海の上の籠の中で 前編20





 翌日、もう正午になろうという時間になって、テッドは上機嫌で自分の船の上から手を振っていた。
 テッドは、昨夜自分がアオイに何を話したのか憶えていなかった。というより、宴会の後半の記憶全部があやふやだったのだ、はた迷惑な事に。
「じゃあーな!!またどこかで会おうぜ!!」
「ああ。世話になったな」
「いーや。ただし、イイ話だったら俺にもわけろよ!!」
 そのちゃっかりした申し出にデュークは笑って肩を竦めた。
「出ますぜ」
「おうっ」
「またな」
「ああ、また」
 また、があるかないかなんて広い海原分からない。けれど彼らは互いの無事を信じまた会えることを信じ、またなと手を上げ目線を交差させて、笑顔のまま離れていった。
 そのまま風に乗って船がどんどん小さく離れていく。手を振るテッドやジーナスの姿もどんどん小さくなって、判別できなくなって、瞬く間に黒い点になった。
 その様子を、アオイは甲板の奥から眺めそのままそっと自室へと戻っていった。頭の痛いのがまだ続いていて、本当は起きているのも辛かったのだ。
 部屋に入り身体を横にして、壁を見つめた。
 朝から、デュークの顔を見るのが何故か辛くて、それを思うだけで相変わらず涙が零れ落ちた。
 デュークの心の中には、まだミドリが住んでいる。だからあんなにも激しく怒ったのだ、ナナを船に乗せた事に。
 それは、当然かもしれない。
 愛した人を自分の身代わりで亡くし、そればかりか生まれるはずだった子供まで失ったのだ、永遠に――――――
 けれどアオイには、デュークの気持ちを認めると言うのが、受け入れがたかった。受け入れたくないと、心が叫んでいる。
 あの人の心に、自分じゃない人がいる。
 入る余地も無い。
 それが、それだけが、こんなにも辛く耐え難い。
 今までどんな事があっても、何があってもこんな気持ちになった事が無いのに。
 アオイは今、絶望にも似た気持ちを抱えていた。
 どうして自分がこんな風に思うかもわからないくせに。
「アオイ!!」
 その時、大きな声とともに扉が遠慮なく開かれた。
「―――っ、あ・・・・・・ミヤ・・・・・・」
「え、なに。泣いてたの!?え、どっか痛い?」
 勢いよく入ってきたミヤは、そのアオイの顔に一気に戸惑いの色を浮かべてアオイの傍へやって来た。ミヤは甲板の掃除をさぼっているアオイに怒りを感じながら呼びに来ていたのだが。
「ううん、あ、いや、うん」
「?」
「なんか、身体全部が痛くて、頭も痛くて気分も悪くて――――」
「うん」
「ぐらぐら、する・・・」
「何それ、二日酔い?」
「え?」
 アオイは、思いも寄らぬ言葉にきょとんとした瞳を向けた。
「昨日お酒飲んだんじゃないのか?ったくしょうがないなぁ。そんな事で甲板の掃除さぼれねーぜ」
「あっ、ごめん。忘れてた」
 忘れていたのはお酒を飲んだ行為じゃなくて、掃除のほう。けれどミヤはアオイの言葉を深くは考えなかった。二日酔い、と決め付けたのだ。
「ったく。ほら行くぜ!」
「う、うん」
 アオイは慌ててふらつく足を床に下ろして立ち上がった。そして涙を無造作に拭いて、ミヤの後に続いて部屋を出る。
 すると、廊下でデュークに出くわした。
「アオイ?」
 その顔色の無さにデュークも思わず声を掛けて腕を取って止まらせる。
「二日酔いらしいっす」
「お前、酒飲んだのか!?」
 アオイは思わず俯いて首を横に降る。飲んだ記憶は、自分には無かったから。
「頭痛くて気分が悪いそうです」
「・・・それは、二日酔いだなぁ」
「でょ」
「しかし顔色が悪すぎるぞ。大丈夫なのか?」
「頭、アオイに甘すぎます」
「・・・っ」
「あ、あの。僕へーきだから―――――っ」
 言葉に詰まったデュークにアオイは慌てて顔を上げて言い募って。不意に瞳が絡み合ってアオイの瞳が揺れた。
 泣く、そう思ったのはデュークだけではなかった。
「もう、行くからっ」
「あ、おい」
 アオイは焦ったようにデュークの腕から逃れ、ミヤをも抜かして甲板へ出た。ミヤの驚いた声も無視してそのまま出されていたモップを掴んで掃除にかかった。
 甲板は、あちこちに酒や食べ物をこぼした跡があって、アオイはムキになってゴシゴシと擦った。その背後、ミヤも掃除をしながら複雑な表情を浮かべチラチラとアオイに視線を向けた。
 なんとなく、デュークとの間に感じた違和感とアオイの態度が気になって。今頃になって本当に二日酔いだったのかも、疑問を持ち出していた。けれど、なんとなく気まずくて口を開くキッカケが見出せ無いでいた。
 結局二人はお互い口を開く事無く、黙々と甲板の掃除をして、甲板の掃除も8割がた終わった時になってようやくミヤが口を開いた。
「アオイ・・・」
「ん?」
