海の上の籠の中で 後編4





 その、遥か彼方の海の上。
 波は穏やかに、揺れ。風は緩やかに吹きぬけていた。見上げれば、遠くの空をかもめが飛ぶ姿が見え、反対の向こうにはなにやら魚の背が見える。
 その見渡す限りの大海原の一角、東の方角に一艘遠ざかっていく船の後姿があった。その姿を、彼らはじっと甲板から見送っていた。
 あっさりと交わした別れの言葉はどこか言い足りない気がしたけれど、彼がそれ以上の言葉を嫌がった。そして、堅く握った手のひらの硬さとしわくちゃさに、そうかこんなにも老齢だったのかと改めて思い知らされて。
 引き止めることも、惜しむことも出来なかった。ただ、憧れと尊敬と、目標を見つめる視線でしか彼を見られず、言葉は喉に絡みついてただぎゅっと握り締めて別れた。
「・・・引退、か」
 これからもあの背中に向かって走っていくのだろうけれど。
「いつかは来る、この日だな」
 ぽつりと呟いた言葉。
「ええ」
「寂しいけどな・・・」
「ああ」
 握手の手が離れて変わりに握らされた、古びた紙が数枚。無造作に渡されたそれが、どんなに凄いものか知っている。
 何を、託してくれたのかも。
 どれほどの思いを、託してくれたのかも。
「俺達にもこれを託すのって、向こうの船の人たちは納得出来んのかな」
「それだけ、―――――買ってくれてたんだろう」
 軽く肩を竦めて言う言葉に、デュークはふっと目を細めた。
「勝手に船に乗り込んで、すぐに独立したってのにな」
「ああ」
「え――――頭ってあの船に乗ってたんすか!?」
 トウヤの驚きの声が上がる。それだけ、あの船に乗るという事の凄さと、彼に認められる事の難しさがあるのだ。数いる海賊の中でも尊敬に値される人物は数少ない。そして、その船に乗る事を許される人間もまた、厳選される。
「まーな。ケイトもだけど」
「すっげーっ」
 トウヤの声にミヤは瞳をしばだたせる。ミヤはトウヤと違って、海賊になった動機がまた違うので、彼の噂や凄さはあまりピンときていないのだ。
「そんなすげーじーさんだったんだ?」
「お前っ!――――あのなぁ、あの人はあの当時最強最悪と言われた乱暴者だった海賊を見事に打ち倒したのに、覇権を握るでもなくあっさり外海に飛び出して、当時帰る人のいない旅から唯一帰って来た人なんだぞ!」
「へぇー」
 何人もが外を目指して旅立ち、そして帰っては来なかった。当時彼も、もう帰ってこないと思われていたのだ。
 しかし、彼は帰って来た。今でも唯一、無二の人。
 その凄さを、珍しく熱くなってるトウヤにミヤはまだピンときていない様子で、そんな二人をヒデローは苦笑を浮かべながら見つめていた。
「その後も、外海の海図を手に入れようと、自分の腕を過信した馬鹿が何人とあの船を襲ったが、全てを返り討ちにしたんだぜ。ただ、ここ数年はどこかに雲隠れして、姿は見せてなかったけどな」
「じゃあ頭とケイトは外海を見たんすか!?」
「いや、俺たちがいたのは、1回目に外海から戻った時で、2回目に外海に出る前に船を降りたからな」
 水平線の向こうに、船が消えていく様をじっと見つめながらデュークはそう答えた。
 "なんだと!?船を、降りる?なんで今船を降りるんだ!!"
「頭?」
 フッと笑ったデュークに、何がおかしかったのかとミヤが首を傾げた。
「――――いや・・・」
 "勝手に乗り込んだお前らを、頭がどれだけ目をかけてやったと思ってるんだ!!それをお前達は!!"
 ―――――若かった、な・・・
 デュークとケイトの行為を、船の連中はこぞって責めた。後からやってきたくせに、目をかけられているのが気に入らなかったのだろう。その上、外海に行く、人手が必要になるって時に彼らは船を降りたのだ。それは随分、身勝手に見えただろうし実際身勝手な行為だ。
 けれど、外海に行くなら自分の船で行く、行ってみせると粋がっていたデュークには彼らの連帯意識が、鬱陶しかったのだ。頭、頭となんだと。男なら自分がそう言われてなんぼじゃないのか、と。
「デューク」
 俺は、そうなってみせる、と。
「ん?」
「思い出し笑いもいいけど、そろそろ船を出します」
「あ、?」
 どこに向かって?その言葉は、喉に絡んで声にはならなかった。聞かなくても分かる、顔を見たらわかった。
「ここに、外海の海図がある」
「はい」
「いいのか?」
 戻れば、それだけ遠回りになる。この話を聞きつけた耳ざとい者が、襲い掛かってくるかもしれない危険も増す。
 それでも―――――?その言葉は、聞くだけ野暮だった。
「殴るぞ?」
「いや、今回は私に譲ってくれ」
「ケイト?」
 おいおい、お前が殴れるのか?とヒデローがケイトに視線を向けると、ケイトはスーッと瞳を細めた。この顔は、怒りを溜めている危険な顔だ。
「戻らない、なんて選択をするつもりですか?」
 一瞬に空気が冷え込んで、思わずミヤとトウヤの喉が、ゴクっと鳴る。
 漣の音がやけに大きく響いた。
 それ以外は一切の音が無くなった、沈黙の数秒。
 フッとデュークが笑った。
「サンキュ」
 小さなその声は、口の中で小さく消えた。
 頭と呼ばれてなんぼなんじゃない。頭と呼んで持ち上げてくれるヤツに、支えられているだけなんだ。
「面舵一杯、全速力で戻るぞ!!」
「やった!!」
 珍しいケイトの号令に、嬉しそうなナナの声が響いてヒデローはにやりと笑いトウヤはほっと肩の力を抜いた。ケイトは足早に操舵室に向かい、デュークはその後をゆっくりした足取りで追った。 
 その背中を、ぽんとヒデローが叩いた。
 ただ一人、ミヤだけが少し複雑な顔をしていた。




