海の上の籠の中で 前編17





 デュークはそのままそっと、壊れ物でも扱うようにアオイをベッドに寝かせた。
 デュークと喧嘩して興奮した上泣きだしたアオイは、そのまま泣きつかれて意識を手放したのだ。ヒデローの見立てでは少し疲れたのだろうという事だから、心配はいらないのだけれどデュークは落ち着かない様子でアオイを見つめた。
 涙の痕の残る頬をそっと触る。
 やはり、アオイは売られる途中ではなく、そういう趣味の男にあの船底に鎖で繋がれていたのだと、はっきりと悟った。
 あの中に、アオイを閉じ込めて苦しめた男がいた。
 ――――あの船、焼き払えば良かった。
 デュークの顔が悔しそうに歪み、歯がギリっと鳴る。知らなかったとはいえ、惜しいことをしてしまった。
「・・・アオイ・・・」
 ――――お前の本当の名は、なんて言うんだろうな・・・
 それを知りたいような、もう知りたくないような。デュークは複雑な思いにかられていた。ただ、何がどうであろうと、今のままのアオイでいてくれたらいいと思う。

 その頃、ケイトの部屋でナナはアオイについて話を聞いていた。
「じゃあ、襲った船の船底に?」
「ああ」
 椅子に腰掛けたケイトは、なんとも言えない顔で頷いた。先ほどのアオイの言葉が衝撃だったのは、ケイトも同じだった。
「俺はどこかでアオイを信じきれない部分があった。あまりにも何も、語ろうとしないから。けれど、・・・・・・アオイはただ忘れたかっただけだったんだろうな」
 望まなかった、苦しく悲しい過去から。
 そう思えば、随分冷たくしてしまった自分の行為に後悔が募った。
 名を名乗らなかったのも、過去を話さなかったのも、アオイ自身全部捨ててしまいたかったからなんだろう。全部捨てて、やり直したかったのかもしれない。
「じゃあ、これから優しくしてあげたらいいじゃない」
「・・・ナナ」
「そにしても、良かったわ」
 ナナは、ほっとしたように笑ってケイトから視線を外した。
「何が?」
「貴方が私を船に乗せたがらないのは、もしかしたら他にもいい人がいるからなんじゃないかって、思ってた」
「ナナ!?」
 少し涙声になったナナに、慌ててケイトは腰を上げた。
「でもそうじゃなかった。理由は、―――――デュークさんの過去、ね?」
「・・・ああ」
 少し涙に濡れた瞳でケイトを見上げると、ケイトは少し言いにくそうに頷いた。デュークの過去を、ナナにさえ話していなかった。それは、ケイト自身がまだその事を過去にしきれていないからかもしれない。
「・・・俺自身も怖かったんだ」
「――――」
「もし、ナナを失うことになったら。――――そう思ったら怖くて、一緒に行こうと言えなかった。ごめん」
「ううん、もういいの。心配していてくれたのは、凄くわかるから。でも、私は付いて行く事にする。だって、傍にいなきゃケイトに何かあったとき、守ってあげられないでしょ」
「ナナが俺を守ってくれるのか?」
「そうよ」
 きっぱりと言い切ったナナを、ケイトはなんともいえない顔で見つめた。その顔は、今にも泣き出しそうにぐにゃりと歪んでいた。
「だから、私のいない所で死なないで」
「―――ナナ・・・っ」
「確かに、自分の手の中で死なれるのは不幸よ。でも、遠くで死んだ人を、死んだか生きてるのか、愛されているのか愛想を付かされたのかもわからぬまま、ただ待ち続けるよりはまし。傍にいられないって、そういう事でしょう?」
 デュークにはデュークの、アオイにはアオイの想いがあったように、ナナにはナナの想いが有り生き方があった。
「そんな思いをするなら、涙が枯れるまで泣いた方がまし。私は――――そう思う」
 それは、ここで生きていこうと決めたナナの決意でもあった。
 そのナナの顔を見て、ケイトは愛しくてたまらないという瞳を向けて微笑んだ。
「ありがとう」
 それ以外に、言う言葉も見つけられなかった。
「俺を愛してくれてありがとう」
「ケイトっ」
 ケイトは、自分より20センチは低い身体をぎゅっと抱きしめた。
「幸せになろう」
 嬉しさと切なさと愛おしさに、感極まった声は掠れていた。けれど、ナナに耳にはちゃんと届いて、ナナの頬を耐えていた涙が流れ落ちた。
「ええ」
 返事が、尊く響いた。
 それは、教会でもなく牧師の前でもないけれど、二人の尊い誓いの言葉だった。


