海の上の籠の中で 前編19
それから数時間後。 始まった頃はおやつの時間だったはずが、いまや空には月が昇って、甲板には水揚げされたマグロの様に人々がごろごろ横になっていた。完全に酔い潰れているのだ。 その中で数名がまだ起きていた。その中にはデュークの姿も、ケイトの姿もあったのはさすがと言うべきかなんというか。 「つーかこれどうすんだ?」 さすがのデュークもだいぶ酒が回ってるらしい声で、目の前の光景に苦笑を浮かべる。 「まぁ、この陽気ですし、寝てても凍死するわけじゃなし良いでしょう」 ケイトも笑みを浮かべて返事をした。 「ところでお前ら、今ぁ――――あそこに向かってるんだよな?」 テッドは身体を寝転がして、デュークに声をかける。こちらはだいぶ酒が回っているのか、かなり呂律が怪しい。 「ああ、まぁな」 「そっか。おーい、ジーナス!!起きてるかぁ〜!!」 「へーい」 テッドが不意に大声で呼びかけると、隣―――テッドの船から返事が返ってきた。ジーナスとはテッドの船の副操縦士にしてテッドの右腕の男だ。こちらは一見やさ男風に見えるのだが、その腕も立てる作戦能力も、見事に見た目を裏切っている狡猾さ。 なめてかかって、痛い目を見た相手は数知れずだ。 「あの話してやってくれ。おらぁ、水飲んでくる」 「まだしてなかったのか!?」 「るせー」 呆れ声のジーナスに乱暴に言い返すと、テッドはでかい身体を立たせてふらつく足で中に消えていった。 自分の船に移る事はその足では困難なので、デュークの船の水を失敬するらしい。それ自体にデュークも異存は無い様だが、さっきから話の筋が見えない。 「なんの話だ?」 「ん〜ちょい待って」 ジーナスとて酔っている。海に落ちないように慎重に這うようにしてデュークの船に移ってきた。そしてのろのろとデュークとケイトの前に腰を下ろした。 「ん〜だよ、ヒデロー潰れたのか」 「ああ。随分前にな。ミヤはもっと前に潰れてたが」 「別嬪サン二人は?」 「早々に中で休ませた」 「まーた。大事にしてるな」 「まーな」 皮肉っぽく口の端を吊り上げたジーナスに、ケイトもデュークもただ肩を竦めた。その様子に、ジーナスはその瞳を細めて、探るように口を開いた。 「本気であの二人を船に乗せていくつもりか?」 「――――」 「どうみても剣もまともに握れねぇ。ケイトのお姫サンの方はまだ多少見込みもありそうだが・・・そっちはなぁ?」 笑みを浮かべて言うその顔を、デュークはただじっと睨み返した。 「同じ鉄を踏む気かぁ〜?」 「ジーナス!」 夜の暗闇にケイトの厳しい声が響いた。 「俺は親切で言ってるんだぜ?」 「余計な世話だ。ここは俺の船だ」 「ああ、確かにな。ただ―――――その船をまた降りるはめにならなきゃいいと思ってるだけだ」 「――――」 「大事の前だからなぁ」 「何?」 その時、ふっと星が一筋流れ落ちた。 「ダール爺さん」 「ああ」 ダールと言うのは、伝説の海賊の一人。長いこと一線でその名を轟かせたが最近は引退の噂が流れている。 デュークも若い頃、その人とは知らずに世話になった。 「あの人がお前に会いたいそうだ。どうせあの町に立ち寄ると思っていたからそう教えておいた。このまま行くなら、そこで何らかの接触があるはずだぜ」 「――――」 「あの人はお前を買ってた。たぶん――――自分の知ってる何かを、引き継がせたいんじゃないか?」 「まさかっ。あの船には他に若いのも乗ってるだろう?そんな事、よそ者の俺にしたら仲間が黙っていないはずだ!」 「そーんな事は俺は知らねーよ。ただ俺らはそれを伝えるために、お前らの船を捜していただけだ」 「・・・・・・そう、だったのか。それは・・・」 面倒をかけた、と呟きながらもデュークの頭の中は違うことが駆け巡っていた。 昔見た顔を思い出す。 海賊になりたくて勝手に乗り込んだ船。脅しつける周りを一言で抑えて、下働きにしてくれた恩人。そして、自分の持ってるもの全て出来るだけの事を教えてくれた。早すぎる独立に、周りは恩知らずと罵ったが、彼だけはお前ならやれると笑顔で送り出してくれた。 その後、愛する者を亡くして船に乗ることが辛くて降りる決心をした時、必ず戻って来いと言ってくれた人。 戻ったとき、おめでとうと言って山ほどの酒樽を届けてきた人だ。 その人が――――――― 「やはり、引退するのか?」 なんともいえない寒しさが、胸に押し寄せてきた。 「たぶんな」 今でも目標で、憧れの人。 甲板でそんな会話が交わされていた頃。 中では、テッドとアオイが鉢合わせしていた。 「え・・・っと」 だいぶ慣れたとはいえ、アオイの腰はやはり逃げ腰になっている。が、そんな事をテッドが気にするはずもない。 「そりゃぁ、水か?」 「う、うん。喉渇いて―――・・・飲む?」 「ああ。くれ」 テッドはそういうと、傍のソファにどっかりと腰を下ろした。やはり酔っ払い、立っているのが相当辛いらしい。 そのテッドにはアオイは水を注いだグラスを手渡した。 「さんきゅ」 「いえ・・・、あの、何か?」 水を渡した拍子にふと合ってしまった視線。じっと見つめられて、その視線が思いのほか優しくて、アオイは思わず小首を傾げた。 