海の上の籠の中で 後編20








 バサバサバサっと音がして、アオイの腕の中からシーツが落ちていった。
 どこかで鳥の鳴く声がして、波の揺れる静かな音も聞こえた。
 しかしきっと、アオイにはそれらのどの音も聞こえていなかっただろう。息さえも止まっているのではないだろうかと思えるほど、微動だにせず瞳を大きく見開いてケイトを見つめていた。
「アオイ――――」
 ケイトがハッとした様に声をかけて手を伸ばした。その指先が、アオイに触れる寸前、アオイの体がヒクっと震えてケイトの指先を拒絶した。
「っと、・・・ナニ?」
「名前。言いたくない事だろうけど、教えてもらえると」
「何言ってるの!?僕はっ、・・・!!」
 ケイトの言葉を遮るようにアオイは声を上げた。ケイトの瞳の端に、心配そうなそれでいてどうしようもないヒデローの姿が映っていた。
「アオイ」
「そうだよ!!僕はっ、アオイ、だよ」
 アオイはそう言うと、手から落としたシーツを無造作に掴んで抱え込んだ。シーツが皺になるとか、甲板の埃や汚れも一緒にふき取ってしまったかもしれないとか、そんな事は考える余裕もなかった。
「アオイっ」
「ナナが待ってるから!!僕、行くね」
 アオイは逃げるようにケイトとヒデローの前から姿を消して、船内へと入っていった。その甲板では、ケイトは呼び止めるも追いかけるも出来ずに立ち尽くしてしまった。
 すぐには、言葉は発せなかった。
 あまりにも、顕著なアオイの反応だった。
「ケイト・・・」
 珍しく躊躇いがちなヒデローの声にケイトは首を巡らして、薄く笑った。
「俺からもう1度、聞いてみるわ」
「いや、もう止めておこう」
「けど」
 ケイトはゆっくり首を横に振った。そのケイトの脳裏にたった今見たアオイの顔が浮かんでいた。張り付いたあの、表情。
 ―――――きっと、この手で・・・・・・
「どうした?」
「――――――また、傷つけてしまったかな?」
「ケイト!」
「きっと、聞かれたくなかったんだろうな。名前を、捨てたかっただろうに」
 それが分かっていても、船の事を考えれば聞かずにはいられなかった。アオイの心に、配慮が足りなかった。
「自分を責めるなよ?」
「―――――」
「これもお前の仕事の一つで、それはアオイだってわかってるさ。船に乗った以上、互いに歩み寄って1番良い選択をする努力をしていくのは当然だろう」
「・・・ああ」
 ヒデローの言葉にケイトは頷きはしたものの、その気持ちは晴れるものでは到底無かった。




 一方アオイは、シーツをナナに渡して自室のシーツだけを抱えて部屋に戻って来ていた。そのシーツをベッドの上に置いて、自分もベッドに腰を下ろした。
 どれくらいそうしていたのだろう。
 何かを考えるでもなく、意思があったわけでもなくただぼうっと空間を見つめていた。頭の中が真っ白で、何かを考える隙間が無かった。
 ガクンと船が少し揺れて、ハッとした時には先ほどより太陽の光が赤みを帯びていた。
「あ・・・」
 ―――――シーツ、敷かなきゃ・・・
 アオイは傍らに丸まったまま置かれたシーツに目をやって、のろのろと指を伸ばした。その脳裏に先ほどケイトに言われた言葉が巡った。
 ―――――なまえ。自分の、・・・・・・本当の、名・・・・・・
 捨ててしまおうと、決めた名前。もういらない、名前。
 あの人が呼んだ、名前。
 大嫌いな、名前。
「なんで・・・」
 ―――――あんな事を聞いたんだろう?
 アオイは機械的に体を動かして、ベッドにシーツを敷いていく。ピンっと張られたシーツに、こちらもシーツを入れなおした掛け布団。
そして枕を置いた。
 ―――――ちがう。
「僕の名前は・・・」
 忘れたい。
 いらない。
 欲しくない。
 なんで?
 僕は、アオイじゃいけないの――――――――?




