海の上の籠の中で 前編5





 その夜。デュークがベッドの端に腰をかけると、ギシっとベッドが音を立てた。
「大丈夫か?」
 顔を枕に埋めてベッドに横たわるアオイが、どことなくぐったりとして見えて声をかけた。
 その声に反応して顔を上げてデュークを見上げたその顔は、想像通り見るからに疲れた顔をしていた。
「え?」
 けれど、本人にはその自覚が無いらしい。言葉の意味がよく分からないと、きょとんとした顔をデュークに向けた。
「身体、疲れてないかと思ってな。腕とか、筋肉痛になるかもしれない」
「かな」
 そう言われて、アオイはごろんと仰向けになって腕の天井に向けて伸ばしてみた。なるほど、確かにと少し、腕の筋肉がキシキシしているような気もする。ああ、肩の筋肉も少しするかもしれない。
「痛いか?」
「んーん、へーきっぽい」
 眉を僅かに顰めたから聞いてみるが、アオイの口からは平気という言葉が出た。痛くは、ないから大丈夫、と。
「なら良いが。明日も素振りはするんだしな」
「えぇ!?明日もするの?」
 アオイはその言葉に思わず瞳を大きく見開いてデュークを見た。そんなに大きく見開くと、目玉だけが転げ落ちてしまいそうに見える。
「当然だろう?毎日やらなければ意味が無い」
 そんな顔のアオイに、当然という顔でデュークは言う。1日でも早く、もうちょっとなんとか様になるようにしなければいけないのだ。今のままでは、間違いなく敵に殺されて終わってしまう。
「―――あ、ほら、僕今日親指怪我して!」
 けれどアオイはどうやら剣を持つという行為が苦手らしい。へらっと愛想笑いを浮かべてデュークの前に親指を突き出した。
「剣とか握れないと思うなぁー」
「包丁で掠ったくらいでそんな事言ってると、海賊にはなれないぞ」
「・・・えぇ!?」
「いいのか?」
 裏返った声に、意地悪い笑みを浮かべてデュークが言う。
「・・・そうしたらこの船にもいられない?」
「ああ。ここは海賊船だからなぁ」
「うう・・・っ」
 当然と頷くデュークに、アオイの眉が情けなぁく垂れ下がって縋るように見つめる。まるで、叱られた子犬の様だ。
「嫌なら、ちゃんと練習しないとな」
「ううー・・・」
 アオイは情けない顔をしたまま再びうつ伏せになって顔を枕に埋めた。どうやら観念したらしい。その様子に思わず笑みを零しながら、デュークも身体をベッドの上へと乗せる。
 ギシっと先ほどより大きな音がして、思わず、アオイの身体がピクっと反応した。僅かばかり、アオイの身体に緊張が走ったのがデュークの目にもわかった。
 ――――・・・なんだか、なぁー・・・
 デュークはそれを視界の中に捕らえ一瞬口を開きかけたのだが、僅かな時間の躊躇いの後、当初とは違う言葉を紡ぎだした。
「腕、揉んでやろうか?明日剣が持てないと言わない様に」
 笑いを含めて、冗談めかして。アオイの反応には気付かなかった風を装った。その上でアオイの反応を見ようとしたのだ。
「いーよ」
 アオイは、デュークの言い方に安心したのか普通の言葉を返した。けれどやはり、その身体からは僅かな緊張が見て取れた。
「明日筋肉痛になっても知らないぞ」
 今度は僅かばかりアオイの方へ身体を寄せた。
「へーき。どんどん強くなって、デュークも追い越してやるんだからっ」
 途端にアオイの顔に緊張が走ったのがはっきりと分かった。それでもそれを誤魔化したいのか、デュークに向けてイィーっと歯を剥いておどけて見せた。
「そう願いたいもんだ」
 デュークはこれが限界かと身体を元に戻し、朗らかな笑い声をたてて、サイドテーブルに置かれた酒に手を伸ばした。これも、あの豪華客船から奪った最高級品のウィスキー。
 それを、口に含んで喉に流し込んだ。流石に最高級品とあって、その味のまろやかで深い味わいと言ったらない。それをコクリと喉を鳴らして嚥下する様をアオイはじっと見つめていた。
「ん?」
「んーん」
 なんでもないと、アオイは小さく首を振る。
「飲みたいのか?」
 その瞳は、果たしてデュークを見つめていたのか。それともその仕草に、何か違うものを見ていたのか、デュークにはそれはわからなかった。
