海の上の籠の中で 前編14
「誰・・・あの人」 「ああ・・・」 ケイトの横にいるのは、簡素にまとめた服装の中にも、清々しい雰囲気を持った可愛らしい女性だった。長い髪に貝で花の形を作った髪飾りをつけ、薄い化粧が穏やかな顔立ちを品よく引き立てていた。 その右腕が、ケイトの腕を取っている。そのケイトの横顔も穏やかに見えた。 「デューク?」 なんとなく感じる歯切れの悪さに振り返れば、デュークは複雑な笑みを浮かべて肩をすくめた。 「彼女は、ケイトの恋人だ」 「え!?・・・恋人。――――えー・・・そんな人いたんだぁ」 あの無表情で感情がわからないケイトにそんな人がいたなんて――――と、アオイは失礼にも驚きを率直に表した。 「まーな」 そのあからさまな反応にデュークの肩が震え、ククっと笑いをかみ殺した声が洩れた。 その時、その女性がアオイ達のほうへ視線を向けて戸惑ったように頭を下げた。たぶん、アオイが誰かわからなかったからだろう。 「おいで」 デュークは笑いを引っ込めて、アオイの背中を押して女性の傍へと歩み寄った。 「アオイ、こちらはナナ。ナナ、こっちはアオイ。ウチの見習い」 「はじめまして」 「はじめまして。――――新しい人、いれたんだ?」 にっこりと浮かべた笑顔で言う前半はアオイに、後半は窺うような視線と共にケイトに向けられた言葉。それにケイトは曖昧に笑った。入れた、というには少々状況が違ったから。それに、ケイト自身まだアオイを受け入れているわけでもなかった。 「とにかく、宿へ行こう」 ただ、その自分の心情をこの場で説明する来は無いらしく、ただそれだけを口にした。 「そうね。女将さんも待ってるわ」 ナナもまた、まだ何か言いたそうではあったが言葉にせず、慣れた様子で4人を案内した。 宿は、港からゆるやかな坂道を登った途中にある白い壁で出来たこじんまりとしたもので、1階はビストロになって2階3階部分が客室になっていた。 「おや、やって来たね」 最初にビストロに顔を出すと、カウンターの中にいた女将がちょっと丸い体を揺らして笑顔を向けた。 「お世話になります」 「ああ、ゆっくりしてお行き――――おや、新顔かい?」 「どうも・・・」 しげしげとした視線にアオイは少し気後れしたのか、デュークの影に隠れながらペコリと頭を下げた。 店内は淡いブルーを基調とした壁に、やはり白いテーブルとイス。掲げられた黒板にはメニューらしいものが書かれてあった。 店内を漂う匂いに、食欲もそそられる。 「これはまたえらく可愛いねぇ。もしかして、アンタのコレかい?」 「女将!!」 笑った顔で小指を立てられて、デュークは思わず声を荒げる。すると、店内には女将の笑い声が響き渡った。 「なんだい違うのかい?アンタがそういうのを囲ってくれるんなら、ナナも続けるのにねぇ」 ――――え・・・、どういう意味? 「女将さんっ」 これにはナナが焦った声を出す。アオイが視線を向けてみると、ナナは頬を朱に染めていた。 ますます意味のわからないアオイは、どういう事だろうと首を傾げると、ちょうどヒデローと視線が合った。 ――――え? ヒデローはアオイを見つめながら、人差し指を立てて口元に持っていく。"黙って"の仕草。けれど、アオイはそれで余計わけがわからなくて、考え無しにデュークの袖を引いてしまう。 「部屋を案内してくれる?」 しかし幸いにも、デュークが口を開くよりもアオイが質問するよりも前に、ケイトが話題を遮った。 結局アオイの疑問は解消される事も無く、4人はそのまま上へと案内された。用意された部屋はシングル二部屋とツインが一部屋。ここにはシングルが4つも無かったのだ。 「んじゃ、俺はこっちで」 ヒデローは迷う事無くシングルルームへと消えていく。