海の上の籠の中で 前編16
次の日、ナナは朝一番で女将に話をした。まだ誰も起き出してもいない、早朝の朝日が照らすキッチンで。 「へぇ〜そうかい。行くのかい」 女将は朝食の準備をしながら、特に慌てた様子も驚いた様子も見せず頷いた。しかしその顔は、とても嬉しそうなものだった。 「勝手を言って申し訳ありません」 「バカだね。私はね、この日がいつになるかとずーっと待ってたんだよ」 深々と頭を下げるナナに、女将の瞳はまるで娘を見るように慈悲に満ちていた。 「初めてナナに会ったのは、もう5年も前だね。鞄一つでやってきて、住み込みで雇ってくれって言ってねぇ」 その時のことを思い出しているのか、女将が目を細める。 5年前。くたびれた衣服に、使い古した鞄一つ提げて玄関に立ったナナの姿が、その脳裏にはくっきりと浮かんでいるのだろう。 「それが、ケイトと再会して。・・・幼少のおりの淡い初恋を実らせた。頬を赤らめて喜んだナナをはっきり憶えているよ」 「女将さん・・・」 「いつかこの日は来ると思ってたよ。遅すぎたくらいだ」 優しい女将の言葉に、ナナは鼻がつんとするのを感じた。 朝の日差しが眩しくて差し込んで、窓ガラスをキラキラと光らせていた。 色んなことが、本当に色んなことが脳裏を過ぎっていく。嬉しかったことも辛かったことも、優しくしてもらってどれだけ感謝したかも、何もかも。それは言い尽くすことの出来ない思いだった。 「ナナ、幸せになりな」 「―――っ」 「今まで苦労してきた分、きっとこの先は良いことが一杯待ってるさ」 女将の言葉に、ナナは首を横に振った。 苦労だなんて。 確かに父の営む店が傾いて、夜逃げの様に引っ越した幼い日から家を転々として、結局母を心労で亡くし、父とは行方知れずになった。 けれど、ここに来てからの5年。自分は随分と幸せだった。本当に良くしてもらった。本当に、本当に言い尽くせない感謝の言葉が胸にある。 「・・・っ、ひっく・・・っ」 「馬鹿な子だね。泣くんじゃないよ」 そう言った女将の声も、少し濡れていた。 「ほら、今日まではうちの働き手だよ。さっさと顔を洗って、掃除しとくれ」 「――――はいっ」 そんな言葉も、照れ隠しなのだとナナには痛いほど分かった。 ナナは深く頭を下げて、ぱたぱたと洗面所へと向かった。今日が最後。いつも以上の最高な笑顔で1日を終えよう。 ナナはそう心に決めて、顔を洗って涙の跡を消した。 いつもより100倍丁寧に掃除して、テーブルも床も、食器もぴかぴかに綺麗にしようと気合を入れてバケツを持ち上げた。 ・・・・・ その翌日の旅立ちの朝は、素晴らしい快晴だった。 「こっち。こっちがケイトの部屋」 みんなが港で、買い込んだ荷物を受け取っている間アオイはコソっとナナを手引きして船内へと招き入れた。 「へぇ、案外綺麗にしてる」 ナナはケイトの部屋を見渡して、らしいわねと肩を揺らした。 「じゃぁ僕港に出て手伝って来るから、ここで待ってて」 「ええ」 アオイが手を振って出て行くと、ナナはさっそく自分の荷物を解いて、衣服を箪笥に直し化粧道具を片隅に並べだした。 「・・・っ・・・」 その時、机に置かれた写真に気づいて思わずその写真立てを胸に抱いた。 「なんだ・・・」 風に吹かれて笑っている、自分の写真。それをケイトが持っていてくれた、それだけで愛しさと切なさと、安堵が洩れた。 なんだ、ちゃんと愛されていたのだ、と。 一方アオイはそのまま甲板に出て、甲板に上げられた荷を船内に運ぶ作業を手伝った。と言っても、先日船から奪ったものもまだ多く、荷のほとんどが酒と水だったために非力なアオイの出番はほとんど無かったが。 「帆を張れ!」 「はい!」 「はいっ」 ミヤの後を付いてこれはアオイも精一杯手伝うと、瞬く間に貼られた帆が風を受けて大きく膨らんだ。 それを見てデュークが舵を切る。 「ナナ、見送りに来なかったのか?」 港を見下ろすケイトにヒデローが声をかけた。 「朝起きたら、いなかった・・・」 あったのは、置手紙。ただ一言、"愛してます"とそれだけ。 「アオイを見て、自分も船に乗りたがっていたんだが、俺はうんとは言ってやれなかった」 ケイトが、もしかしたらどこかに隠れているんじゃないかと目を凝らして港を見渡す。けれど、そこにナナの姿を見つけられるはずが無い。 ケイトの口から諦めたようなため息が漏れた。 「これで、終わりかもしれないな・・・」 「おい」 「だってそうだろう?