「いらない。美味しくないもん」
「飲んだことあるのか?」
「―――」
 しまった、アオイの顔が何も言わずただそう物語っていた。
 ――――何を隠しているんだ・・・
 時折見せる、警戒感のある顔。怯えた仕草。それでいて、何故かここにいることに執着している様にさえ見える態度。何かを隠している割には、まったくと言っていいほどポーカーフェイスが出来てないその顔。
 その全てが、一体何を指しているのかデュークには検討も付かなかった。
「もー寝る」
「ああ」
 デュークの問いに答える事無くそう眠そうな声を上げたアオイに、デュークはその後を問い詰めたりはしなかった。ころんと寝返りを打って、向けた背中をただ黙って見つめ、グラスに残ったブランデーを飲み干してから、静かに明かりを消して眠りに付いた。
 デュークは知っていたのだ。
 自分が寝付かなければ、アオイが寝付けない事を。
 本来なら、身元も正体も謎な相手に背中を向けて先に寝入るという行為は、デュークにとっても非常に困難な作業だったのだが、それでもそれが出来たのは、デュークがアオイに危険なものを感じた事は無かったからかもしれない。
 ――――ケイトが知ったら、なんと言うか・・・
 怒り狂うのが目に浮かぶな、とデュークは一人漏らした苦笑はそのまま闇に消え、いつしか規則正しい寝息に変わった。




・・・・・




「暑い・・・」
 ミヤはモップにあごを乗せてバテた声を上げていた。
 甲板といえば、影になるような物が無い。だから日差しが容赦なく降り注いでいた。この日差しは何も今日ばかりではない。昨日も一昨日も、その前もだった。
 暦の上では既に秋に指しかかっているはずなのに、太陽はそれを忘れてしまったかのように真っ赤に燃え盛り、刺すようなキツイ日差しが降り注いでいた。
「ミヤ、これでいい?」
 さぼっているミヤとは対照的に、アオイはモップを一生懸命動かして掃除に精を出していた。今も甲板の6割をアオイが拭き終わったところだ。
「ああ、だいぶ上手くなったな」
「ほんと?」
「ああ。最初はそこらじゅう水浸しにして、どうなるかと思ったけど」
「へへ〜」
 そうなのだ。アオイは最初雑巾もろくにしぼれず、モップといえばびちょびちょのままそこら中を拭きまくったのだ。その後の事はもう。全部ミヤが拭きなおして、そりゃぁ大変だったのだ。
 当然アオイは怒られた。
「じゃぁ今度はこっち?」
「ああ」
 そこは本当ならミヤがやらなければいけないトコロ。けれど、まぁせっかくアオイが張り切ってるんしと、ミヤはアオイに押し付けることにした。
「まーいいよな」
 ミヤは小さく呟いて、自分はぺたりと隅に腰を降ろした。大体にしてミヤはアオイがちょっと面白くなかった。デュークに目をかけられる事も、トウヤとよく一緒にいる事も、口の効き方もその態度も。
 新参の何も出来ないくせに、と思う。
 だから、これくらいいいだろう。
 だって、アオイは鼻歌なんか歌って掃除をしている。何がそんなに楽しいのか、ミヤにはさっぱりわからないがアオイは何をするにも楽しそうで、いちいち興味を示す。それも、鬱陶しいとちょっと思っていた。
 だから押し付けてもいいさ、迷惑料さ、そう勝手に思いながら見るでも無しにアオイの姿を眺めていたら、アオイの足が急にふらついた。
「おい?」
 ったく、モップ拭きくらいちゃっちゃとやれねーのかよ、そう思った。なんでいちいちふらつくんだ、そんな理不尽な思いに駆られた。たぶん、ミヤ自身この暑さの所為で少し苛立っていたのだろう。
 けれど。
「・・・アオイ?」
 足元がどうにもおかしい。ミヤはいぶかしげな顔で腰を上げた、その直後だった。
「アオイ!?」
 アオイの身体がふわりと揺れて、そのまま甲板の床に倒れこんだ。
 バタン、と大きな音がして。カラン、と続いてモップの転がる音が響く。
「おい、どうした?」
 慌てて駆け寄って抱き起こすと、さっきまでとはまったく違う蒼白の顔色。しかも息も苦しそうで、ぜいぜいと言っている。
「えっ、おい!どうした!?」