残された3人に選択の余地など無かった。 アオイとデュークのツインルームは清潔にされて、こざっぱりとした気持ちの良い部屋だった。そのパリっと糊の利いたシーツが敷かれたベッドに、アオイはパフっと音を立てて倒れこんだ。 お日様の香りが鼻をくすぐる。 「どうした?」 その温もりに緊張していたらしい身体から、ゆっくりと力が抜けた。 「んー、なんでもないよ」 心配そうな声に、アオイは笑みを浮かべる。そして、ごろんと身体を反転させてそのまま肘を突いて、デュークを見つめた。 「ねー、さっきのどういう意味?」 「ん?」 「僕がデュークに囲われるとかって話」 「ああ・・・」 「どういう意味?」 苦笑を浮かべて言いよどむデュークに、珍しくアオイが食い下がった。その瞳が、僅かな不安に揺れている。 デュークには男を囲うような気持ちがあるのだろうか?と。 「まぁ、色々とな」 「それって・・・僕を囲うかもってこと?」 その言葉にデュークはアオイに視線を合わせて、フッと笑った。アオイが何を心配しているのかやっと分かったようだ。 「ばか。そんな事はしないよ。あれは・・・そういう意味じゃないんだ」 デュークの言葉にアオイは不可解な顔をして首を傾げた。 けれどデュークにはそれ以上説明する気が無いらしい。アオイの髪をくしゃっと撫でて、そのまま黙って今閉めたばかりの扉に手を掛けた。 「でかけるの?」 「ああ。―――― 一緒に行くか?」 振り返って問いかけられた言葉に、アオイは僅かに逡巡の後緩く首を横に振った。外の世界に魅力を感じないわけじゃない。 何があるのか、どういう町なのか。見たことの無いこの場所を見てみたいとは思う。 けれど、あまり人目に触れることが怖かった。 ―――――・・・どこで誰に見られるか・・・・・・ そう思うだけで背中に嫌な汗が流れて身震いしてしまう。 「そうか」 「うん」 デュークは、それじゃあ出かけてくると一人出て行った。扉が、パタンと音を立てて閉まって、コツコツっと足音が遠ざかり部屋には静寂が満ちる。 するとアオイは途端に背中がゾクっとして、なんとも言い知れない気持ちに襲われた。 ―――― 一人が怖い。 初めて感じたその感覚に思わずぎゅっと瞳を閉じてみれば、暗闇が余計に恐さを助長した。 「・・・っ」 一緒に行けば良かった、そんな後悔が襲ってきて。まだそこら辺にいるかもと咄嗟に部屋の窓を開けて下を覗き込んだ。 けれど、そこにデュークの姿は無い。もう行ってしまったのか、アオイの死角になる方へ歩いていったのかもしれない。 ――――どうしよう・・・・・・っ 追いかけるべきか、ここにいるべきか。二者択一を決めきれずアオイの顔に焦燥の色が浮かんだとき、その耳に話し声が聞こえてきた。 「―――・・・だってっ」 ――――・・・ナナ・・・? アオイは思わず身を乗り出すが、姿は見えない。アオイと同様、部屋の窓を開けた事で声が洩れ聞こえてきたのだ。 「あの子は船に乗せていくんでしょう?」 ――――・・・・・・もしかして・・・僕のコト、かな? 「それはデュークが決めることだ。俺はまだ認めたわけじゃない」 「・・・でもっ」 「ナナ・・・」 その会話は甘い恋人の語らいと言うよりは、言い争っているように聞こえた。 「ずっとずっと、私はここで貴方を待つだけ・・・?」 ナナの、泣いているのかもしれないと思う声にケイトが答える声は聞こえない。 「いつやって来るともしれず。ただその日を?」 「ナナ、分かってくれ」 「分かれって、ケイトこそわかってない!私は毎日どんな思いで過ごしているのか。―――――もしかして怪我でもしてるんじゃないか、もしかしたらもうココへは来ないんじゃないかって。貴方はどこにいるんだろう、どうしているのか、少しくらい私を思い出してくれているのか」 「・・・・・・」 「そういう事、わかってる?」 