海の上の籠の中で 後編3





 間近で見たその奥さんは、目鼻立ちの随分とハッキリした顔だった。少し猫目な瞳が印象的で、真っ直ぐな黒髪と合わさって少しキツそうな印象がしないでもなかった。
 その顔を、アオイはただじっと見つめていた。見当違いに、ミドリさんもこんな顔なのだろうかなどと考えてみていた。
 そして視線をそろそろと下ろして、ふっくらしたお腹に目を止めた。
「・・・すごい・・・」
 思わず、言葉が洩れてしまった。
 ―――――あんなに膨れてる・・・
「あと1ヶ月くらいで生み月だからね」
「ここに、赤ちゃんが入ってるの?」
「そうよ」
 挨拶もまだのアオイに、怒りもせずににっこりと笑ってお腹をゆっくり撫でた。その顔はとても嬉しそうで、どこか誇らしげでもあった。
「触ってみる?」
「いいの!?」
「いいわよ」
 アオイはそう言われて恐る恐る手を伸ばして、そっとお腹に手を触れると、なんという事か中から何か反応があった。
「うわぁ!!」
 アオイは驚いて思わず手を引っ込める。
「はは、蹴ったわね」
「蹴った?」
「赤ちゃんが、中からね」
 そう言われてもアオイはピンとは来なくて、内心首を傾げたがそれを口にしなかった。アオイはもっと別の事が気になった。
「蹴ったって・・・、僕、嫌われた?」
「まさか」
「そう?」
「ええ、この子がよろしくねって言ったのよ」
「本当?」
 蹴った、のに?
「ええ、本当よ。だから仲良くしてあげてね」
「うん」
 アオイはよくわからなかったけれど、お母さんがそう言うならそういう物なのだろうとコクンと大きく頷くと、再び指を伸ばしてそのお腹に触れた。今度は赤ちゃんが蹴る事は無かった。
 この中に、赤ちゃんが入って息づいている、それはなんだかとても不思議な感じがした。
「ねぇ、ところで私は貴方をなんて呼べばいいかしら?」
「え?」
「私はジェシカ。ジェシカ・ドゥー。旦那はトルタス・ドゥー。貴方は?」
「あ、僕?・・・僕は―――――

 "・・・・・・アオイ。アオイでいいか?"

「アオイ」
 そう言われて名前を貰った。
「アオイ?」
「うん」
 ―――――僕の名前は、あの日からアオイ。アオイ、なんだ。どこにいても。
「わかったわ。アオイ、これから宜しくね」
「うん。よろしくお願いします」
 アオイはぺこと頭を下げた。
 その後、家の中を一通り案内されて、仕事は明日からねと言われて3人で楽しい夕飯を食べた。夕飯は地元で捕れた魚のアラを使ったスープにパン、蒸し鶏のサラダだった。トウヤとはまた違った味付けながら、とっても美味しくてアオイは初日から遠慮する事無くお腹一杯食べてほっこりした気分で、あてがわれた部屋へ戻って来た。
 アオイの部屋は屋根裏を利用した部屋で、やや狭めながらも斜めの天井に天窓が付いて空が見られるようになっていた、かわいらしい部屋だった。そこにベッドと机と、箪笥が置いてあった。床には、寒くない様にとラグも敷かれてある。
 アオイはころんとベッドの上に横になった。お腹は満腹で、スープのおかげか身体もほかほかして、随分満ち足りた気分だった。
 見上げた先には丁度天窓があり空が見えた。
 深く、蒼く、無数の星が散りばめられた空。
 ―――――綺麗・・・
 そう、思った。
 そう、思った瞬間。
 その空から、瞳を反らせられなくなった。
 何が、どうしたとか。何があったとか、じゃない。
 それなのに。
 不意にアオイの瞳から一筋の涙が零れ落ちた。
 涙は頬を伝って、シーツに丸いシミをつける。
「ふ・・・っ、・・・」
 何か、悲しいことがあったわけじゃない。
 あったかいベッドの優しそうな夫妻。寒空に身一つで放り出されたわけでも、空腹に泣くでもなく、行き場が無いわけでもないのに。
「・・・っ、く・・・、ふぇ・・・」
 涙がぽろぽろぽろぽろ零れ落ちた。後から後から、止め処なく。
 その涙を止める術が、わからない。泣いている理由さえも、アオイにはわからない。ただただ、勝手に涙が流れていくのだ。
「・・・ぇ、っ・・・」
 噛み締めた唇からは、掻き消しきれない僅かな嗚咽が洩れた。
 何故かわからない。
 でも、心の中から込み上げてくる感情。
 抑えきれない想い。
 言っちゃいけない、思っちゃいけない。そう思えば思うほど、頭に浮かんだ、心が叫んだその感情が打ち消せない。
 涙に視界が霞んでも、空を見上げる事を止められない。
「・・・っ、・・・・ひっく・・・」
 ここで、一人生きていくと決めたのは自分だ。
 パン屋の手伝いをして、ここで海を眺めて一人こっそりと息を潜めて生きていこう、自分にはそれしかないと決めたのは、誰でもない自分自身なのだ。
 だから、こんな風に思っても仕方が無い。
 こんな風に考えるのは間違ってる。
 だから――――――――
 それなのに、追い出されてくれない想い。
 言っちゃいけない。
 口を開けば叫び出しそうになるから、アオイは必死で唇を噛んだ。
 言えば、もっとどうしようもなくなる。
 どうする事も出来ないのに。