 たった今まで鼻歌歌って普通だったのに、一体何があったのかミヤにはまったく分からない。混乱に思わずその身体を揺すると、音を聞きつけたのか中からケイトが出て来た。
「どうしたんだ?」
「いきなり倒れて―――」
「見せろ」
 ケイトはアオイの顔を見てその頬に触れる。
「熱いな・・・、とにかく中に運ぼう」
 ケイトはそう言うと軽々とアオイを抱え上げ中へと運び入れ、そのまま、部屋の主に了解も得ずドアを開けるとベッドにその身体を横たわらせた。
 そこへ、ミヤがヒデローを連れて戻ってきた。ちょうどヒデローは広間でデュークとチェスの最中で、話を聞いたデュークも一緒に姿を現した。
「どうしたんだ?」
「見せろ」
 ヒデローがケイトの前に進み出てアオイの顔色を見る。こういう時こそ、医者の出番だ。
「んー・・・へーき」
 意識を取り戻したのか、ベッドに寝かされたアオイから僅かな声が洩れて無理矢理の笑みが浮かぶ。しかし息が荒くて、顔は先ほどと同じく白くなっている。
「脈が弱いな・・・、日射病かもしれない。アオイは持病とかは無いか?」
「ん・・・」
「無いと聞いてる」
 答えられそうに無いアオイに変わってデュークが声をかけた。デュークは今ヒデローとは逆のベッドサイドから心配そうにアオイを見つめていた。
「そうか。ミヤ、水を貰って来てくれ。飲む分と身体を冷やすために濡れタオルを作る分。それからデュークは涼しくなるように扇いで」
「わかった」
 ヒデローはそう言うと、あまっている枕を一つ掴んでアオイの足の下に差し入れ、服のボタンを外そうとした。
「―――ッ!!」
「え・・・」
 鋭く、アオイの喉が鳴って身体がビクッっと震えた。
「ヒデロー」
 制止の声が飛ぶ。
 デュークはその先の言葉を目線だけで伝え、ヒデローは多少の驚きを表しつつもその手を素直を引いた。本当ならば衣服を少し緩めた方がいいのだが、今の状況ではそれが難しそうだと悟ったのだ。
「お待たせ」
 そこへミヤがグラスを持って、トウヤが水の張った桶とタオルを持ってやって来た。
「ああ、サンキュ。ケイト、デュークと変わってくれ。デューク、アオイに水を飲ませてやって」
「わかった」
 デュークはグラスを受け取って、そっとアオイに声をかける。
「アオイ。水、飲まなきゃいけないから。起きれるか?」
「ん・・・」
 アオイは片肘を付いてなんとか身体を起こそうとするのをデュークが支えてやる。全面的に支え様とすればアオイは拒否反応を示すだろうが、これぐらいなら大丈夫だろう、という距離感をデュークはこの数日でなんとなく掴みかけていた。
「飲んで」
「ん・・・、・・・」
 口元までグラスを運ぶと、アオイはゴクゴクと喉を鳴らして水を飲み干した。その飲みっぷりを見ると、だいぶと喉が渇いていたのが分かる。
「まだいる?」
「いい・・・」
「後でまた同じくらい飲ませてくれ」
 そのままベッドに沈んだアオイに視線を向けながら、ヒデローの言葉にデュークは分かったと頷いた。そのヒデローは濡らしたタオルを堅く絞って。
「アオイ、ちょっと首の下にタオル置くから」
「ああ、俺が」
「・・・そうか」
「アオイ、ちょっと身体横向けて、―――そう、よしもう良いぞ」
「ん・・・、ああ。きもち、いいーよ」
「そうか」
「ん・・・」
 そのままアオイは再び意識を沈めていった。穏やかな眠りに向けて。その顔にヒデローもホッと息を吐いて今度は額に濡れタオルを乗せた。
「日射病?」
「だと思う。このまましばらく様子を見るしかないけど、大丈夫だと思う」
「良かったぁ〜」
 この間、ほとんど口を開かなかったミヤが心底ホッとした声を上げた。まったく口を挟めないでいたが、もう心中は気が気でなかったのだ。仕事を押し付けた上に倒れられて、もしもの事があったらタダでは済まされないのは分かりきっている。
 正直、生きた心地がしない数分間だった。
「さて、後はデュークに任せていいか?」
「ああ。見てるよ」
「何かあったら知らせてくれ」
 わかったと頷いたデュークを残し、部屋に集まっていた他の者はぞろぞろと部屋を後にした。







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