海の上の籠の中で 前編25
―――――はぁ・・・ 扉の前で、アオイは大きく深呼吸をして緊張で震える身体に喝を入れた。 ――――よし!! 「デューク、ご飯だって―――っ!!」 勢いよく扉を開けてみると、デュークは上半身裸でタオルで汗を拭いていた。 「ああ、もうそんな時間か」 ゴクっと思わず喉が鳴った。 「・・・何、してたの?」 「ついさっきまでミヤと剣の稽古をな」 「そう、だったんだ」 ――――っていうか、心臓に悪いよっ。 目の前には鍛え上げられたたくましい身体が、惜しげもなく晒されている。スーッと通った背中の窪み、ガッチリとした肩幅。力強い腕。 アオイは思わず、息を詰めた。 触れたい。 そう思う。 触れれるはずは、無いのに。 心臓が、ドキドキとうるさい音を立てて唸り出す。 あの人の身体に触れたいなんて、一度たりとも思ったことが無いのに。 デュークは何もかもが特別だと知る。 「あ・・・、それ、着るの?」 傍らにある衣服。 「ああ」 シャツタイプの、それ。 アオイは僅かに緊張で震える指を叱咤激励しながら伸ばし、衣服を掴みあげた。 「手伝う」 「悪いな」 デュークはふっと笑うと、手にしたタオルを横に置いて手を上げた。その腕にシャツの袖を通してそっと衣服を着せてく。 ――――・・・っ その拍子に、指先が背中に触れてドキっと胸が高鳴った。 ――――しがみ付きたいっ それは抑えがたい強い衝動だった。 このままこの背中にしがみ付いて、なりふり構わず叫びたい。 好きだと。 愛しているのだと。 そして全てを吐き出してしまいたい。 怖いこと。 不安なこと。 心細いこと。 ずっと寂しかったこと。 どれだけ孤独だったかってこと。 助けて欲しいと思ってること。 どれだけここにいたいと思ってるか。 ここにいられて、どれだけ嬉しかったか。 言葉に出来ないくらい、ここが好きってこと。 本当に本当に好きで。 そして自分の今までの苦痛も苦難も、何もかも。 過去も全てあらいざらい。 「アオイ?」 「っ、なに?」 呼ばれてハッと気付いたら、デュークは既に衣服を着てアオイの方を向いていた。 「どうした?」 ――――でも、言えない。 「ううん、ごめん。ちょっとボーっとした」 ――――そんな事出来るはずが無い。 「大丈夫か?」 心配そうな声と一緒に、デュークの指がアオイの頬に触れる。そのまま指を滑らせて、顎に指をかけて上を向かせた。 「何か心配事があるなら、言ってくれ」 その言葉に、心が揺れる。 継ぎはぎだらけで必死に作った心の防波堤が、ぎしぎし音をたててあふれ出そうとしている。けれど、言えない。 「やだな。そんなの無いよ」 アオイはにっこり笑顔を浮かべた。 ―――――だって、何より好きな大好きな人を、巻き込みたくない。 大切な人を亡くして傷ついている心。その心をさらに乱したくないよ。 「そうか?」 それに、全部を知ったら。デュークはなんて思うのだろう。 「うん」 血の繋がった叔父に、汚された身体。 「それなら、いいが・・・」 10歳に満たない時から、それを強いられていた事を。 軽蔑、されるんだろうか? 「それよりご飯!僕はもうお腹減りまくりなんだ!」 アオイはそういうと、パッと身を翻してデュークから身体を離した。 「早くっ」 アオイはそういうと扉を開けてデュークをせかす。 廊下に出て、扉の陰に入ってデュークからの視線を避けて、アオイは込み上げる涙を抑えて、震える身体から息を吐いた。 ―――――最後なんだから、笑っていよう。 「わかった」 デュークは、諦めたように笑みを浮かべるしか出来なかった。 無理矢理にでも聞き出せばいいものを。 デュークにはまだ、たくさんの時間があると思っていたから。これから少しずつ、そう思ってしまった。 自分自身のけじめをつけてから、アオイと100%向き合えるようにしてから、それから全てを受け止めようと。 もし、この時その身体をベッドに押し付けて、心の内を全部言うまで離さないと抱きしめる事が出来たなら。 二人の未来は、また違ったのかもしれないけれど。 今はまだ、デュークなりのけじめがついていなくて出来なかった。 