 けれど。それもまたアオイの本心。

 ――――――会いたい――――――、と。




・・・・・・




 翌日から、アオイにパン屋修行の日々が始まった。
 涙の所為で腫れた瞼は、アオイは気づかなかったけれど夫妻にはわかっていた。けれど彼らは何も言わなかった。
 ただ、アオイに仕事の仕方を教えて、お金の数え方を教えて、接客の仕方を教えた。幸い、アオイは言葉遣いはなっていなトコロもあったが愛想は良かったので、客の反応も上々で問題は無かった。
 元来頭も良いのか、つり銭の計算もすぐ覚え、最初のうちこそ時々間違えていたがすぐにそれもなくなり、1週間もする頃にはしっかりと出来るようになっていた。
 今日も、パンの良い香りにヨダレを垂らしそうな顔をしながらアオイはパンをショーケースに並べていた。
「アオイちゃん」
「はい」
 奥の厨房から声がかかり振り替えると、トルタスが焼きあがったパンを渡してきた。
「わぁーこれも美味しそう!!」
 ふわふわのパンに甘い蜂蜜が混ぜられたそれは、アオイの大好きな甘い香りを存分に漂わせているのだ。
 その顔は今にもガブリとかぶりつきそうに見える。そんな顔に、トルタスはほっとした様な優しい笑みを浮かべた。
「お昼はサンドイッチだからね」
「うん」
 トルタスをそう言って作業に戻り、アオイは渡されたパンをショーケースに閉まった。そこへ、扉がカランと鳴って、アオイはハっとして顔を上げた。
 しかし、その顔は一瞬の強張りからすぐに、いつもの笑みに変わる。
「いらっしゃいませ」
 そこに立っていたのは、三日に一度の割合で来る近所のおばさんだった。
「こんにちは」
 わかっているのに。
「こんにちはぁ」
 来るはずなんか無いって事。
「食パンと――――このハニーブレッドを」
「はい」
 だって、自分がここにいる事は誰も知らないのだから。もう、期待するのはやめなきゃいけない。そう言い聞かせる。
「55フーニになります」
「はい」
「ちょうどですね、ありがとうございます」
 アオイは笑顔のままで、パンを包んだ袋を渡した。
「ありがとう。また来るわ」
「お待ちしてます。ありがとうございましたー」
 きっと彼らは、もう遥か彼方、遠い海の上にいるんだから。









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