・・・・・・




 その日の朝は、昨日までと違うグッと冷え込んだ朝だった。少しずつ冬の訪れを感じずにはいられないその空気にアオイはホーっと息を吐いてみた。
 顔を洗って階下に下りると、朝ごはんの準備に取り掛かるジャシカの後姿があった。室内には、ベーコンの焼ける良い香りが漂っている。
「おはよう」
「おはよう」
「トルタスさん呼んで来ます?」
「お願い」
「はーい」
 既に起きて朝の仕込みをしているトルタスを呼びに行くのは毎朝の事。そうして、3人で朝食を囲む。
 今朝のご飯は、ベーコンエッグにトースト。オニオンスープに葡萄という献立だった。ベーコンは、坂を少し下って右に1回曲がったところのお肉屋さんのもの。おじさんは、これまた丸々太っていて、奥さんがパンを買いに来てはダイエットに励まないご主人の愚痴を言って帰るのだ。野菜はその4軒向こうの八百屋さん。こちらは、30歳くらいのおじさんがやってるんだけど、今度お嫁さんを貰うらしい。こっちはお母さんがやってきて嬉しそうに話して行った。
 お客がほとんど顔見知りの常連さんばかりなので終始その調子で、アオイはパンを売っているのか、話し相手になっているのか時々わからなくなるなと思う。
 ―――――別にそれが悪いとかじゃないけどね。
 そんな風に思って、ふっと笑みが洩れる。1日中誰とも口を利く事も無くただベッドの上にいたあの頃からは想像も出来ない毎日だ。
 活気と、生活と、生きてるって事を感じられる日々。
 まだ、船でのことは思い出すし心にある気持ちを何処かへやってしまうことも到底出来ないけれど。
「アオイちゃん」
「はい?」
 けれど、笑っていられる自分がいる。
「ちょっと配達に行って来るから」
「いってらっしゃい」
 こうして、日々を過ごし、店番をして笑顔でトルタスを見送り、もうしばらくしたらジャシカがやってきて買い物に行くと告げて行く。それに入れ替わるようにトルタスが戻って来て、厨房の片づけをするのを感じながらアオイは客と向かい合う。
 そんな日々が、少しずつアオイの中で当たり前になりそうな日常がただ静かに過ぎて行った。










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