「ナナ・・・」 「ねぇ、いつまで?いつまでそんな風に思って貴方をここで待たなきゃいけないの?」 「・・・もう少し・・・」 「もう少しもう少しって。――――そんなのもう・・・っ」 「ナナ・・・っ!」 バタン、といきなり大きな音が響いてアオイは危うく身を外へ滑らせそうになった。そして、バタバタと走り去っていく足音。 「――――ナナ・・・」 アオイの耳に、掠れた切ないケイトの声が聞こえた。その音に続いて、大きくベッドの軋む音。ケイトが腰掛けたのだろう。 「ナナ・・・ごめん」 ケイトの声は、身を切り裂かれているのかと思うほどの悲痛な声だった。 「俺だって。本当は―――・・・・・・」 音はそこで途切れた。再び静寂と、その中に僅かな風の音だけ。 ――――・・・んーと? 窓から吹く風を感じながら、アオイはゆっくりと思考を巡らせた。 ――――ナナは、ケイトが好きでケイトもナナが好き。 うん、恋人同士なんだからそれはそうなんだろうな。好きって、よくわかんないけど・・・・・・好き・・・好きって・・・・・・どういうのだろう。 好き――――――・・・・・・っと、今はそれを考えてるんじゃなくて、ナナの事。ナナは今の状況は嫌なのかな?うん、そんな感じだったな。 「うーん・・・」 でも、そもそも恋人同士ってよくわからないな、とアオイは首を傾げた。そのまま、身体も傾けて結局再びベッドにごろんと横になる。 その瞳には天井が映し出された。 「好き・・・」 "好き"ってどういうのだろう。 ケイトがあんな声を出すくらいだから、やっぱり辛い事なのかもしれない。ナナだって泣いてたみたいな声だったし。 あの人の"好き"、は凶悪的で暗くて。苦痛ばかりだった。凄く嫌で、無理矢理の快感が泣き叫びたくなるほどに辛かった。 辛くて。 苦しくて。 思い出しても、吐き気が込み上げる。 「――――っ」 アオイは、ぎゅっと瞼を閉じた。 本当に、思い出しただけで気持ち悪くなってきた。 でも、ナナやケイトの"好き"は全然違うのかもしれない。だってあんな感じじゃないし、あんな瞳をしていない。 辛い、のは一緒かもしれないけど―――― ・・・という事は、ミヤやトウヤや、ヒデローの"好き"もまた違うのかな・・・? どんな"好き"なんだろう? 僕は・・・・・・? 僕は"好き"って事がよくわからないから、そういうのを持っていないのかもしれない。 好きって言われるのも、愛してるって言われるのも全部が気持ち悪くて嫌だったから、僕には理解出来ない感情なのかもしれない。 でも。 じゃぁ。 デュークは・・・・・・・・・。 デュークはどんな"好き"を持ってるんだろう? どんな風に人を"好き"になるんだろう―――――? 「・・・痛っ」 アオイは思わず胸に手を当てて、ぎゅっと衣服を掴んだ。 ――――・・・、なんか。痛い・・・ なんで急に痛みを感じたんだろう・・・?どこも、怪我なんかしていないのに。ああ、もしかしたら背中が、まだちょっと痛いのかも。 ヒデローに、あまり無茶はまだダメだと言われていたんだったとアオイは思い出して、少しかばう様に横向きに体勢を変えた。 ――――ああ、うん、ちょっと楽に、なったかな。 そうか、まだ怪我は万全じゃなかったのかと思って、でもデュークには黙っていようと思った。言うと、きっと心配するから。そう思って、その顔をふと思い浮かべてアオイの口が自然に綻んだ。自分では、まったく気付かないうちに。 さっき、痛いと思った瞬間涙が出そうになっていた事にも、アオイは気付いていなかったけれど。 ただ、じっと瞳を閉じて、外の音を聞いていた。 風の音を、聞いていた。 そのままアオイは、静かに眠りに落ちていった。 |