 その夜、甲板で夜空を見上げるトウヤの姿があった。
 空は雲ひとつなく晴れ渡り、無数の星が輝きを放ち、穏やかな風が吹きぬける晩だった。
「よう」
「―――ヒデロー・・・」
 暗闇の中、静かにトウヤに声をかけたのはヒデローだった。真夜中に近い時刻、波の音以外の音はしない。
「飲む?」
 手にしているのはスコッチのボトル。トウヤは軽く頷いて受け取って、グイっと一口煽った。喉がピリっとして飴色の液体が胃に流れ込む。
「良い、夜だな」
「ええ」
 ヒデローは船の縁に肘をついて、夜空と交わる水平線を見つめる。トウヤは逆に、縁に背中をもたれさせて夜空を見上げていた。
「・・・・・・アオイ、ちょっと驚きましたね」
「あー、まーでも予想内って感じだけどな」
「ええ。でも――――結構、堪えました」
 トウヤの苦く自嘲気味な笑いを含んだ声が空に消える。
「"誰かを好きになる、自由があるだけ良い"――――そんな風に思った事無かったです。どうして、何故、いつもそんな自問の繰り返しで」
「ああ」
「それなのに、ナナみたいに吹っ切れないんですよ」
「まー、お前とナナは状況が違うからなぁ、一概に言えないけどな」
「でも、・・・・・・」
 トウヤは、フッと息を吐き出してその場に座り込んだ。そしてまた一口、スコッチを流し込む。
「諦めることも、出来ない。卑怯、ですかね?」
「ああ」
 ヒデローの返事は、即答だった。
 その返事に、トウヤは笑った。
 そう、言って欲しかったのか否定して欲しかったのか、トウヤ自身もよくわかっていなかったから。けれど、返事は肯定。
「ミヤの気持ちは決まってるだろう」
「ええ」
「それでお前は諦め切れないと言う。その上、何をまだ悩んでんだ?」
 ミヤの気持ちに気付いたのは、いつだったのか。自分はいつから、ミヤが特別だったのか、トウヤすら定かでは無い。
 ただ、気付いたら好きになっていた。
 そして、ミヤの視線が辛くなった。
「俺は、兄なんです」
 だからことさら、兄であろうとした。
「ああ、知ってる」
「しかも、男同士ですよ」
「デュークとアオイも男同士だけどな」
「―――――あの二人って、やっぱそうなんですか?」
 トウヤは、それまでまったく見なかったヒデローへ思わず視線を向けた。しかし、ヒデローは前を向いたまま肩を竦めた。
「デュークはアオイに結構マジだと俺は思ってるぜ。ただ、アオイの方はよくわかんねーな。アオイ自身自分の気持ちはわかってねーんじゃねーかなぁ。だからこそ、お前らが引っ付いて見せ付けやれ」
「っ、・・・無茶を・・・」
「無茶か?ならすっぱりそう言ってやれ」
 ヒデローの言葉が、キツイ音になった。
「世間体が大事で、倫理観が先に立って、兄って立場から超えられないならさっさとそう言ってやれ。見てて、ミヤが可哀相だ」
「――――っ」
「好きならいいじゃない、好きって気持ちだけで。―――――アオイならそう言うだろうな」
「・・・そうですね」
 トウヤは、ため息の様に言葉を吐き出した。
 ヒデローの言う事は十分わかっていた。それでも、超えられないと思うのは、その一線を越えてしまうのがただトウヤには怖かった。
 それがいかに臆病で、格好悪い事とわかっていても。
 そんなトウヤを、ヒデローはただ静かに見つめていた。




・・・・・・




 それから数日後のことだった。水平線に1隻の船の陰が見え、どんどん近づいてきた。
「デューク!!テッドの船だ!!」
 物見台からヒデローの声が響いて、ケイトとデュークは甲板からその船の方に視線を向けた。
「テッド?」
 アオイは誰?と傍にいたミヤに尋ねた。
「海賊仲間だ。頭とは古い付き合いらしい」
「へぇー他の海賊!?」
 アオイは興味を示したのか、瞳を見開いてそちらを向いた。まぁ、アオイは基本的に何にでも興味を示すが。
 その視線の中に船はどんどん近づいてきて、肉眼でもその甲板にいる人を確認出来た。
「―――っ」
 アオイの肩がピクっと震えて、思わずミヤの陰に身体を隠した。
「アオイ?どうした?」
「あら、何?」
 そこへナナとトウヤが中から出て来た。
「おう、テッドじゃねーか」
「テッド?」
「海賊仲間だ」
 こちらもまた同じ会話が交わされる。
「確かに、なんだか随分それらしい顔ね」
 ナナにも見えたその顔に、思わずそんな感想を漏らしてアオイに視線をやると、コソコソとまるでコソ泥が逃げていく様に、遠ざかっている。
「アオイ、どうしたの?」
 ナナがアオイに近寄ってしゃがんで顔を覗き込むと、アオイは困ったような顔になってナナを見上げた。
「?」
「あの顔・・・怖い」
「まぁ」
「昔本で読んだ悪い海賊にそっくりなんだっ!」
「・・・ははっ。わかる!確かにそんな感じよね!!」
「ナナっ」
 声をたてたナナにアオイは思わず"しぃーっ"と言った。随分失礼な感想を言い合ってるが、ナナはともかくアオイは真剣だ。そこへ、野太い声が聞こえてきた。
「よう!!久しいじゃねーかデューク。元気にしてたか?」
「ああ。そっちも元気そうで」
「まぁな――――ん?ひぃ、ふぅ、みぃ、よ・・・なんか人増えてねぇか?」
 "うわっ、来たよ、ナナ"
 アオイは思わず小声で囁いて、ナナの手を取る。どうやらアオイは本気で怖いらしい。
「ああ、二人ほどな」
 "アオイ、平気だからほら立って"
 "やだぁっ!!"
「アオイ、ナナ」
 ―――――ひぃっ。
「アオイ、なんて声出してるの。ほら、行くわよ」
 どうやらアオイの悲鳴は音になっていたらしい。そんなアオイにナナは苦笑を浮かべながら、腕を取って引っ張りあげた。―――――女の力に引っ張り上げられるアオイもアオイだが。









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