海の上の籠の中で 後編21








 着ていた服を脱いで、眠る時様のラフな洗い立ての服に袖を通すデュークの背中をアオイはじっと見つめていた。
 その、筋肉のついた美しい背中のラインを。
 逞しい、姿を。
「なんだ?」
 見つめられる視線がくすぐったいのか、デュークは振り向きながらアオイに問うと、アオイは小さく首を傾げた。
 じっと見つめていた事がわかっていなかったらしい。
「そんなに見つめられると照れるんだがな」
 デュークはそう言いながら、ベッドに横たわるアオイの傍らに腰を下ろした。
「見惚れていたか?」
「うん」
 臆面ないアオイの頷きにデュークは笑みを零して、軽くアオイの唇にキスをした。ちゅっと軽い音が聞こえる。
 そしてグラスに少しのお酒を注ぐ。その茶色の液体をアオイはじっと見つめて。
「一口」
 これはお決まりの台詞。そして、
「ダメだ」
 これも。
「ちぇぇー」
「こないだまずいって言ったじゃないか」
「そうだけど、毎日飲んでたら美味しく思うかも」
「思わなくていい」
 デュークはそういうとその液体を、美味しそうにごくりと喉に流し込んだ。
「なんでー」
「お前はまだ子供って事だからだ」
「子供じゃないよっ」
 そう言ってムキになって、ちょっとデュークの背中をぽかぽかと叩く、その仕草の全てが子供っぽいとはどうも思っていないらしい。
 デュークは笑みを浮かべてその手を軽く掴んで、手の甲にキスをした。
「悪い手だ」
「むー」
 空になったグラスを静かにサイドテーブルに置いた。そして掴んだ手をベッドに押し付ける。
「デューク」
 アオイの、少し掠れた声にゾクっとデュークの背中が震えた。きっと無意識なんだろうが、誘ってるように聞こえる声にデュークはいつも欲情しているのだ。
 いや、声だけじゃないその全ての仕草に、愛しいと思う気持ちにさえも。
「ねぇ、今日はみんなでなんの話を?」
 聞きたいことなのか、緊張を紛らわすためなのか、アオイが唐突にきく。
「あー、これからの進路の事でな。トウヤには食糧事情を」
 デュークが明かりを消した。僅かな明かりは、ベッドサイドの小さなランプだけ。
「それによって寄港する場所が変わるだろ?」
「ああ・・・、うん」
 暗闇の中でもデュークは決してアオイを離さない。どこかがかならず触れ合うようにして、アオイが安心できるようにしていた。
 大丈夫、ここにいるよ―――――――と。
「決まった?」
「今度話すよ」
 そう囁いた息遣いが、アオイの頬を揺らした。片方の腕を捕まれて、片方の手が髪を優しく梳いていた。
「・・・うん」
 アオイのもう一方の手が、デュークの肩を掴んだ。
縋るように、引き寄せるように――――――――――
 交わしたキスの味は、少し苦かった。やっぱりお酒は、美味しくない。




