海の上の籠の中で 後編2





 アオイが目覚めてから、10日という日が過ぎていた。
 この、病院という場所にも慣れて、白髪のおじさん――――先生にもアオイはだいぶと慣れて来て、助けてくれたおじさん―――――トルタスにも慣れた。
 それに比例する様に食事を受け付けなかった身体も、開き直ったのかなんなのか少しずつ食べ物を食べる気になってくれて、今朝はおかゆとバナナを残さないで食べられた。
 それでも、外へ出て行く気にはなれなくて、アオイはまだ1日のほとんどの時間を部屋の中で過ごしていた。ベッドしかない、この簡素な部屋の中で。
 しかし。
「・・・ちょっと・・・」
 ―――――退屈。
 それはきっと身体が少しずつ元気になった証拠なのだけれど、アオイとしてはまだ精神がついていかず。持って行き場の無い思いを胸に、ベッドの上で足をぶらぶらさせているしかない。
 外に出るのは、恐い。けれど、身体は少し退屈を訴え出していて、さらにアオイ自身もこのままここに篭っていられない事も十分承知していた。
「これから・・・」
 ―――――どうしよう・・・・・・
 行くところなど、アオイには無い。待っていてくれる人もいず、会いたい人にはもう会えない。
 一体、どこへ行けばいいのだろう。どこにいれば、良いと言うのだろうかと自問自答してみたところで答えは出ず、挙句にはどうして誰も答えをくれないのだろうと理不尽に思ってみたりする。
 愚かしい事だと、冷静な自分がどこかで言っているのに。
 本当にアオイは、行き場を失って戻る所も失った迷子なのだ。それも、こんな体躯には見合わない幼い精神と世間知らずな心を持て余して。
 逃げ隠れるしか無いのだ。
「・・・はぁ・・・」
 無意識にため息が洩れた。
 初めて、身にしみて孤独を感じていた。足元がおぼつか無くなるほどの。
「ほんと・・・、どうしたら、いいんだろ・・・・・・」
 不安と恐怖、言い様のない孤独だけがのしかかってくる。目の前が突然真っ白になって景色も失って、道も失って一人佇む恐怖。そんな感じなのだ。
 その時、外から見知った声が聞こえてきた。
「あ・・・、トルタス、さんだ・・・」
 今日も来てくれたんだと思った。トルタスは毎日、アオイの様子を見にやってきてくれていたのだ。
 それだけで何か繋がりが持てた様なそんな気持ちが沸いて、現金なものだがアオイの心が僅かに浮上する。
「ん・・・?」
 それに何か、匂いがする。香ばしい、甘い様な香り。
 ―――――これって・・・・・・
 アオイは好奇心には勝てず、そっと扉を開けて外に顔を出した。幸いに廊下には誰もいないようだ。声は、先の診療室付近から聞こえてくる、香りと共に。
 キシっと僅かな音をたてて廊下が鳴る。アオイはそっと足を忍ばせて、匂いの方へと近づいていった。そろりそろりと歩く、忍び足のその先に。
「あ・・・」
 やっぱり、パンだぁ!!
 そこには、焼き立ての美味しそうなパンが籠に入って置かれてあった。しかも幸運な事に、先生とトルタスの姿がそこには無い。パンは控え室に、二人はその先の診療室にいたのだ。
「ん〜〜良い匂い」
 ツヤツヤのロールパンに、ふわふわの食パン。それに、何か木の実の入ったパンもあるし、甘そうな匂いのするのもある。
「・・・食べたい」
 時刻は、お昼。どうやら食欲の方はだいぶ回復してきているらしい。その現金な身体に、もしここにデュークがいたら苦笑して頭を撫でたかもしれない。
 好きなだけ食べたらいいと、笑ってくれたかも。
「いいかな」
 答えのない自問。
「せっかく美味しそうな匂いしてるし」
 ちょっとだけならいいかな?
「うん」
 いいよね?
