海の上の籠の中で 前編28





 どれくらい山を登ってきただろうか。まだ日は全然高いから時間はさしてたっていないはずなのに、運動不足の足が、すでに悲鳴を上げていた。
 8歳からの9年間、アオイが外で遊んだりスポーツをしたりする事はまったくなかったのだから、身体が鍛えられているはずが無いのだ。
 その足でいきなりの山登りが耐えられるはずが無かった。その上にこの日差しだ。
「・・・痛い」
 水さえも持たずに出てしまったのもまずかった。喉が渇いて、苦しくなってきた。どうにも足元がおぼつかなくなり、ふらふらとした足取りになった。それは、そのうち転げ落ちるんじゃないかと危ぶむような足取り。
 そのアオイの背後から馬車の音が近づいてきて、横を通り過ぎて―――止まった。
「・・・?」
「おい、坊主。大丈夫か?」
 それは、荷台になにやら荷物をたくさん乗せた馬車で、そこから降りてきたのは人の良さそうなおじさんだった。
「え・・・」
「お前さん・・・、もしかしてそのままこの山越えようと思ってるわけじゃないよな」
「いえ、そのつもりだけど・・・」
 山を越えるって言うか、ここから出来るだけ遠くへ行こうとしてるんだけど。
「おいおい、冗談だろう?そんな格好でその足取りで・・・山を越えられるはずが無いだろう」
「・・・・・・」
 おじさんの言葉にアオイの眉が情けなく垂れ下がる。そう言われても今更引き返せないのだ。たとえ、この山の中で野垂れ死にしても。
 そう、別にそれでも、構わない。
「隣町に行きたいのか?」
「はい」
 嘘も方便。
「なら荷台に乗っていけ。わしもそうだから、乗せていってやる」
「いいの?」
「ああ構わん。わしは荷物を町から町に届けるのが仕事だ。荷物が急に一つくらい増えたところで問題ないわ」
 かっかっか、と豪快に笑うおじさんにアオイはありがとう!!と満面の笑みを浮かべて頭を下げた。
 そうと決まれば、手早く荷台の荷物を整理してアオイの座れる場所を確保して。馬車はまた進みだした。馬一頭の足取りはさして早いものではないが、それでもアオイの足よりは数段に早く、確実に前へ進む。
 さらに楽だ。
 アオイは、目の前の景色に目をやる余裕が出来た。
 それは青々と茂る木々の風景。香り。それが、目の前を順々に過ぎ去って、木々の間から僅かばかり見える、今いた町が小さくなっていった。
 豆粒のように見える、船。
「・・・さよなら・・・」
 声に出したら、涙も一緒に流れ落ちた。
 本当に僅かしかいられなかったあの場所で、どれだけの幸せと楽しさを貰っただろう。それはきっと、一生分をもう貰ってしまったんだろうと思う。
「・・・ふっ・・・」
 ズキっと心臓が、痛んだ。
 ぎしぎしと悲鳴を上げて、荒れ狂っている。
 寂しくて。
 不安で。
 孤独で。
 押しつぶされそうになった。
 ここがどこかも知らない。一人で生きていく術も当然知らない。
 何より。
 大切なものを失ってしまった。
 涙でぼやける視界から、いつの間にか町も見えなくなった。木々が茂り完全に森に入ってしまった。
「夕刻には着くからな」
「っ、はい!」
 涙に濡れた声で慌てて返事をしたが、おじさんは気付かなかったらし。振り返る事はしなかった。
 馬車の荷台は、がたがた揺れる。
 アオイはそっと瞳を閉じた。
 寝られるわけはなかったけれど、荷物に頭をもたれさせて風の音を聞いていた。
 木々の揺れる音を聞いていた。
 毎日聞いていた波の音はもう聞こえない。
 船が時折立てる、ギシっとした音も聞こえない。
 塩の香りもしない。
 うるさいしゃべり声も。
 明るい笑い声も。
 酒臭い匂いも。
 もう、何もかもしない。
 ああ。
 もう、捨ててしまおう。
 手に入らないものを望んでも仕方が無い。
 未来も過去も何もかも。
 もう、どうでもいい。
 もう。
 壊れてしまおう。
 もう。
 諦めてしまおう。
 もう。
 憧れるのは止めよう。
 夢を見るのは止めよう。
 僕には。
 過ぎた望みだったのだ。

