海の上の籠の中で 前編23





 ――――あ・・・・・・
 額に、冷たい感触を感じて、意識が暗闇の底から急速に浮上した。すると、そっと触れる指先を、頬に感じた。
 この、指先を知っている、と思った。
「・・・・・・ん・・・」
 薄く開けた瞳から、光が射した。その光が眩しすぎて、思わず眉を顰める。
「アオイ?」
「・・・デュー、ク」
 かろうじて開いた口から出たのは、かすれた声だった。喉が渇いて、干からびて張り付いている感じがする。
「水、飲むか?」
「ん」
 心配そうな顔のデューク。
 その顔を見つめると、何故だか心臓が握りつぶされる様に痛くなった。
 グラスを手にしたデュークを見てアオイは僅かに身体を起こそうと身じろぐと、デュークは手にしたグラスの水を自分の口に含んだ。
 ――――え・・・
 そのままデュークの腕がアオイを捉え、顎に手を掛けられて上を向かされた。
 拒否する間も、抗う準備も出来なかった。
「―――っ、・・・はぁ・・・、ん・・・・・・」
 塞がれた唇から、直接水が流れ込んでくる。
 飲み下すのに失敗した水が、口の端からこぼれて喉を伝い落ちた。
 触れている腕の部分が燃えるように熱くて、重なり合う唇は想像を絶するほどに気持ち良かった。
 ―――――こんなの・・・知らない・・・・・・・・・
「もうちょっと?」
 ―――――こんな優しくて、気持ちいいキスは・・・・・・・・・
「ん・・・」
 水が欲しかったわけじゃなかった。ただ、デュークの唇が欲しかった。
 再び重なる唇。
 思わずデュークの腕に手を掛けて、離れていく唇に追いすがろうとした。これは、キスなんかじゃないのに。
「大丈夫、か?」
「うん・・・、・・・、僕?」
「甲板でいきなり倒れたんだ。憶えてないか?」
 僅かに浮き上がっていた身体を、再びゆっくりベッドに沈められながら問われる言葉に、アオイは眉を寄せた。
「ごめん、・・・また、迷惑かけた」
 ――――そうだった。思い出した。
「ばか、迷惑なんて言ってないだろう」
「へへ・・・」
 ――――・・・・・・見つかっちゃった、んだ、・・・・・・
「でも、どうしたんだ?気分でも悪かったのか?」
 心配そうなデュークの声が耳に心地良かった。額にかかる髪を撫で上げるゆるやかな手の動きも何もかもが嬉しかった。
「ナナに聞いたら、直前まで普通だったって言うし」
「ちょっと、なんていうの。心配しすぎて、安心しちゃったのかな」
「ばかだな、俺らがあんなのにやられるわけ無いだろう」
「うん」
 優しくされるのが、辛いって事もあるんだね。
「ねぇ、あの船はなんだったの?」
 知らなかった。
「よくわからん。いきなり姿を現して仕掛けてきたくせに、船を寄せるでもない。ただこっちを観察してるって感じだったなぁ。胸くそ悪いから大砲ぶっ飛ばしてやったら慌てて逃げて行ったけど」
 デュークは肩をすくめた。
 しかし、アオイはそれどころではなかった。
「・・・っ・・・」
 ―――――もしかして・・・
「アオイ?どうした?」
 突然顔色を失ったアオイにデュークが慌てた。
 ――――僕を、探しに・・・・・・
「アオイ!?」
 わけのわからないデュークは腰を浮かせて、ヒデローを呼びに行こうかと扉の方へ視線を向ける。そのデュークにアオイが腕を伸ばしてしがみ付いた。
「・・・っ願い、ここにいて」
 不安で怖くて、押しつぶされそうになるから。
 今はただ、抱きしめていて欲しい。
 ――――間違いない。
 彼は、あの時襲われた海賊船を調べて、探しに来たに違いない。あの人なら、やりかねないと思う。
 自分で言うのもなんだけど、あの人の執着ぶりは異常に思えたから。そしてそれだけの力が、あるらしいから。
「アオイ」
 デュークがベッドに腰を下ろして震えるアオイを抱きかかえた。
 デュークの声が、言いようの無い焦燥に駆られていたことに気づく余裕がアオイには無かった。
「何があるんだ?」
 真摯に問われて、思わず目線を向けると切なさに狂おしい瞳とぶつかった。その瞳を見つめて、アオイがぐにゃっと顔を歪めた。
 ――――言えない・・・・・・
「話してくれないか?」
 デュークは、アオイの言葉を待っていた。
 何を抱え、何に苦しんでいるのか、全部吐き出して助けてくれと言ってくれれば、それを理由にその手を取ってもいいんじゃないか、卑怯にもそれを理由にしようとした。
 失くしたものが大きすぎて、一歩を踏み出すことに怯えた時間が長すぎて。何か、が無ければデュークも前へ進めないでいた。
 けれど。
 アオイは無言で首を横に振った。
「なんでも、無いんだ・・・」
 青ざめた顔で笑って、その頭をデュークの胸に預けた。
「アオイ・・・」
 もう一言が言えなくて、デュークはただ強くアオイを抱きしめた。
 俺が守ってやる――――そう言うには、デュークの傷が大き過ぎて。
 僕を守って―――――というには、アオイは純粋過ぎた。
 アオイはその温もりと強さを感じながら、そっと瞼を閉じた。
 これ以上迷惑を掛けたくないから。
 好きだから。
 愛したから。
 かけがえの無い人で。
 かけがえの無い想いをくれた人だから。