「うん」
 アオイは甘い誘惑に勝てず、自問自答で自分を納得させてロールパンを一つ手に取った。それは想像通りやはり暖かくて、しっとりとした手触り。くんくんと嗅いだ匂いはとっても美味しそうな香りがする。
 アオイは思わずへら〜っと笑って、カプっとロールパンに歯を立てた。
「ん〜〜〜!!!」
 ―――――おーいーしいーーーーー!!
 バターの甘い香りが口いっぱい広がって、もちっとした触感とともにたまらなく美味しいのだ。
 ―――――凄いおいしぃ〜。トウヤのより美味しいかもっ
 アオイは嬉しくなって、二口でロールパンを平らげて新たな1個に手を伸ばす。するとそれは胡桃入りで、これまた堪らなく美味しい!!
 あぁーん、やっぱりトウヤのより美味しいかも、ごめんねトウヤ!
 そんな事を思いながら、すっかり無心でむぐむぐとパンを噛んでいると。
「こら!」
「ふぐっ!!―――ゴホッ、ゴホッ」
 大きな声にビックリして、思わず喉にパンが詰まってしまった。ゴホゴホっと咳き込んで、胸を叩く。
――――― く、苦しい・・・・・・っ
「先生!」
 トルタスは慌ててアオイに水を差し出すと、アオイはそれをありがたく受け取って、喉の途中で止まっている感じがするパンを飲み込んだ。
「勝手に盗み食いする方が悪い」
「・・・す、すいません・・・」
「いいよいいよ、また焼いて持ってくれば良いんだから」
 にっこりと笑うトルタスは、どこか少年の様に見えるおじさんでアオイも思わずほっとして笑みを返した。
「まぁ、盗み食いする元気が出たのは良い事じゃな」
「ええ」
 ふんと憮然とした顔の先生に、トルタスはほっとした様に笑う。先生も、本当はほっとしてるんだけれど顔に出にくい誤解されやすいタチなのだ。
「それならば話しやすいかな」
 ピクっとアオイの耳が動く。
「あ・・・、僕部屋に―――・・・」
「まぁ、待て」
 腰を浮かせたアオイに、先生は椅子に座るように促した。しかしアオイは、なんとなく嫌な空気を感じ取って、進められる椅子に座ろうとはしない。
 そのまま、うな垂れた様に立ち尽くしていた。
「座りなさい」
 きゅっと思わず唇を噛む。
 なんとなく、来た、とアオイは確信した。もう10日だ、そろそろだろうと思っていた。
「先生」
「身体に障るんじゃ」
 そう言われてはトルタスもどうしようもない。困ったようにアオイと先生の間を視線をさ迷わせ、アオイを懐柔するほうを選んだらしい。
「ちょっと、ちょっとだけ座ろうか?ね?」
「・・・ん」
「立ってるの、しんどいしね」
 アオイは渋々、椅子に腰掛けた。その心境はまさに泣きそうだった。匂いに釣られてこんなところに出てこなければ良かったと、後悔してももう遅い。食い意地の張った自分を呪ってみてももう今更。
 きっと、もうここにはいられないって話なんだろうと、思った。
 そしてその予感は、的中する。先生は、もう大丈夫なのだから、いつまでもここに置いておくわけにはいかないと言ったのだ。
 ―――――やっぱり・・・・・・
 この時アオイは、なんて意地悪なんだろうと思って先生が嫌いになった。1週間以上名乗りもしなければ事情を話しもしないアオイを、何も言わず面倒を見てくれたのに。
「それでね、行くところとかあるのかなって」
 ―――――そんなの、無い。
 アオイはただ拳をぎゅっと握り締めて、顔を俯けて自分の膝を見つめていた。
「もしね、無いんだったら僕のところに来るかい?」
「え?」
 アオイの肩がピクっと揺れてトルタスの顔を上目遣いにチラっと見る。咄嗟に身体を、ぎゅっと抱きしめた。
「僕の家はね、パン屋さんなんだよって前に言ったの覚えてる?」
 コクンと、アオイの頭が揺れる。
「奥さんがね、もうすく出産でね」
「―――しゅっ、さん?」
「そう。子供が生まれるんだ」
 デレっと眉がだらしなく垂れ下がるのをアオイは不思議な思いで見つめた。
 とにかくこっちの身体が目的とか、そういうのじゃなさそうだと肩の力は抜けたけれど、それとは違う意味で心が強張った。
 ―――――こ、ど、も・・・・・・
「それでね、誰か仕事のほうを手伝ってくれる人を探してたんだ。・・・・・・どうかな?」
「どうかなって・・・?」
「やってみないかなって事だよ」
「それって、・・・僕がパン屋さんってこと?」
「の、お手伝い。僕がパンを焼くから、お客さんに渡してお金を貰ったり、配達の間の店番とか」
「・・・・・・」
「どう?」
 ―――――奥さんが出産で、僕がパン屋さんのお手伝い?