 アオイはまだ掃除に神経を集中させていたので、返事には気が入っていなかった。
「――――頭と、なんかあった?」
 ビクっと、アオイの肩が不自然に動いた。
「何か、って?」
「わかんねーけど。なんか様子が変だしさ」
 ミヤはチラチラとアオイの背中に視線を送りながら言葉を投げかける。
「別に、何も、無い・・・」
 そう。それは間違いない。だって、何かあったわけじゃない。
「ふーん・・・・・・」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「・・・・・・あのさ」  沈黙に耐えかねたのは、アオイだった。
「ん?」
「ミヤには、・・・好きな人っている?」
「――――ああ、いるぜ」
「それって、どういうの?」
「ん?どういう、って?」
 質問の意味が分からないと、ミヤが首を傾げてアオイを見る。
 いつの間にか、ミヤの手もアオイの手も止まっていた。
「人を好きになるって、・・・その・・・どういう感じ、なの、かな?」
 遠慮がちな問いかけは、小さな声で聞き取りにくい。それでもちゃんと、ミヤまで届いた。
「そうだな。人を好きになるのは―――――嬉しくて、しんどくて、ドキドキしてイライラするな」
「?」
「その人と一緒に入れたら幸せで、気にかけて貰えたらそれだけでハッピーな気分になる。けど、その人が他の子を気にしてたり、他の子とばっかり仲良くしてたらイライラしてムカムカしてすっげー悲しくなる。すげぇ落ち込む。でも、優しい言葉一つで即浮上したりする」
「うん」
「その人の一喜一憂が気になって、嫌われないかビクビクして。いっそ嫌いになれたらどんなに楽だろうと思うのに、絶対そうはなれない。ただその人に、俺を好きになってもらいたくて、ただそれだけで、どうしようもないんだ」
 そう言うミヤの瞳は真っ直ぐで、真摯に輝いていた。その瞳があまりに綺麗にアオイには見えて羨ましくて、思わずきゅっと手を握り締めた。
「―――いいな・・・・・・」
「え?」
「誰かを好きになるって・・・さ」
 ――――羨ましい・・・
「何言ってんだよ?アオイは頭が好きなんだろう?」
「――――え・・・?」
 ―――――え?今、なんて言ったの?
「アオイが頭を好きなのなんか、みんなにバレバレだぜ?――――って、アオイ?」
 アオイの瞳が驚愕に見開かれた。
 ―――――僕が、デュークを、好き・・・?
 だって、僕はドキドキしたりしない。
 ただ嬉しかっただけ。嬉しくて、ちょっと幸せで。でも今は、涙しか出てこない。
「おい!なんで泣くんだよっ」
「だって・・・」
 だって、デュークの心の中には僕じゃない人が住んでて、僕がいない。
「痛い・・・」
 心臓が痛くて。
 頭ががんがんするだけ。
「どうしたんだよ。頭と喧嘩でもしてたのか!?」
 喧嘩?そんな事しない。
 ただ。
 デュークのこと考えると・・・・・・
「――――ああ・・・・・」
 そうか。
 そうだったんだ。
 これが。
 これが、好きって事なんだ?
「ミヤ・・・」
「・・・おう」
 そうなんだね。
 知らなかったのは、わかっていなかったのは、僕だけ。
「でも・・・」
 カランとモップが転がる音がした。
「アオイ!?」
 アオイはその場に立っていられなくて走り出した。
 ここは船の中。
 外は一面の海。
 どこにも逃げる場所なんて、無いのに。
 逃げ出したかった。
 だって。
 酷すぎる。
 やっと、やっと人を好きになった。
 生まれて初めて。
 それを自覚したのに。
 その人は、他の人が好きで。
 その人は死んでしまって。
 どうする事も出来ないなんて。
 気付いた瞬間、失恋も一緒だなんて。
 神様は酷すぎる。
 酷すぎる。
 8歳で両親を亡くして、やってきた後見人の叔父に監禁されて陵辱されて。
 自由も。
 外も。
 光もなくして9年を過ごした。
 やっと出たその先に。
 その先で会った人に恋をして。
 その恋は一瞬で終わるなんて。
 もう嫌だ。
 もう何もいらない。
 こんな事なら、あの闇の世界で心を壊せば良かった。
 必死で守らなければ良かった。
 外にはきっと良い事があるなんて。
 そんなの嘘だった。
 気付かなければ良かった。
 こんな気持ち、生まれなければ良かった。
 そうしたらこんな思いしないで良かった。

 行き着いた先は、船底の食糧庫の中。

「はは・・・」

 戻ってきたのが船底なんて。
 似合いすぎて。

 アオイはそのままその場にしゃがみ込んだ。

 抱えた膝に頭を埋めて、外の世界を拒絶するかの様に身体を丸めて目を瞑って。
 このまま闇に溶けてしまいたかった。














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