海の上の籠の中で 前編21
意識のどこか遠くで、音がした。 ――――なん、だろう・・・ アオイはゆっくりゆっくりと首を巡らせた。暗闇には随分と慣れた瞳が、ぼんやりと天井を映し出す。 いつの間にか身体は床に崩れ落ちて、横になっていた。食べ物の匂いと、篭った木々の匂いが鼻につく。 「――――っ」 また、ガタガタっと音が聞こえて、その音がどんどんと近づいてきた。それは分かるのに、アオイはどこか夢現な頭のまま、扉の方をぼーっと見ていた。 動くことも、逃げることも出来ない。 何か、指一本動かすのも億劫で。 考えること、さえも放棄していた。 「アオイ!?いた―――っ」 ――――あ・・・デュー・・・ク ガタっと間近で音が聞こえて扉が開いて、そこに現れたのはデュークだった。暗闇でアオイには分からなかったが、その顔は焦りに青ざめていた。 「アオイ!!」 いきなり腕が伸びてきて、床に横たえていた身体がぎゅっと抱かかえられた。 「どうしたんだ?気分でも悪くなったのか?」 搾り出す声が間近、耳元で聞こえてようやくアオイは自分がデュークの腕の中にいるのだと気付いた。 ――――あ・・・っ 反射的に身じろぎをして、腕の中から逃げようとしてしまう。けれどそれは非力すぎて、デュークには気付かなかった様だ。ただ、強く抱きしめてくる。 「こんな所でどうしたんだ?心配するだろう?」 ただ安心するように、させるように、アオイの肩に顔を埋める。その声が、あまりに優しく響いてアオイの胸を痛くする。 ――――ああそうか、これが好きって気持ちなんだ・・・ 涙が、また溢れた。 「ごめ・・・」 「アオイ?」 アオイは身体をよじって、腕を目一杯伸ばした。デュークの身体を引き剥がすように。今はまだ、腕の中にいるのが辛すぎた。 「ちょっと、なんか・・・うん・・・一人になりたい」 涙に震える声に、デュークは思いっきり顔を顰めた。 「アオイ?・・・一体どうしたんだ?」 デュークにすれば、アオイの様子は今朝からおかしかった。昨日まで、まったく普通だったにもかかわらず。 そしてデュークには、その理由が見当も付かない。 ただ、わけもわからず何か、遠く感じてしまうその存在がただ寂しい。 「なんでも、無い」 「アオイ」 「なんでも無いからっ。今は、一人がいい」 「・・・・・・」 「ごめんなさい」 顔は上げられなかった。その頭上、デュークが息を吐き出す音が聞こえて、腕がそっと離れていった。 「わかった」 デュークの声が、諦めともつかず苦かった。 けれど、アオイはやっぱり顔を上げる事はしなかった。出来なかった。ただ、遠ざかる温もりに唇を噛み締めて、閉じられた音と同時に涙で床を濡らした。 ――――どうして、僕じゃだめなんだろう。 デュークの心の中に住みついているのが自分なら良かった。 でも、そうじゃない。 全然違う。 たったそれだけの事が、こんなにも苦しくて悲しくて、身体が全部バラバラに引きちぎられるくらいに痛いなんて。 あの人は、好きって言ったけど、こんな風だったんだろうか? 嫌だと抵抗した身体を縛って、無理矢理に犯しながら囁いた言葉は、こんな想いで言った様には思えなかった。 "ユーリ、じっとしていなさい" あの人の身体を撫で回す手が、気持ち悪かった。 "嫌だっ!――――ヒィッ" "ああ、いい子にしていないから血が・・・可哀相に" 前戯もそこそこに無理矢理入れられて、裂かれて血が出たことも1度や2度では無かった。 "嫌だ、イヤ、そんなトコ舐めないでぇ!!触るな―――ぁっ!!" バシッ!! "ヒィッ!!" "悪い子には、お仕置きが必要だね?" 血で、ぬる付くソレを上下されて、笑顔でそう言われた事も何度もあった。あの顔も、仕草も、愛撫も何もかもがぞっとして気持ち悪くて嫌で、苦痛でしかなかった。 "イヤ・・・イヤだ、イヤァ――――――!!" それでも感じているんだと言われることが、わめき散らしたいくらいに嫌だった。自分が大嫌いだった。 「―――っ」 それでも泣き叫ぶしか、無かった。 でも、あの人も"好き"と、"愛しているんだ"と、何度も何度も囁いた。その言葉さえ、吐き気を憶えたけれど。 思い出しただけで、今も吐き気が込み上げるのに。 ―――――僕の、好き・・・と、何が違うんだろう・・・・・・ よく、わからないと思った。 もしかしたら、僕の好きも、あれと同じなんだろうか? こんなに苦しくて痛くて、どうしようもないほど切ない想いは、あれと同じで。 ああいう事、するんだろうか? あんなおぞましい苦痛の行為を。 する? される・・・? 「・・・・・・」 っていうか、デュークは他の人が好きなんだから、僕にしたりしないか。 じゃあ、僕がしなければ、ああいうのは無いのかな。 「・・・うん」 ああ、うん。 それなら、ちょっとはいいかも。 僕はデュークが好き。 でも、デュークは他の人が好きだから。 僕の好き、はもう終わった。 だから、あんな事も無いし何も無い。 