海の上の籠の中で 後編1





 ぼそぼそと、何か声が聞こえた。
 僅かに残る意識で感じた匂いは、嗅いだことの無い物。それに反応しているのかなんなのか、意識が少しずつ浮上していこうとしている。
 ―――――イヤダ・・・・・・
 浮上していこうとする意識を、もう一方の心が引き戻そうとした。戻っておいでと猫なで声を上げて、もう暗闇に沈んでしまおうよと誘いかける。
 その方が、楽だよ?と。
 きっとその方が、いいよ?と。
 暗闇の底で、目も耳も塞いでじっとしていようよ、そう言って誘う。それに誘われたのか、浮上しようとしていた意識がまた沈み出す。
 そうだ、きっとこの僅かに感じる光の先に、本当に光なんか無かったのだと思い出す。だから、このまま沈んでしまう方がいいのだと、思う。
 静かな沼に、ぶくぶくと身を沈めていようと、思い直したその時、パタンと扉が開く様な音がして、また意識が少し浮上した。どうやらこの浮上したがっている意識は好奇心が旺盛の様だ。
 しかし、途中で少し迷うようにそのスピードを止める。
 外。
 それが必ずしも幸せだけが満ちている世界でないと、もう既に知ってしまったから。
 閉じ込められて自由を奪われて、ただの人形でいることを強いられた時はまだ子供でそんな事を知らなくて、きっと外には楽しい事が、幸せな事が満ちているに違いないと思っていた。
 実際、そうだった。
 楽しくて仕方が無かった。たくさん回りに迷惑を掛けたけれど、幸せだと思っていた。何もかもが輝いて見えて嬉しかったのに。
 それだけじゃない事を知った。
 恋を知って。
 それを失う事を、知った。
 そして、諦めるしかないって事をやっぱり知らされた。暗闇の世界で、諦めるしかないのかと嘆き、それでも諦めきれなかったのに。外の世界で、それを知らされた。
 打ち砕かれた。
 ああ、やっぱり外は止めよう。暗闇の底にいよう。
 そう思い直して決心して、また下へと潜ろうとした時ふっと甘い匂いがした。
 強烈な、誘惑。
 この匂いを、知っていると思った。
 泣きそうになるくらい、切なく思った。
 そう。
 この甘い甘い、香りは。
 ―――――リンゴ、だ・・・・・・
 買ってもらったリンゴ。
 いくつかをおじさんに上げて、そして海に落とした。
 大好きな、大好きな人から買ってもらったリンゴの、匂い。
 何故?
 海で落としたはずなのに、どうしてリンゴの香りがするの?
 意識はまた、急速に光を目指して駆け上がる。
 もしかして?
 そんなはずがないのも知っているのに、どうして馬鹿な期待をするのだろう。それでも意識は駆け上がる。
 わかっているのに。
 ダメだよってもう一方が大声で喚いて、悲鳴の様な声を上げているのに。
 行っちゃダメって泣き叫んでいるのに。
 そこに。
 大好きな人たちも。
 大好きな人も、いないってわかってるのに。
 わかっているのに、何かを期待して。
 意識は、光の向こうに。
 あの場所ではない、場所に向って。
 一目散に駆け上がった。