 だから。

 ―――――巻き込めない・・・・・・

 これは、僕だけの、問題だから。
 僕だけの、運命だから――――――――――――――――だからもうそんな顔しないで。





・・・・・・





 アオイが眠りに落ちて、どれくらいの時間がたっただろうか。
 デュークは今もアオイの傍らに座っていた。その瞳は狂おしい嵐に揺れて、握り締めた手は苛立ちに震えていた。
 唇は、ぎゅっと堅く結ばれている。
「入るぞ」
 声に、僅かにピクっと額が動いた。
「アオイはまだ目覚めねーのか?」
「いや、一度目が覚めたんだが・・・・・・」
「そうか」
 デュークはヒデローに目を向ける事も無く、ただアオイを見つめていた。
「なんで倒れたか、わかったか?」
「いや、――――何も話してはくれなかった」
「そうか」
 アオイは相変わらず、顔色があまり良くなかった。
「言わねーのか?」
「・・・・・・」
「もうバレバレだぜ?今更違うとか言うなよ。殴るぞ」
「ああ、言うつもりは無い。だが・・・・・・」
「あぁ?」
「――――正直、自信が無い・・・っ!!」
 言い終わるかどうかと言うタイミングで、ヒデローの手がデュークの胸倉を無理矢理掴んだ。
「・・・くっ・・・」
「自信?ふざけた事ぬかしてんじゃねーよ。自信ってなんだよ?」
 滅多にないヒデローの怒りに満ちた真っ直ぐな声だった。
 腕の強さに喉が締まって、デュークの顔が歪む。
「おめーにねーのは自信じゃなくて、決心だろ?死んだあいつに悪い。守れなった自分が悪い。そればっかりだ。後悔じゃねー、自分の弱さを認めるのが怖ぇだけだろうが!」
 これにはデュークも思わずヒデローを睨みつけた。だが、ヒデローの方も怯まない。
「また、同じことになったら怖い。だから逃げてるだけだ。死んだやつに拘って何になる。冷てーけどな、死んだやつを幸せにしてやる事はもう出来ねーんだよ。なら、今生きて苦しんでるやつを幸せにしてやれよ!愛してんだろうが、おめーが!!」
「――――」
「ミドリには、おめーがジジイになって死んだ時、あの世で謝れよ。あいつが怒ったら、俺も一緒に謝ってやるさ。だから―――――今は、お前も幸せになれ」
「ヒデロー・・・」
 ヒデローは乱暴にデュークから手を離した。
 そのままヒデローは怒ったように部屋を出て行った。実際は怒りと照れが半々なのは、長い付き合いのデュークには、痛いほど分かっていた。
 ヒデローの想いが、真っ直ぐに胸にガツンと拳を入れてきた。
「――――情けねぇ、な」
 "幸せになれ。"
 そう言ってくれた言葉に、不覚にも熱いものが込み上げてきた。
 自分の事で手一杯で、余計なお節介は止めてくれと思っていたが、そうか。そんな風に思っていてくれたんだなと、改めて思った。
 ミドリを亡くして、船を降りて解散すると決めたとき、他の連中は他の船へと流れていった。けれど、ケイトとヒデローだけは一緒に降りてくれた。
 おめーの次の船に乗りてーからな、ヒデローはそう言った。ケイトも無言でその言葉に同意した。
「・・・っ・・・」
 あの時も、一人で立ってるんじゃない、支えられて立っているんだと思ったのに。
 忘れていたのかもしれない。
 長い日々の中で、一人で苦しんでいる気になっていた。
「――――そうだな、ヒデロー・・・」
 ――――俺は、ただ怖かっただけだったんだな・・・・・・











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