いつまでも俺なんかに縛り付けておくわけには・・・・・・」 風の音がうるさいくらいに響いた。 「ケイト・・・」 ―――――愛している、最後にそう言って抱きしめてやりたかった。 幸せにしてやりたかった。 船はどんどん港を遠ざかって、もう大声をあげたところで届かないだろう。小さくなっていく町。 後悔だけが襲って来て、ケイトが苦しそうに眉を寄せてあふれ出る気持ちに耐えている横で、ヒデローが変な声を上げた。 「へっ!?・・・―――おい・・・ケイ、ト」 「なんだ?」 「・・・ナナ」 ヒデローは信じられないものを見たようで、声が上擦っている。ケイトは一体何事かと振り返って、信じられないものを見たように大きく目を見開いた。 「――――ナナ・・・・・・お前っ!」 「私、付いて来ちゃった」 「付いてきたって・・・デュークが許可したのか?」 ケイトは独り言の様に呟いてデュークを見た。そのデュークも驚いた顔になっていて、そうじゃない事を知る。ならば、ナナは密航者という事になってしまう。 「私は貴方と一緒に生きていきたい」 風の音をも掻き消して、ナナの言葉は全員に響いた。 「後悔、したくないの」 「ナナっ」 ケイトの顔に動揺が走った。 「迷惑だった?・・・それならそう言って?ショックだけど、・・・・・・でも、そのほうが」 「そんなわけないでっしょ」 ヒデロー。 「こいつはずっと、ナナに惚れてたんだぜ?」 「ヒデローっ」 「ナナに再会した日、幼い日の淡い初恋が返ってきたって柄にも無く喜んじゃって」 その言葉にナナはケイトを見つめ、ケイトもナナを見つめた。 昔、幼少のおり家族ぐるみの付き合いをしていた二人。それが、ナナの親が借金で夜逃げして、さよならも言えずに別れた日から何年もの月日が流れて、あの町に偶然寄港した時の再会。 あの時だけは、ケイトは神に感謝したのだ。 ナナが無事だったこと、元気だったこと、そして再会させてくれた奇跡に。 「デューク・・・」 ケイトは、許可を求める顔でデュークを見た。どだい、船をここまで出してきて今更許可も何も無い。 けれどケイトにはデュークの許可が必要だった。 しかしデュークはなんとも言えない顔で。 「俺は、――――許可出来ない」 「えぇ!?なんで?」 声を上げたのはアオイだった。言われたケイトと、その横のヒデローはその答えを多少予期していたのか、厳しい表情を崩さなかった。 ただ、トウヤとミヤも声は上げないものの、その顔は驚いていた。ここまできたら、許可するものと思っていたのだろう。 「なんで?」 アオイはちょっと怒った様な顔で、デュークを見つめる。 「そうだぜ、デューク。アオイが良くてナナがいけないつーのは、通らねーだろう?」 ヒデローも、その顔を多少引きつらせながらも軽口を叩いた。しかし、デュークの返事はにべも無く。 「アオイは男だ」 「私も剣の練習をします。少しは、練習もしました。アオイには、負けない自信があります」 「げっ」 「ナナ・・・」 「そういう問題じゃない」 そういうと、デュークは苛立ちを抑えられない足取りで中へ入っていった。 その後を、アオイが追いかけた。 もちろんケイトも追いかけようとしたのだが、その腕をヒデローに止められた。 「今はアオイに任せてみようぜ」 「――――っ」 「アイツは何も知らない。その方が――――」 しかし、二人きりにするのは怖くて、ケイトとヒデロー、ナナは足音を忍ばせて中へ入っていった。 しかし、3人はすぐそこで姿を隠すはめになった。アオイとデュークは部屋ではなく、廊下で言い合いになっていたのだ。 「なんでナナはダメなの!?」 アオイの手がデュークの腕を掴んでいた。 「――――っ」 「ケイトとナナは好き同士なんだよ?一緒に船に乗せてあげたっていいじゃん!」 デュークはそれには答えず、苦々しい顔をしている。 「それともデュークは離れ離れにさせたいわけ?そんなに意地悪なの!?」 「お前は何も分かってない!」 「何がっ?」 「ここは海賊船なんだ!客船でもなければ運搬船でもない!」 「そんな事知ってるよ!」 「いーや分かってない!海賊船がどんなに危険か、危ないか、お前が本当にわかってるのか!?」 「――――」 デュークの強い声にアオイは思わず言葉に詰まる。確かにまだ、海賊らしいところを見た事は無かったから。 見たのは、自分が連れ出された時の、あの甲板の状況だけ。