うん。 誰ともしないですむし、誰にもされないですむ。 それはそれでいい、かな。 うん。 そうだよね。 もう、この"好き"は、捨ててしまおう。 それが1番、正しくて、楽な答えのはず。 間違ってない。 間違ってない、はずなのに。 「・・・っ、・・・ふっ・・・」 なんで、なんで涙がこんなにも止まらないんだろう。 なんでこんなにも悲しいんだろう。 なんでこんなに。 生きているのが、嫌になるんだろう―――――――― 「・・・ふぅっ、うっ・・・え・・・っ・・・・・・」 アオイは、声を必死でかみ殺して泣いた。 好きになる事もよくわからなくて。狂気に満ちた愛しか知らなくて。ただただ、戸惑いと苦痛と悲しみと、切なさに心を押し流されながら。 自分の身体をぎゅっと抱きしめてただ泣いた。 涙と一緒に、好きって気持ちも流れていけばいいと思う。 涙が枯れて、心も枯れてしまえばいいと。 いつしか、泣きつかれて意識を手放していた。 けれどそれも、僅かな時間だった。 泣きすぎて頭が痛くて、目も痛くて目が覚めて。アオイは機械的に起き上がった。 「・・・えー・・・っと」 一瞬記憶が曖昧になっていた。 考えないように、無意識に蓋をしたのかもしれない。いや、蓋をしようとしていた、というべきか。 アオイはそのまま扉に手を掛けて、そっとドアを開けた。 「――――っ!」 ――――・・・あ・・・ 「デュー・・・ク」 そこには、階段に腰掛けたデュークの姿があった。 「良かった。やっと出て来た」 デュークがアオイの姿を認めて、心底ホッとした様に笑った。 薄い扉1枚隔てたそこでは、アオイの泣き声も全部が聞こえていたのだろう。きっとイライラと足を揺すっていたのかもしれない。 「・・・ごめん」 「いや。・・・じゃあ、上に上がろうか?」 デュークの声が、心なしか遠慮がちで。 「ここは冷えるし。風邪をひく。な?」 まるで子供を言い含めるようなその物言いに、アオイはただ黙って頷くことしか出来なかった。 その時。 「うわぁ!!」 「アオイ!」 ガクンっと、船が急に大きく動いた。それに続いて、ドン!!と大きな音が聞こえた。 デュークは咄嗟にアオイに手を伸ばし、倒れかけたアオイの身体を抱きとめる。 「大丈夫か?」 「う、うん」 「何かあったらしい、アオイ悪いがこの中に逆戻りだ」 「えぇ!?」 デュークはアオイの身体を抱かかえるようにして食糧庫の中に入り、廊下から灯りを持って来る。 「いいか、中から鍵を掛けて、仲間の誰かが来るまで絶対開けるな。いいな」 デュークはそういうと慌てて踵を返した。その腕を、アオイが掴んだ。 「アオイ!?」 「―――っ」 アオイも何故その腕を掴んだのかわからなかった。ただ、無意識にそうしてしまったのだ。 心が、不安と恐怖に渦巻いていた。外では、また大きなドーンという音が聞こえる。 「アオイ!大丈夫だから。直ぐにナナもよこす。ナナと二人でじっと隠れていろ。いいな?」 「―――」 「アオイ!」 「死なないで。絶対、絶対・・・っ」 乾いたはずの、もう枯れたかと思っていた涙がまた込み上げて来た。 やっぱり、どうしようもないほど、好き。 こんな時に、想う。 だから―――――― 「ばか。大丈夫だ」 涙に濡れた、真摯な瞳に向かってデュークは余裕に笑みを浮かべた。 「俺は、そう簡単には死なねーよ」 「――――!!!」 唇が。 デュークの唇が、アオイの目尻に触れて。 涙を舐め取られた。 「じゃぁな。静かにじっとしてろよ!」 デュークはそういうと、固まっているアオイの頭をぽんぽんと撫でてから食糧庫を出て行った。その足音が遠ざかってもアオイは動けなかった。 ―――――今の・・・今のって・・・・・・・・・・・・ 今度はまた違う足音が近づいてきたのに。意識が現実に戻って来ない。 焼け付いたように、唇の触れた部分が熱い。 「アオイ!?」 やってきたのはナナだった。 「・・・あ・・・」 「何してるの?」 ナナは開けっ放しに扉に驚いて、慌てて閉めて鍵を掛けた。階段の明かりももう消してある。 実はこの食糧庫へ降りるために階段の入り口には隠し扉もあるのだ。普段は必要ないので開けたままにしてあるが、今、上の廊下から見ればそこには壁があるように見えているはずだ。 それでも、ドアを開け放しておいていいわけがない。 「どうしたの?大丈夫?」 ナナはアオイに近寄って、小声で声をかけながらその身体を揺すった。 「・・・う、ん・・・」 「アオイ?」 アオイの手が上がって、自分の目尻に触れる。 ――――何、この感覚・・・・・・ 唇が触れたと分かった瞬間、心臓が身体から飛び出して地球を1周回って戻って来たくらいの衝撃があった。 背中が、ゾクってして。 膝が、ガクガクした。 「こんな、の・・・」 ――――こんなの、知らない・・・・・・ 「アオイ?」 名前を呼ばれてアオイはやっとナナに視線を向けた瞬間。 「アオイ!?」 アオイは腰が抜けて、その場にへたり込んでしまった。 |