「ん?」
 思わずトリタスを見上げたアオイに、トルタスはふっと笑みを浮かべる。その視線からアオイは逃げるように視線をさ迷わせ、逡巡の果てにもう1度トルタスを見た。
 不思議な気持ちだった。人形だった自分が、海賊の見習いになり、そして今パン屋の手伝いになろうとしている事が。
 そんな、外の世界にいることが。
「僕で、いいの?」
 そして、ここでもまた出産。
「もちろん」
 子供。
「・・・・・・」
 生まれてくる、子供。死んじゃった、デュークの子供。
 なんて不思議なのだろうと思った。
「奥さんにはもう話してあるんだ。会えるの、楽しみにしてるよ」
「ほんと・・・?」
「うん」
 死んじゃったミドリさん。
僕に会いたいって言ってくれた、奥さん。
 僕が役に立ったら、何か変わるかな?
「・・・うん、僕・・・、がんばる」
「本当かい!?」
「うん」
 ―――――会って見たいと思った。もう、会うことの出来ない、ミドリさんの変わりに。
 何故かこの時は、アオイはそう思っていた。
 まるで、その先に望む者が待っているんじゃないかなんて、バカみたいな期待をして。会える筈の無い人への、僅かばかりの糸が繋がっているんじゃないかなんて、よく分からない気持ちになった。
 トルタスはアオイの返事に嬉しそうに笑って、奥さんに報告してくる。明日迎えに来ると、手を大きく振っていそいそと帰って行った。けれどアオイには、正直トルタスがそこまで嬉しそうにしている理由がわからなかった。
 嬉しそうにしてもらえるのは、嬉しいなぁって思ったけど。
 僕はきっとあまり役に立たないかもよ?とは言えなかった。
 先生は、良かったなと言って、トルタスの言う事をよく聞くんだぞと言った。  診療費も、トルタスが立て替えてくれたんだからお礼を言っておきないさいと言われたけれど、アオイにはその意味がわからなかった。
 医者に見てもらうことにお金がかかる、そういう基本的な事がわかっていなかったのだ。ただ、診療費って何?と内心首を傾げただけだった。




 翌日、アオイは迎えにやって来たトルタスと共に、先生お世話になりましたと頭を下げて、緩やかな坂を上った。
 幸いなのかなんなのか、アオイには纏めなければならない荷物も無いし身軽なものだ。身一つの姿でトルタスの後を付いて行く。
 あの時は夜で、ちゃんと周りを見ていなかったけれど、山間のこの町はとても美しい町並みだった。薄い色の石畳に白い壁の家が立ち並び、山のほうには風車も回っていた。山と山の間の町だからか、坂が多いのであちこちに階段があり、その傍らにお年寄りが座って井戸端会議が繰り広げられ、裏道ではおじさんが何かテーブルゲームに興じていた。
 時々、野良猫も横切っていった。
 のどかで穏やかな空気が流れ、風景が過ぎ去っていく。
 その合間を抜けて、アオイが10日ほどいた病院よりも少し山寄りの場所にトルタスの住む家はあった。
「あそこだよ」
 指差された方へ目をやると、トルタスの家もやはり白い壁で、茶色の扉に看板が可愛く下がっていた。奥に煙突が立ち、大きく取られた窓からは中が見えて美味しいパンが並んでいるのが見えた。
 その奥に、黒く真っ直ぐな長い髪を後ろに一つでくくって、大きいお腹を重そうにしながらお客さんにパンの包みを渡している女性がいた。









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