんだ」
 そう言ってにっこり笑う顔は、気まぐれな猫を思い出させる、そんな笑み。
「うーん、でもトウヤは・・・」
「トウヤもその方がいいから」
「ミヤ」
 逡巡する風のアオイに、僅かに苛立った様な声のミヤ。それにデュークがたしなめる様な声を挟む。
 アオイにはわからないが、デュークには分かっていることがあった。
「アオイは船にこんなに長く乗ったのは初めてだろう?ここらで陸に1回あがっておけ」
 だからデュークも助け舟をだしてやった。ミヤに対して。けれど、アオイはなお考えるような顔になったまま、頷くとも拒否するとも付かない態度で遠くの陸を見つめていた。
「頭もそう言ってるんだからっ」
 焦れたミヤの声。
「・・・ん」
「アオイ?」
 デュークが眉を顰めて見る。
「んー・・・」
 言い淀むようにアオイは、前を見つめ続ける。何を口にすべきか、どうすべきか悩んでいるような図りかねているような態度。それにデュークは心配そうに見つめ、ミヤは苛立った視線を向けた。
 ただ、アオイにはそのどちらの視線も気にかける余裕が無い様だった。
「陸に上がっても・・・」
「ああ」
「・・・・・・、また、船に乗せてくれる?」
 前を見つめたままの声が、緊張に堅くなっていた。
「バカ」
 けれど、デュークは柔らかく笑ってアオイの頭に手をかけて優しく自分の方へ向かせた。
「くだらない心配をするな。置いて行くわけが無いだろう」
「――――本当?」
「当たり前だ。アオイが降りたい、もう乗りたくないって言うなら別だがな」
「言わないっ!そんな事言わないよ!!」
 弾かれたように首を振って、デュークの服に縋るように指をかけるアオイ。
「なら問題はないな」
「―――うん」
 それでもどこか、何かをすっきりしない顔で頷くアオイが何を思っているのか、ミヤにはもちろんデュークさえも分からなかった。ただミヤは、アオイが陸に上がってくれる事にホッと息を吐いて、それを視線の端に捕らえたデュークは、しょうがないなと苦笑を漏らしただけだった。
 風は、相変わらず3人の間を駆け抜けていた。




・・・・・




 ―――――陸、かぁ・・・
 デュークのいない部屋の中で、アオイは一人ため息をついた。その身体は、僅かに震えているのが見て取れた。
 アオイ自身、青い顔をしている。
 陸に上がって、そこに追っ手がいるとは思わない。きっと大丈夫だろうと思う。けれど、自分が誰に連れ出されたのかあの人はもう分かっているのかもしれないから、もしかしたら、という可能性が無いわけではない。
 いや、ひょっとしたら逃げ出した鳥には興味は失せているのかもしれない。
 ――――そう、思いたい・・・
 アオイは、握り合った手をぎゅっと力を入れた。
 怖い。
 もし、そこに、あの人がいたら。
 もし、捕まって連れ戻されたら。
 ――――嫌だっ
 もしそうなったら、今度こそどんな目に合うかわからない。
 見つかって連れ戻されるなら、それこそ死んだ方がましだ。
「・・・・・・っ」
 ここに、この場所にまだいたいと思う。
 閉じ込められた屋敷の中じゃなく、自由の無い籠の中ではない。陽のあたる、当たり前の世界で。
 この、活気に満ちたエネルギーのある船の中にいたい。
 もう、あんな思いをしたくない。
 狂気に満ちた、瞳。
 狂った愛の言葉。
 無理矢理の快感。
 陵辱。
 腐っていく、心。
 狂っていく、神経。
「・・・いやだ・・・」
 アオイの口から僅かばかりの声が漏れた。
 目の前が一瞬、闇の染まる。
 思わず自分の身体をぎゅっと抱きしめて、震える唇を噛み締めた。
「アオイ?」
「っ!!」
 不意の声に、驚いて身体がビクっと大きく揺れた。
「どうした?」
 驚きすぎて、一瞬息が詰まるかと思った。
 部屋にデュークが戻って来ている事に、まったく気づいていなかった。
「気分でも悪いのか?顔色が、悪い」
「・・・あ・・・」
 見つめた先にいるのは、デューク。
 ここは、檻の中じゃなくて、船の中。
 あの淀んだ空気の、陰も形も無い場所。
「ヒデローを―――」
「待ってっ」
 咄嗟にデュークの衣服を掴んだ。
 声が、出た。
「アオイ?」
「ごめ・・・っ、へーきだから・・・」
「だが・・・」
 まだ青い顔に、デュークは心配そうに眉を顰める。けれどアオイは緩く首を振って、そのままデュークの身体に顔を押し付けた。ちょうど、腹あたりだろう。衣服の上からでも鍛えられた身体を感じた。
「アオイ・・・」
 デュークはアオイの肩に手を回しながら横に座って、その身体を抱き寄せた。
 身体の温もりに、伝わる心音にアオイはつめていた息をホッと吐いた。思い出すだけで、こんなにもダメになるとは自分でも思っていなかった。
「なんか・・・、変な、白昼夢みたいなの見ちゃって」
 白昼夢よりもリアルに、逃げてきた場所を思い出していたけれど。
「気分が悪くなっただけ。ごめん、でも―――――もう、大丈夫」
 アオイは、顔を上げてにっこり笑った。
 別に無理をしたわけじゃなく、本当に気持ちが落ち着いてきた。デュークの香りを感じて、あやすように背中をさすられて。それだけで嘘の様に心が楽になったのだ。
「本当か?」
「うん。本当」
「なら、行こうか?」
 顔色が戻ったようで、デュークもホッとしたように立ちあがった。
「行く?」
「船が接岸される」
 ドキっ、とアオイの心臓が鳴った。
「うん」
 けれど、笑顔は消さなかった。僅かばかり指が震えたけれど、デュークに手を差し伸べられてその手を取って。伝わる温もりに震えも止まった。
 廊下を歩いていくと、接岸の衝撃に船が揺れて。
「おっと。大丈夫か?」
「うん。ごめん」
 デュークに支えられて、なんとか転げる事無く甲板へと上がった。
 そこには既にヒデローと、何故か少し戸惑う顔のケイトが港を見つめて立っていた。
「行くぜ?」
「ああ」
「いってらっしゃい」
「気をつけてね」
「うん」
 何故か満面の笑みのミヤに見送られて、振り返って手を振る頃にはヒデローは既に降りて行っていた。
 続いてケイト、その後をアオイが続く。
 ――――・・・いない、よね?
 見渡してみてもそれらしい人影はなくて、アオイは息をゆっくり吐きながらそれでも緊張の面持ちで足を陸に下ろした。その後ろ、すぐにデュークも降り立った。
 ――――良かった。大丈夫そう・・・・・・
 港には物々しさも人影もさしてなく、静かなものだった。
 けれど。
「・・・え?」
 ゆっくりと見渡した視界の中に、アオイが恐れる人影は無かったのだが別の風景が飛び込んできた。
「・・・あれ・・・ケイト?」
「ああ」
「と、・・・誰?」
 そこにはケイトと――――――明らかに出迎えた風の女の人の姿があった。









次へ    短編へ    小説へ    家へ