 それでも僅か。
 神様は夢をくれた。

 僕にはもう、それだけでいい。




・・・・・





「おじさん、ありがとう」
 馬車はおじさんの言葉どおり、夕刻に隣町についた。そこは、山間のやはり小さな町だった。それでも、旅の合間の休憩にはちょうどいい場所になっているのか。
 随分人通りの多い賑わいのある感じだった。
「いや。しかしお前さんここで当てはあるのか?」
「うん、大丈夫。本当にありがとう」
 アオイは張り付いたような笑みを浮かべてぺこっと頭を下げた。その時、右手に抱えていた袋がガサっと音を立てた。
 ――――あ・・・
「おじさん。お礼にりんご、食べて」
 アオイはそういうと袋の中から林檎を二つとりだしておじさんに手渡した。
「おう、ありがとう。明日の道中にでも食べさせてもらうよ」
「うん。じゃあね」
「ああ。お前さんも気をつけてな」
「おじさんも!」
 アオイは街中に向かって足を向けながら、世話になったおじさんに大きく手を振った。
 そのまま人ごみにアオイの身体が消える。笑顔はもう、浮かんではいなかった。それどころか、表情すらも失くしていた。
 夕刻という時間からか、町にはところどころ灯りも灯りだして。今から酒場にでも向うつもりなのか、男の姿が目に付く。それに混じって、旅姿のまま宿を探す姿もある。
 その人の波を、アオイの足が器用に避けて進んでいった。
 ――――・・・ん?
 風が吹きぬけた拍子に、懐かしい香りを感じた。
「・・・塩の・・・」
 アオイの足が、速くなる。
 肩を人にぶつけて後ろで怒鳴る声が聞こえたが、気にしてはいられなかった。
 アオイはただ、何かに取り付かれたように前へ進み。いつしか早足から駆け足になっていた。
 ――――間違いない・・・
 緩い下り坂を転げるように駆け下りた。
 心臓が、ドキドキと高鳴った。
「あ・・・」
 やっと町並みを抜け、視界が開けた。
「――――海・・・」
 そこには港ではなく。
「海だ・・・っ」
 砂浜の広がる海だった。
 アオイたちがいた港から山一つ超えたところにあったのは、小さな入り江の砂浜だった。ここは遠浅のため、港には向かなかったのだろう。
 アオイの足が、砂浜に降り立った。
 目の前には、夕日を浴びてキラキラと光る水面が広がる。それは昨日見たのを同じ光景。
 きゅっと音をたてて足が砂を踏みしめる。
 アオイはただ海を見つめて、呆然と足を一歩一歩と前へ進ませた。
「―――っ」
 足に波が押し寄せて、靴を濡らした。
 ――――冷たい・・・・・・
 アオイの腕から紙袋が音を立てて落ちて、林檎がころころと転がった。その一つが波に攫われて沖の方へ流れていく。
「あ・・・っ」
 ――――デューク・・・・・・
 咄嗟に踏み出した足は、半分ほど水に浸かった。けれど、アオイの瞳には海と、林檎しか映っていない。
 その先にある、デュークの姿しか。
 アオイの足がまた一歩、前へ踏み出した。ザバンっと波がアオイに当たって跳ね返る。
「海・・・」
 またアオイは進む。
 デュークに繋がる、海に向って。
 林檎はまだもう少し先で、波に揺れている。
 アオイは指を伸ばしてまた一歩進む。
 腰まで海に浸かっている。
 危ないとか、引き返さなきゃとか、そんな思いは浮かばなかった。
 ただ、その林檎を手の中に、取り戻したかった。
「デューク・・・」
 波が胸にかかる。
 死が、間近に迫っている危機感は無かった。
 ただ必死で、林檎に手を伸ばす。
「好き、だったよぉ・・・」
 言葉を発した拍子に、塩辛さが口の中に充満して。
 肩まで海に浸かった。
 飛沫が瞳に当たって、痛みにその瞳を閉じた。
「―――っ!!!」
 波に、身体が攫われた。
 ゴボっと変な音がして。
 身体が海に包まれて、目の前が水の世界に染まる。
 ――――デューク・・・
 僅かに開けた瞳に、水面の林檎が一瞬見えた。
 そして、キラキラ光る水面。

 ああ。



 後は、闇の世界に染まった――――――――――












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