確かにあちこち壊れて、床には血が流れていたし、人も転がっていた。 「こっちが優位な時はまだいい。だが、不意を付かれて襲われて――――劣勢になる事だってあるっ!!」 「でもっ」 「相手のほうが何倍もでかい船で、多勢の中で囲まれて、ナナが女だってだけで攫われたりでもしたらどうする!?」 デュークの顔が、悲痛な何かを想像しているのか、それともリアルな過去を思い出しているのか、苦痛に歪んでいる。まるで、ナイフで肉体をえぐられている様な。 「そうなったら何をされるか、考えたことがあるか?」 アオイはただ悔しそうに唇を噛み締めた。 デュークの言う事は、アオイにも分かった。 「そこまでいかないにしても、もしナナが怪我でもしたらどうする?お前責任取れるのか!?」 「―――っ、そんなの」 「なんだ?」 「でも、そんな最悪のことばっかり言ってたら、何も出来ない!!」 アオイはキッとデュークを睨んだ。 デュークのいう事はいちいちもっともで、アオイにだって分かるけれどアオイにはアオイの信念があった。 「だって好き同士で、一緒にいたいんだよ?確かに怪我とかするかもしれないし、もっともっと危ない事があるかもしれないけど!でも、起こるかどうかわからない事ばっかり心配しても仕方ない」 「仕方ない?ふざけるな!!起こるかどうかじゃない、実際にそういう事が起こりうるんだ!!」 違う、とアオイは首を振る。そのアオイの身体をデュークが両腕で掴んだ。 「愛した者が、この手の中で死んでいく事がどんなことかわかってるのか?守れなかった、その苦痛が!!だんだん 息が微かになって、止まって。腕の中の重みが固まりになる瞬間、どんな思いをするか――――っ!!」 「でも、!!」 「でもじゃない!!魂の半分が、抉り取られていく―――――っ、お前にそれがっ」 「それでも!!それでもいいじゃん!!」 「なんだと!?」 カッとなったデュークは、怒り任せてアオイの身体を壁に落ち着けた。 「う・・・っ」 衝撃にアオイが苦痛の声を漏らしたけれど、デュークの耳には聞こえなかった。それくらい、頭に血が登っていた。 「それでもいいだと!?」 壮絶な怒鳴り声に、廊下の壁が震えた。そのあまりの剣幕に、陰で盗み見ている3人は恐怖で顔色を失って声も出ない。けれど、アオイは臆する事無く、怒鳴り返した。 「好きでこの船に乗ったんでしょう?好きで海賊やって、好きで海賊を好きになったんだから!!」 「―――――っ」 「デュークこそ全然わかってない。それがどれだけ凄い事かっ!!」 アオイの瞳が見開かれて、その眉が何かを耐えるように歪んだ。 「何かを好きになる事も許されないって、そういう事があるんだって知ってる?」 「・・・アオイ?」 「暗闇の中で、自由も無くて意思も無くて。ただ人形でしかいられなくて、何かを好きになる事も誰かを好きになる事も出来なくて。そういう気持ち全部奪われて繋がれて。そういうの、わかる!?」 「・・・っ」 デュークには、アオイが誰の話をしているのか直ぐにわかって、その顔色が変わった。 「危険でもいいじゃん。危なくても。それでも好きでそうするなら、そう出来るなら!!それがどんなに素晴らしいことか凄いことか、デュークは知ってるの!?」 アオイの瞳から大粒の涙が零れ落ちた。 その涙に、デュークは冷水を浴びせられたような気がした。 「僕は、ナナが羨ましい。みんなが羨ましいよ?危険でも、殺されても、それでも僕はここにいたい。お日様の下で、きらきら笑ってたいよ・・・っ」 ぽろぽろと、綺麗な涙が零れ落ちていく。 真っ白で、真っ直ぐで、純真な、涙。 「誰かを好きになって、誰かに好きになってもらって、一緒にいられて、毎日笑っていられる。それがどんなに凄くて、・・・うらやましいか。―――――なのに、ダメなんて僕には納得出来ない!!デュークの言ってることも分かるけど。でもっ!!」 デュークはアオイの言葉を最後まで待たずに、力いっぱい抱きしめた。細い、華奢な今にも折れそうな身体。 「ずっと、――――そんな思いをしてきたのか?」 搾り出した声は憤りと腹立たしさに、掠れていた。 だから、何も出来ないのかと。何も知らないのかと。 すぐに体調を壊して、日の光にも弱い身体。ただ、それが愛おしくて、デュークはアオイを抱きしめた。 「もう、そんな思いはさせない」 アオイの涙で自分の肩が濡れるのを感じながら、デュークはまるで何かの誓いのように言葉を口にした。 |