アオイもまた、一歩も動けないでいた。 今までの人生という見えない糸が、二人の身体をがんじがらめに固めて、身動きを出来なくしていたのだ――――― ダイニングへ行くと、もう全員が揃っていた。 「遅い」 ミヤの待ちわびた声にトウヤが嗜める。 「ごめん」 「悪かった。着替えに手間取った」 「ささ、食べようぜ」 ヒデローが早速ワインの注がれたグラスを掲げる。 「ああ」 「んじゃあ、今日もお疲れ様!」 ミヤが声を上げる。 「ミヤ」 今度はケイトの嗜める声に、デュークはかまわないと笑って首を振って、ガチンとグラスがぶつかり合う。 早速料理にがっつくミヤと、上品に口に運ぶケイト。ヒデローはグイっとグラスを飲み干して、ナナはパスタを上手にフォークに絡めて口に運んだ。トウヤは自分の料理に軽く頷きながら口に運び、デュークは魚を切り分けて食べた。どうやら酒は控えているようだ。 その理由が、今は悪酔いしそうだから、だとはアオイは知らない。 酔った勢いで理性が飛ぶのが怖いと思っている事など、なお更。 アオイは、そんなみんなの様子を眺めながら、ゆっくりとパスタを口に運んだ。大切に宝物を口に運ぶように、ゆっくりと食べた。 こうやって、夕飯をここで囲むのも、もうこれが最後だ。 アオイの心は、決まっていた。 ・・・・・ 翌日午後、着いた港はナナの住んでいた港よりもまだこじんまりとした町だった。 その港のはずれに船を止めて、今回船番はナナとケイトという事になって残りの5人は船を降りた。そのまま海岸線に近い宿に入る。そこもいつも利用する宿だった。 「いらっしゃい」 こちらはナナの働いていた宿の女将よりは随分年配に見えた。その分、物腰も落ち着いている。 「また、世話になります」 「ああ。部屋は上のを好きに使うといいよ」 「ありがとうございます」 女将は1階の受付から動こうともしないで言うが、デューク達も慣れたものだった。ぺこりと頭を下げて2階へと上がっていった。 そのすれ違い際、女将はアオイとナナを目に止めてフッとその瞳を細めた。 部屋は2階にツイン2室シングル1室。3階にツイン1室シングル1室という、本当に小さな宿屋。アオイとデューク、トウヤとミヤが2階のツインに入り、ヒデローがシングルへと入った。アオイとデュークは3階のツイン。 「3階まで来ると、見晴らしがいいね」 アオイは早速窓を開けて、外を眺めた。この港は、後ろが直ぐ山になっている入り組んだ地形にあった。 その山をアオイは見つめる。 「・・・あれ、何?」 アオイは山を指差してデュークに尋ねた。山の中腹辺りに、白い建物が見えたのだ。 「―――教会だ」 デュークは外を見る事無く、小さく答えた。 「教会?」 その声と態度に違和感を憶えて、アオイはデュークを振り返る。そのデュークの横顔が、どこか憂いを帯びていた。 ――――なんだろ・・・ 「ちょっと、出てくる」 「僕もっ、・・・僕も一緒に行っていい?」 アオイは腰を降ろしていたベッドから慌てて立ち上がった。 今は1分も1秒も、離れていたくは無かった。後数十時間しか残されていないのだから。 「・・・・・・」 「お願い」 何故か迷う素振りを見せるデュークの腕を、アオイが取って見つめる。その瞳が繋がりあって、フッとデュークが目を細めて笑った。 「そんな顔されたら、ダメとは言えないな」 ――――って、どんな顔? アオイはわからないと首をかしげた。ただ自分は、必死なだけだったから。 「いいよ、おいで」 「うんっ」 まるで捨てられる寸前の子犬の縋る様な顔から、一瞬にして満面の笑みが広がった。そしてデュークの腕にしがみ付いた。 「おい」 「いーじゃん。今だけ。ね?」 ――――今、だけ。腕を組んで、歩いて。 「しょうがないな」 優しいデュークの笑顔。 それを焼き付けておこうと、アオイは思った。 腕の温もりを覚えておこうと、思った。 デュークは外をぶらりと歩こうと二人はそのまま部屋をで、1階まで降りる。宿の扉に手を掛けたとき、女将が姿を現した。 「ああ、ちょっとお待ち」 「?」 「あんたにコレ預かってるよ」 そう言って差し出したのは、茶色い封筒。 