海の上の籠の中で 後編5





 アオイがドゥー夫妻の家にやってきて無事20日という日が過ぎ去っていた。穏やかで、同じ事の繰り返される当たり前の日常は、何事も無く過ぎているようだった。
 ただ。
「あージェシー、そんな重いもの持たないで」
「大丈夫よ」
「ダメだよっ。もしものことがあったらどうするんだ!」
「あ、ちょっと」
「もういいから、君は座ってお茶でも飲んでて」
「あのねっ・・・、ああもう!!」
「ちょっとジェシー、何してるんだい?」
「片付けよ」
「ああ!だから僕がっ」
「あのね!」
 この毎朝のラブラブした二人を見ていると、アオイは人知れずため息をつかずにはいられなくなるのだ。
 それは呆れているわけじゃないし、嫌気が差しているわけでもなくて。ただ、何か嫌でも胸を抉られる光景。それが辛かった。
「まったく。別に私は病人じゃないっていうのに――――あ、ごめんねぇアオイちゃん」
「ううん」
 傍らにいるアオイに、少しばつの悪そうな照れた様な笑みを浮かべたジェシカ。そんな彼女にアオイは、いいよと首を横に振る。
 その顔は少しばかり、沈んで見えたけれど。
「まぁ、あの人も待ちに待ったわが子だから、しょうがないんだけど」
「そうなんだ?」
「ええ。私・・・・・・中々子供が出来なくて」
 フッと少し寂しそうに笑ったその顔に、何故だろうアオイは大好きな人の顔が重なって見えた。
「男の人ってさ・・・・・・」
 脳裏に浮かんでいるのは、ただ一人。
「え?」
 唯一の人。
「やっぱり自分の子供って、欲しいものなんだよね」
 テーブルに両手をぺったりつけて、そこに顎を乗せた格好でアオイは所在無げに呟いた。
 自分じゃあ逆立ちしたって、お天道様が西から登ったって子供を生む事は出来ない。それだけは不可能なのだ。だからきっと、変わりになる事さえ、出来ないのだ。
 もし―――――変わりに一緒にいて変わりに子供を生めたら、何か違ったんだろうか?
 ジクっと胸が痛んだ。
「アオイちゃん?」
「んー?」
 いくら男に抱かれても、女にはなれない。
「変な事言うのね。アオイちゃんだって、立派な男の人でしょう?」
「え!?あー・・・ああ、うん。そだね」
 ジェシカの指摘に、アオイは驚いて慌てたようにハハハっと乾いた笑い声を上げて立ち上がった。
 そうだった。あまり自覚は無いけど、自分も男だったのだと思い出す。女の人を抱いたことも、抱きたいと思ったこともないけれど。きっと、一生もう無理なんだろうなぁと思う。
 そういう意味でやはり、自分は普通とは違うのだろうと思う。
 きっとどこか、何かが欠けているのかもしれない。完成しない、パズルの様に。欠陥商品の様に、少し何かが壊れているのかもしれない。
「僕、そろそろ下行って、準備してくるね」
「アオイちゃん?」
 そんなアオイの態度に不審気な顔をしたジェシカを、アオイはあえて気づかない振りをした。いつの間にかそういう逃げ方を憶えていた。
 とんとんとん、と階段を下りて扉をパタンと閉めて大きく息を吐いた。
 日に日に大きくなる、膨れ上がる思いをため息と一緒に吐き出してしまえたらいいのに。残念ながらそれは出来ないらしく、心がどんどん重くなっていく一方だ。
 アオイは扉を背につけ、ずるずるとその場にしゃがみこんだ。
 一人じゃないのに寂しいと、どうしようもないほどに寂しいと思う気持ちを掻き消す事が、出来なくなって、ただその場で頭を抱え込んで、しばらく立ち上がる事が出来なかった。