「ん〜いやぁーこんな別嬪さんがアイツの傍にいてくれてるとはなぁ〜」 「・・・はぁ」 アオイは水を持ったまま立ち尽くすのもなんだし、かといって立ち去る事も出来ず近くの椅子に腰を下ろした。 「ん〜来て良かった。あいつがまた誰かを好きになるなんてな」 ――――え・・・ アオイの心臓が、ドクンと鳴った。 好き・・・何が、だれを・・・ 口の中で反芻した言葉は、音にはならずテッドの耳にも届かなかった。 「ミドリを亡くしてから、5年、いや6年か・・・喪に服すには長すぎるわな」 「それって・・・」 考えるより先に、言葉が喉をついて出た。 「ん?」 「死んだんですよね。・・・デュークの腕の中で・・・」 先日叫んだデュークの言葉。それをアオイは確認するようにテッドに聞いた。しかし、テッドはその言葉でアオイが全てを知っているのだと、勘違いした。 「そうか、お前にはもう話したのか。そうか、いや、そりゃあそうだな」 「・・・ん」 緊張にアオイの指先が震えた。何故、緊張してるのか、指先が震えるのかアオイにはその理由はわからないのに。 「デュークはミドリを愛してたからなぁ。心底。だから自分を庇って死なれた時、堪らなかっただろうよ」 ただ、手にした水を飲んでも飲んでも、喉が渇いた。 「出会って1年だったか。急激に惹かれあって、愛し合っていた」 「ミドリさんって、どういう人だったの?」 「気の強い女だったぜ。デュークと口喧嘩しても負けねぇし、腕っぷしもそこそこだったな。ミヤとだったらミドリが勝つんじゃねーかな。長いクセのある髪を風になびかせてデュークと並び立つ姿は絵になったな」 その姿を思い出しているのだろう、テッドの瞳が遠くを見る。 「デュークの船に乗せろと言ってやって来たらしいが、デュークが女は乗せないって言ったらしくてな。そこで初対面から喧嘩になったらしい。そんな始まり方をしたくせに、半年後にはなくてはならない存在になってた。――――どこか翳のあったデュークの雰囲気が変わったのもその頃だったなぁ。良い意味で、柔らかくなったなぁと思っていたのが」 ドクっと、アオイの心臓が大きく脈打つ。 ――――なに・・・なん、で? 「突然の奇襲だったらしい」 心臓が、痛い。 「相手は、急激に知名度を上げたデュークを面白く思っていなかった、とかだったか」 頭が、がんがんする。 「応戦して、相手は人数も多かった。それでも優位に立ち、壊滅状態にした。そこに、油断が生まれたんだな。陰に隠れていた数名に気付くのが遅れた。そいつらが一斉に放った矢がデュークに刺さる前に、ミドリが盾になった」 「――――――っ!!」 ヒュっと、喉が鳴った。 「相手を皆殺しにして船ごと沈めても、ミドリは返って来ない」 ――――そんな事が、あったのか。 知らなかった。 何も、知らなかった。 だから、ナナを船に乗せる事が嫌だったのだ。だから、剣を憶えろとうるさく言ったのだ。 「ミドリの腹には、アイツの子がいたのにな」 「――――――!!!!!!」 握り締めていたグラスが、ピキっと音を立てた。落とさなかったのが不思議だった。 心臓が、壊れた機関車の様な悲鳴を上げて走り回っている。頭が痛すぎて、アオイは吐き気すら覚えていた。 "まだ、見習いだ" デュークは、そう言った。 それもそのはずだ。まともに剣を握ることも出来ないアオイを船に正式に迎えるはずが無い。 それどころか、何一つ満足にこなすことも出来ないのに。 「・・・っ・・・」 「堪らなかっただろうよ。デュークは、それまでミドリの腹に自分のガキが出来てるのを知らなかったんだ」 いきなり、まっさかさまに落ちて、地面が揺らいだ。 わからない。 目の前がぐらぐら揺れて、真っ暗になった。 何故、こんな風になるのか分からないのに。 ただ、痛い。 心臓が痛くて、頭が痛くて、身体中が痛くて。 息が、苦しい。 苦しくて、目の前が霞む。 「でも、・・・良かったよ」 テッドのその安心したような呟きは、アオイの耳には届かなかった。 いや、既にアオイの目にはテッドは映っていなかった。アオイはのろのろと立ち上がって、ふらつく足取りで自室に戻った。 手にしていたグラスをサイドボードに置いて、ベッドに倒れこんだ。 すでに、意識は自分から離れていた。意識はどこかを浮遊して、何も考えられなかった。 何が。 何がこんなにショックなのか分からない。 ただ、身体がバラバラになりそうなくらい苦しくて、心臓が痛い。 アオイはその痛みから少しでも逃れようと、身体を丸め、自分の身体をぎゅっと抱きしめた。気付くと、はらはらと泣いていた。 涙の理由もわからない。 シーツがぐっしょに濡れるまで泣いても、涙が止まらなくて。息苦しさも身体の痛みも消えなかった。 眠りたいと瞳を閉じても眠る事も出来ず、ただ泣きつかれて身体が勝手に眠るまで、アオイは一人泣き続けるしか無かった。 それが、恋なのだと。 デュークに恋をして、その過去に衝撃を受けてやり場のない思いに苦しんでいるのだと、その時のアオイには分からなかった。 アオイは、恋を知らなかったから。 今まで、本当の意味で、誰かに愛されたことも無かったから。 わからなかったのだ。 苦痛の意味も、そこからの逃げ方も。 |