「これは・・・」 そこに押されている印は、ダール爺さんの印。 デュークは礼を言って受け取って、さっそく封を開けた。 「・・・なに?」 「いや、――――これは、全員一緒の時に話そう」 デュークはそういうと、その封筒を大切そうに懐に仕舞いこんで、もう1度女将に礼を告げてから外へ出た。 石畳をゆっくりと歩く。 少し奥へ進んでいくと、一番の通りらしい賑わいのある場所に出た。そこには、魚屋、野菜屋、花屋から牛乳売り、酒売りから菓子売りなどが店を並べる。 アオイは盛られている林檎を何気なく手に取った。綺麗なつやが目に止まったからだった。 「欲しいのか?」 「え?」 「これを貰おう」 「へい毎度」 デュークはアオイの返事も待たずに、袋に林檎を貰う。それをそのままアオイに渡せば、アオイに鼻腔を甘い香りがくすぐった。 「今食べるか?」 「ううん、後にする。ありがと」 にっこり笑った顔とは裏腹に、アオイの林檎の入った袋を握る手が震えていた。 優しさが、辛すぎて。 甘い香りが、悲しかった。 アオイはもたれかかるようにデュークの腕にしがみ付いた。まるで恋人に甘える様に。それを、八百屋の店主は意味深な瞳を向けた。 「アオイ、重いぞ」 デュークは何故か、さり気なくアオイのその仕草を止めさせる。 「・・・ごめん」 ―――――もう、最後なのに・・・・・・ デュークはそれを知らないのだから仕方が無いのだが、アオイは言いようのない寂しさと悲しみに包まれた。 「いや・・・」 デュークの戸惑ったような声。 ふと周りを見回せば、アオイとデュークに視線を向けているのは八百屋の店主だけでなかった。アオイは、気付かなかったけれど。 そのままアオイは何も言えず、二人はただ黙って歩いた。喧騒から遠ざかり、石畳に二人の足音が響く。 「・・・教会」 顔を上げると、山が目の前だった。 「もう、戻ろう」 「教会まで、行ってみよーよ?」 引き返そうとするデュークの足を、アオイが止める。けれど、デュークは静かに首を振った。 「教会には、明日行く」 「明日?」 「ああ」 「明日じゃないと、ダメ?」 「今日はもう遅いからな」 「行って帰るだけ。それならいいでしょう?」 「アオイ」 「――――っ」 「教会には、明日、俺一人で行ってくる」 ――――え・・・・・・一人? 「どういう・・・」 デュークの喉がゴクっと鳴った。 「あそこには、墓があるんだ」 「お、墓・・・」 真っ直ぐ射抜くようなデュークの視線だった。 ―――――それって・・・・・・ 「ああ――――だから・・・」 「そっか!うん、わかった」 何かを言いかけたデュークの言葉を、アオイは笑って遮った。その先を、聞きたくなかった。お前は連れて行けない、そう言われたくなった。 デュークが言おうとしていた言葉は、そんな言葉じゃなかったのに・・・・・・・・・ 「我がまま、言って・・・ごめん」 ――――あそこには、デュークの大切な人のお墓があるんだ。 「いや」 無意識に、涙が頬を流れ落ちた。 「アオイ?」 「我がまま言って、怒った?」 涙が止められなくて、涙の理由をそんな風に誤魔化した。 「まさかっ。そんな事で怒るはずないだろう?アオイ、そうじゃない・・・っ」 「なら!・・・、良かった」 涙がぼたぼた零れ落ちた。 ―――――叶わない、よね。 「ばかっ」 焦った声でそう言って、デュークはアオイをぎゅっと抱きしめた。それこそ、力強く、激しく。攫うように。 周りの視線にバツが悪くて、腕を自分から振りほどいたくせに。アオイの涙を見ただけでそんな事はどうでもよくなっていた。 それほどに、もうアオイしか見えてない。 「泣くな・・・」 デュークはアオイに泣いて欲しく無かった。 ―――――そうじゃないんだ。 明日、一人で墓に参って俺なりのけじめをつけてくるから。だから後1日だけ待ってくれ。 デュークは心の中で、アオイにそう叫んでいた。だから、泣いてくれるなと。 けれどアオイはその手を、デュークの背中に回す事は無かった。 アオイにはデュークの言葉が、お前の気持ちには答えられないと、そう言っているようにしか聞こえなかったのだから。 |