・・・・・




 ザザっと波が大きく揺れ動いて、船が港に接岸された。その船を、人々は少しいぶかしみながら眺めていた。
 何故ならば、その船は約4週間前にこの港にやってきたばかりなのだ。定期的に荷を運んでいるのでもないその船が、こう頻繁にやって来るはずがない。
 別に彼らがやって来る事に異論があるわけではないが、しかしいつもと違う流れに、もしや何かあったのかと家の陰や高台の方から、人々は不審気な視線を向けずにはいられない。厄介ごとに巻き込まれるのは、遠慮したいのだろう。
 そんな視線には頓着しない彼らは颯爽と船を降り立った。そして細かい打ち合わせをしようとしえいると、3名の町の男達が近寄ってきた。
「どうもどうも」
 中央の男は威風堂々とした立ち振る舞いだが、その横の男は何かに怯えているのかやけに低姿勢な物腰で彼らに声をかけた。
「お邪魔してます」
 軽く会釈をすると、中央の男もそれに答えた。
「前の寄港から、そう日が立って無い様に思うのだが」
「ああ、そうですね」
 別に彼らは殺気だっているわけでもないのだが、やはり中央の男意外は二人とも落ち着かない様子だ。たぶん、彼らの腰に刺さってある立派過ぎるその剣に怯えているのだろう。
 間違いなく、幾多の血を吸って来たその剣に。
「何か問題でもありましたか?」
「町長っ」
 物言いがストレートすぎますっ、と怯えた小声はあいにくとコチラまで聞こえていて苦笑するしかない。
「すいません、驚かせるつもりじゃなかったんですが。実は忘れ物をしてしまいましてね」
「ほう」
「それを取りに戻っただけなんです」
「そ、そうでしたかっ」
「はい。ただ――――どこへ忘れてしまったのかわからないので、少々長居する事になるかもしれませんが、決してこちらの迷惑になる様な事ではありませんので」
「本当ですね」
「誓って」
 互いの真意を確かめようと、一瞬ピンっと張り詰めた空気が流れる。傍らの男の荒い息遣いが耳障りに響くほどの、一瞬の緊迫と静寂。
 しかしそれとは対照的に、船に乗ってやってきた彼らの纏う空気は晴れ晴れとしていた。どこにも緊迫感が見出せないのだ。
「わかりました」
 口火を切ったのは町長と呼ばれた男の方だった。彼にもそれがわかったのだろう、そのままくるりと踵を返して、来た道を戻っていった。
 その後姿を見つめて、フッと息が洩れた。
「騒がせて悪かったな」
 それは静かな町と、ここに暮らす住民への謝罪の言葉。
 しかし、だからと行って引き返すわけにも、今すぐ出発するわけにもいかない。置いてはいけないものが、ここにはあるのだ。
「だったら、早いトコ忘れ物を見つけようぜ」
 軽い声に、同意するように肩を竦めた。
「そうだな」
「ええ」
 穏やかな笑みが浮かんだ。
「頑張りますか!」
「じゃあ、まずはどこから行く?」
 紅1点、明るい声と共に大きく地図を広げた。




・・・・・




「ねぇ、アオイちゃん」
 声を掛けられたのは、夕食を終えて後片付けも終えて風呂も終えて、部屋に上がろうとしていた時だった。
「はい?」
 気分はもうベッドの中だったアオイは、変に跳ねた声で返事をしてしまった。そんなアオイにクスっと堪えきれない笑いを漏らして。
「髪、ちゃんと乾かさないと風邪ひくわよ」
 そう言って手近にあったタオルでアオイのまだ濡れた髪を優しく包んで拭いてやる。その指先を頭皮に感じながら、アオイはいぶかしむ声を出した。
「ジャシカさん?」
「んー」
「あの、何か話があったんじゃ?」
 呼び止められたのだから、当然そうなのだろうと思っていたアオイに対して、ジャシカは優しくアオイを見つめる。その視線はタオルに阻まれて、アオイが気づく事は無かったけれど。
 その瞳がどれほど、慈愛に満ちていたかも。
「そうだったんだけど」
「うん」
「何か言おうと思ったけど、忘れちゃった」
 はいお終い、とタオルが取り除かれて、アオイのくりくりの瞳がジャシカを見上げる。その顔は、わけがわからないと物語っている。
「ごめんね」
「・・・いいけど」
 にっこりと笑った笑顔に、アオイの心がキュンと締め付けられるような気がして、戸惑いの波紋が広がっていく。何がとか、どうとかじゃなくて、よく分からないけれど。なんていうのか漠然と、その笑顔をアオイはどこかで見たことがある様な気がした。
「じゃあ僕、もう寝るよ」
 けれど、思い出そうと脳の中を探ってみればみるほど、捕らえようとした記憶の端がするりと手の中から逃げていく。
「そうね、おやすみ」
「おやすみなさい」
 優しくて慈愛に満ちた、まるで何もかもを知っているかの様な暖かい眼差し。
 あの瞳に見つめられて、髪をくしゃりと撫でられて――――――その相手を少し見上げていた様な。
 これは、いつの記憶。
 いつの、思い出?











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