・・・・・




「―――っしょ」
 アオイは甲板の掃除に使ったモップを2本持って、隅の物入れに仕舞おうと持ち上げた。一緒に掃除をしていたミヤは、雑巾を洗うために中に入っていっていた。
「手伝うか?」
「へーき」
 足音にその存在に気づいていたアオイは、驚きもせずにいらないと首を横に振った。するとヒデローはひょいっと肩を竦めて笑った。
「毎日掃除なんかしなくてもいいだろうに」
「そんな事言ってるからヒデローの部屋は散らかってるんだね」
「・・・悪かったな」
 確かに散らかしている自覚があるヒデローはそこには反論出来ないらしい。しかしあれはれで、俺にはどこになにがあるか1番分かる状態なんだというのも、どうも言い訳じみて口には出来なかった。
「はぁー、終わった」
 アオイはモップを直し終えて、うーんと腕を高く伸ばして伸びをした。空は相変わらずの快晴だが、少し雲の流れが速い。
「お疲れさん」
「ううん」
 アオイは笑みを浮かべながら、するりとヒデローの横をすり抜けて行く。その後をやはりヒデローが追いかけた。
 甲板の中央まで歩いたとき、アオイは小さく息を吐いてくるりと振り返った。
「ん?」
「・・・なに?」
「え?」
「用が、あるんじゃないの?」
 何をするでもなくそこにいて、アオイの後を付いて歩いてくるヒデロー。いつもらしからぬその態度は、短い付き合いのアオイにだってわかった。
「あー・・・」
 どうやら、ヒデローには苦手な役割らしい。
「――――」
「うん。そう、なんだ。・・・こないだ、ケイトが言ってた事だけどな」
 ハっとアオイの瞳が見開いて、一瞬で悲痛とも言える顔つきになった。その視線を受け止めるヒデローの心境も、アオイとそう変わらないくらい苦渋に満ちていたかもしれない。
「名前、教えてくんねーか?」
「・・・・・・」
「頼む」
 風が、さきほどよりも強く吹いてきた。
「・・・んで?」
 雲が流れ、先ほどは遥か向こうにあった黒い雲が近寄っていた。
「なんでそんな事聞くの?」
 風の音に負けそうな、細い声だった。 「アオイ、追われてるんだろう?追ってくる相手が知りたいんだ」
「――――っ」
「それによって、逃げ方があるからな」
 珍しく、笑みの浮かんでいないヒデローの顔をアオイは息を潜めて見つめていた。
 その顔は、一切の表情を消しているようでその心の奥を細やかに映し出しているようにも見えた。
 白い顔色。
 見開いた瞳。
 僅かに開いた、唇。
「アオイ」
 その、全てが。
「・・・・・・」
「俺達にとって、アオイはアオイだ。他の何者にもならないし、なれない。何かが変わるわけじゃない」
 ヒクっとアオイが息を飲んだと同時に、空がゴロゴロっと鳴った。
「―――なら・・・」
いつの間にか辺りが暗くなってしまっていた。
 雲は想像以上に早く、流れていたらしい。
「聞かないで・・・っ」
「アオイ」
「あんな、――――あんな名前を聞かないでよ!!」
 おぞましい、思い出すだけでも肌が粟立つ様な気持ち悪さに襲われる。思い出すだけで、その声も息遣いも、触れる指先さえも思い出す。
 あんな、あんな名前を。
 ―――――どうして――――――――――!!
「アオイ!!」
 崩れ落ちる、そう思ってヒデローが慌てて手を伸ばした。
 船も、波に揺れて。
 それはまるで、スローモーショの様。その手が届く、その前に――――――――――
「アオイ!?」
 雷の音に甲板に様子を見に来たデュークの声が聞こえた。弾かれるようにアオイがデュークを見つめた。
「どうした?」
「あ、――――いや・・・あ、アオイっ!」
 逃げるようにアオイがデュークの間をすり抜けて、駆けて行った。その姿は瞬く間に船内へと消え二人だけが取り残される。
「何があった!?」
 ピカ!!と空が光った。
「名前を、」
「何!?」
 船が揺れて、ケイトも顔を出した。しかし二人の様子を視界に捉え、とりあえずトウヤとミヤに指図する役に回り、自身も操舵室へと走っていく。
「名前を聞いたんだ。アオイの」
 デュークの顔つきが険しくなった。
「あの時言ってた話か?」
「そうだ」
「―――勝手な事を。聞くなら俺が聞く」
「お前じゃ聞きにくいだろうと思って、こっちは気ぃ使ったんだよ!」
 デュークの物言いに、カチンと来たヒデローが怒鳴った。その顔を、デュークは睨みつけた。少しばかりの苦い心が、デュークの言葉に敏感にさせた。
「それでアオイは―――っ」
「言わないで行っちまった」
 また船が大きく揺れた。どうやら嵐の中に入っていっているらしい。見上げた空は、相変わらず雲が早く流れているから、そう長時間にはならいだろうが。
「とにかく、この事は――――」
「わかってるよ。もう聞かない。どうやらアオイにとって、そうとう嫌みたいだしな」
 ポツっとデュークの頬を天からの雫が濡らした。
「デューク!!来てくれ。ヒデローは後ろを!!」
 ケイトが操舵室から顔を出して叫んだ。とりあえず、今は目の前の嵐だ。
「わかった!!」
 ヒデローはそのままデュークの横を通って船尾に向かった。デュークは一瞬の逡巡の後、操舵室に向かった。
 しかしその心は、きっと部屋で膝を抱えて蹲っているであろうアオイへと飛んでいた。










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