「・・・・・・・・・っ、・・・・・・」
 うっすら開けた瞳に差し込む光が眩しすぎて、アオイは思わず目を細めた。
 こんな事が前にもあった、そんな事を漠然と思った。
 ―――――・・・どこ・・・・・・?
 やっとの思いで開いた瞳で見た先は、まったく見知らぬ天井。シミのある、古びた天井。明るいと思った外は、思いのほかそうでもなかった。
 アオイは億劫に感じながらもゆっくりと首を巡らせる。
 ―――――あ・・・っ
 ベッド脇の小ダンスだろうか、その上に乗るリンゴ。甘い香りの元はこれだったのだと、アオイは軋む身体を押して腕を伸ばした。
 指先に感じるひんやりとした感覚。力の入らない指で、なんとかそれを持ち上げて顔に近づけた。
 ―――――ああ・・・・・・・・・っ!!
 甘い、なんともいえないリンゴの香り。アオイの瞳に不意に涙が込み上げて、ぽろぽろと零れ落ちた。
 ここは船では当然無くて、ここにデュークはいない。
 誰も、いない。
 リンゴだけ。
 自分で、その道を選んだというのになんという辛い現実だろうか。心は既に、戻りたいと、そばに居たいと悲鳴を上げている。
 暗闇から出て来たことをも、既に後悔している。
「うっ・・・っ、くっ・・・・・・」
 殺しきれない嗚咽が喉から洩れて、アオイはリンゴを抱きしめて泣いた。
 どうして目を醒ましてしまったのだろう。暗闇のあの底で、膝を抱えてじっとしていれば良かった。そうしていればきっと、こんな風に身体が引きちぎられる様な痛みを感じなくてもいられたはずなのに。
 こんなに苦しくならないで、良かったのに。
「・・・っ、ヒィ・・・っく・・・」
 会いたい。
 会いたいよ。
 デュークに、会いたい。
 ただ。
 会いたいよっ!!
 傍に。
 傍にいて欲しい――――――よぉ・・・っ!!
「――――おい!?おい、坊主!?どうした!?」
「!!」
 アオイの身体が見知らぬ声に、ビクっと震えた。泣いていて、自分の考えに囚われていて人が入ってきたのに気づかなかった。
 ハッと上げた顔の先には、日に焼けた顔の男の人が、おろおろした様子で立っていた。
「どっか痛むのか?」
 ―――――ダ・・・レ・・・?
「どうした?」
 そこへもう一つの声が聞こえて扉が開かれた。
「あっ、先生!あの、坊主が――――」
「ん?おお、目が醒めたのか」
 ―――――ダ、レ・・・・・!?
 恰幅の良い、やや白髪交じりの髭の顔。大嫌いな、薬の匂いがする。
 イヤダ。
 近寄ってくるその人に比例するようにアオイの身体に緊張が走る。まだ身体が軋んで重いから、思う様に動かないのにどうしたらいいのだろう。
 背中に悪寒が走り抜けて、胃が競りあがる様な押さえつけられるような不快感が身体を締め付ける。
「どれ、熱は―――――」
「イヤ―――!!」
 手を伸ばされてアオイは思わず悲鳴を上げてベッドの隅まで逃げた。背中に壁が当たって、それ以上後ろに下がる事は出来ず、シーツを掻き集めて握り締める。
「おい・・・」
 面食らった様なおじさんの声は、アオイには届いていない。
 ただ、歯をガチガチ言わせて震えながら、白髪混じりの目の前のおじさんを凝視していた。
「大丈夫だ。わしは医者だ」
 医者と名乗った白髪交じりのおじさんは、アオイから一歩離れて椅子に座り両手を挙げた。けれど、アオイは信用ならないと、息を詰めて医者を見つめていた。
 医者だと名乗った人も、あの人の手先で。傷ついた身体を勝手に開いて、治療と称して嫌な事ばかりされた。
 医者など、大嫌いだ。
 "なら、どうして・・・・・・どうしてヒデローは大丈夫だったんだろうか?"
 その問の答える余裕も考える余裕もアオイには無いが。ただ、目の前への恐怖しかない。たた目先への怯えしか――――――――――
「お前さんをこの男が浜で見つけてな、助けてくれたんだ」
「あ・・・」
 そうだ。そうだ、僕は――――――
「水をだいぶ飲んでたからな、それを吐かせて冷たくなった身体を温めた。それでも三日三晩目を醒まさないから心配したぞ」
 リンゴを捕まえようとして―――――――
「あ、・・・ありがとう、ございます」
 アオイは消え入りそうな声で呟いた。身体の緊張は解けなくても、助けてくれた事は事実らしいから。
「いやぁー無事ならそれでいいさ」
 気の良い言葉に、アオイはペコっと小さく頭を下げる。
「さて、お前さんを診察したいんだがな?」
 そう言われてアオイは慌てて首を横に振った。それだけは、絶対無理。今、触られたらきっと・・・・・・
「まぁ、仕方ないか」
 白髪の医者はそう言うと、少し困ったようなそれでいて優しい笑みを浮かべた。
「ごめ、ん・・・なさい」
 悪い人じゃ・・・なかったんだと、少し思う。それでも、今のこの状態で身体を触られるなんて、想像出来ない。それだけは、無理だ。
 アオイはただ、震え出そうとする身体押さえ込もうと必死で抱きしめるのがやっとだった。だって恐い。
 ただ、恐い。
「痛いところや苦しいところは?」
 アオイは首を横に振る。
 痛いのは、心。苦しいのも、心。
「頭がボーっとするとか、熱っぽいとか?」
 もう1度、アオイは首を横に振る。
 その時また、ぼたぼたっと涙が零れ落ちた。しかし、二人はそれには何も言わなかった。ただ、そっとアオイを見つめていた。
「そうか。ならいい。ただし、もしそういう事があったら隠さずに言う事。いいな?」
 問いかけに今度はコクンと、アオイは小さく頷いた。リンゴごと身体をぎゅっと抱き締めながら。











次へ    短編へ    小説へ    家へ