・・・・・




「アオイ!」
「ミヤ、ナナも」
 それは、アオイが午後をキッチン横にあるソファに座ってお茶を飲んでいる時だった。ケイトとデューク、ヒデローとトウヤが集まって何か話をしていて、アオイは暇を持て余していた。
 ミヤとナナもそうだったのだろう。
 ミヤはボスっと音をたてて、アオイの向いに腰を下ろした。
「お茶入れるわね。ミヤも飲むでしょう?」
「うん!ありがとっ――――何?」
 向かいでクスっと笑ったアオイに、ミヤは不思議そうな瞳を向けた。自分は何も、おかしな事はしていないはずなのに。
「ううん、なんか機嫌いいなって思って」
 アオイに言われて、ミヤの頬が思わず赤くなった。向こうでナナもクスクス笑っていた。
 鈍いアオイにまで言われるほど、最近のミヤは上機嫌だったのだ。それはもう、浮かれてるって言葉意外当てはまらないほど。
「・・・なんだよ、アオイは機嫌悪いの?」
「別にそういうわけじゃないんだけど」
「ミヤは特別よねー」
「ナナ!!」
 お茶を入れたカップを二つ持って来てナナが言う。ナナはそのままアオイの隣に腰を下ろした。
 二人に言われてミヤは拗ねた顔でカップを受け取ると、フイっと視線を外してゴクっとお茶を喉に流しいれた。
 自分でも少し、自覚があるのかもしれない。
「でも・・・」
「ん?」
「良かったね、ミヤ」
 アオイの、静かな声だった。その顔には、ほっとしたような本当に嬉しそうな笑みが浮かんでいた。片思いの苦しさを知ったから、アオイにもミヤの気持ちが分かった。
 ミヤの嬉しそうな様子が、アオイにも嬉しかったのだ自分の事の様に。
「んだよっ、改まって」
 けれどやっぱりミヤは、照れの方が先に立つらしい。
「だって」
「るさいなぁー、いいだろう!!」
「もう、照れちゃって」
「ナナ!!」
 やはり顔を赤らめたままのミヤと、そんなミヤを見つめてクスクス笑うナナを、アオイは代わる代わる見つめて少し微笑んだ。
 その顔が、強い陰を帯びていた事にナナもミヤも気づかなかったけれど。
「なんか・・・」
 言葉は無意識に零れ落ちた。
「え?」
「何?」
「あ、ううん。なんでもない」
 ―――――二人とも、綺麗だなぁ・・・・・・
 きらきらと輝いて見える二人が羨ましくて寂しくて、少し苦しいなんてアオイには言えなくて、なんでもないと慌てて首を横に振った。
 ―――――僕は・・・
 ツキンと、胸が痛んだ。それは最近何故か、時々感じる痛みだった。
「あのさ、アオイ」
「なに?」
 ―――――こんな風に、綺麗に笑ってるんだろうか・・・?
「あの・・・」
「?」
「ごめん!!そのっ、色々今まで、俺なんかアオイに」
「えぇ!?」
 いきなり唐突に頭を下げたミヤに、アオイは目をおろおろと泳がせて慌てて両手を振った。その顔をナナにも向けてミヤにも向けて、思わず腰を浮かせた。
 だって何がなんだか、意味がわからない。
「やめてよっ!!なんで謝るの?僕、謝られるようなこと何もないよ?」
「アオイ」
「・・・えぇ?」
 じっと見て来るミヤに、アオイは本当に困惑した顔を向けた。どうやらアオイはまったく気づいていなかったらしい。
「俺さ、もしかしたらトウヤはアオイが好きなんじゃないかなって思ってて、アオイにちょっと嫉妬してたっていうか、ちょっとイジワルしてたっていうか・・・それでっ」
「そうなの!?全然気づかなかったけど・・・」
「そうなんだ!だから、ごめん!!!」
 ミヤは再び頭を下げた。
「だから、ちょっ、もういいから止めてよ!!」
「許してくれるか?」
「許すも何もそんなの気づいてなかったし。僕は全然怒ってもないし・・・」
「そっか」
「うん」
「じゃあ、知ってどうだった?怒ったか?」
「別に。ただちょっとびっくりしただけ。第一トウヤが僕をって・・・・・・凄い発想だね」
 アオイはそう言うと、思わずクスっと笑ってしまった。アオイには想像もしていなかった発想だった。
「だってそう見えたし・・・」
「そう?」
 アオイは思わずナナに助けを求めるように振り返った。するとナナも苦笑を浮かべて肩を竦めた。
 恋というのは、本人よりも周りのほうが良く見えているという事だろう。
「とにかくもうこの話はお終い。ね?」
 こんな場に初めて遭遇したアオイはとにかくどうしていいのかわからなくて、怒ってないと意思表示の様ににっこりと笑った。
 第一、ミヤに頭なんて下げて欲しくなった。
「良かったね、ミヤ」
「・・・うん」
 ナナこ声に、こちらはホッとしたように笑って、小さく頷いた。その顔は緊張から解かれたように清々しくて、どうやらミヤは、ずっとアオイに謝るタイミングを計っていた様だ。
 ミヤはミヤなりに、ずっと気にしていたのだろう。










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