海の上の籠の中で 後編22





「アオイ・・・」
 部屋の片隅で枕を抱いて蹲るアオイに、デュークはそっと声をかけた。
「デューク」
 嵐が恐かったのかそれともその前の会話が影響しているのか、アオイの顔は青ざめて頼りなげに見えた。
 その髪に指を伸ばして宥めるように優しく撫でた。
「もう大丈夫だ。すぐに嵐は抜ける」
「ん・・・ごめんね、僕役に立たなかったね」
「ばか、いいさ」
 デュークはそう言うとアオイの抱きしめている枕をベッドの上に放り投げて、そっとアオイの体を抱えるように抱きしめた。
 途端に、アオイがぎゅっとデュークの体にしがみついてきた。アオイはそのまま、頭をデュークの肩に埋める。
 その背中を優しく抱きしめて、デュークとアオイは互いの鼓動を聞いていた。
 デュークには分かっていた。アオイに、名前を聞いた方がいい事も、もう少し詳しく色んな事を問いただした事がいい事も。けれど、こんな風に頼りなげに震えている相手に、そんな事は出来なかった。
 出来るはずも無かった。
 愛してるのだ。
 傷つけたくなった。
 そんなもの全てから、ただ守りたいのに。
 まだもう少し、時間が欲しかった。相手が、待っていてくれるかどうかはわからなくても。
 この船にいる以上、自分が頭でいる以上、そんな甘い考えに流されて船員の安全を脅かす様では、頭失格だとは分かっていた。わかっていても、今は聞けなかった。
 守ってやりたい。
 何に変えても。
 それは、揺るぎようの無い気持ちで信念であったけれど、そのために他の誰かを犠牲にする事も出来ない。そんな事は、許されることでは無いから。
 デュークは苦しげに顔を曇らせて瞼を閉じた。
 脳裏に、血に濡れた手を見つめて叫ぶ自分が浮かんだ。あの日、悲鳴に似た声でミドリの名を呼んだ、時――――――――
 動かぬその身体を、ただ見つめた時。
「アオイ・・・」
 囁くような声に、アオイがピクっと反応を返した。けれど、用があって呼んだわけじゃない。アオイもわかっているのだろう、ぎゅとする力を少し強めただけで動こうとはしなかった。
 二人はそのまま、じっと抱き合っていた。
 時計の秒針の刻む微かな音を聞きながら。
 ―――――アオイ・・・・・・お前がどこの誰でも俺は構わない。
 デュークにとってはそんな事はどうでもいい事だった。それでこの気持ちが変わるわけはない。何者であったてもいいのだ。
 ただ愛しくて、守りたい存在。
 今度こそ、何に代えても。
 例えこの命に、代えても。




・・・・・




 通りすぎた嵐に海は再び穏やかさを取り戻し、寝静まった船内はシン・・・っと静まり返っていた。アオイの耳には、間近に感じるデュークの息遣いの音しか聞こえない。
 時折の、波の音と。
 ―――――なんか、懐かしいな・・・・・・
 まだこの船に来た頃、人と一緒に眠る行為が本能的に恐くて受け入れられなくて、デュークが眠りに付くまでじっと息を潜めて寝たフリをしていた。
 あの頃はデュークを好きになるなんて思いもしなくて、悪い人じゃなさそうだけどもし何かされたらかなわないから恐いな、そう思ってたりもしてたんだ。
 ―――――今じゃ、想像も出来ないけど。
 今はこの腕が無かったら、不安でしょうがない。嫌われたらと思うと、恐くて恐くて仕方が無くて、そう思うだけでどうしていいのかわからなくなる時もある。
 あの頃は、知らなかった気持ち。
 ―――――デュー・・・ク
 ねぇ?
 僕はここに戻って来て、本当に良かったのかな?
 いつかデュークは後悔するのかな、僕を好きって言った事。
 僕はいつか後悔するのかな、この船に戻って来た事を。
 みんなはいつか、後悔するのかな?僕と出会った事―――――――
「・・・・・・」
 アオイの瞳から静かに涙が零れ落ちてシーツを濡らした。
 ―――――きっと、あの人は来ると思うんだ・・・・・・
 なんでそう思うかわからないけど、でもそう思う。間違いなく来る、って。
 檻に入れられて布をかけられて船に運ばれた、その布の隙間から見たのは船員があの人に敬礼している姿。
 おぼろげに憶えているのは、母や父と一緒に食事に行った時。今思えば、随分とうやうやしい態度で、誰かが挨拶に来ていたこと。
 母は、赤いドレスできらきらしていた気がする。
 僕にも誰かが膝を付いて、話しかけてきた。
 顔は、覚えていないけど。
 母の顔も、父の顔も――――――――――――
 どうしてこんなにも、何もかもが曖昧なんだろう。
 昔の事が、あまりにも遠く感じられる。
 あの人の事は、こんなに近いのに。
 でも、何をしていたのかは知らない。
 ただ、恐かった。
 みんながみんな敬っていて、逆らえなくて逆らわなくて。
 力が強くて。
 声が大きくて。
 体も大きくて。
「――――っ」
 思い出して、背中が思わずビクっとしてデュークに絡めていた指先に力が入ってしまった。
「ん・・・」
 ―――――あ・・・っ
「・・・アオイ?」
 何故か息を詰めて、声を殺した。
「んん・・・」
 デュークは小さく身じろぎをして、アオイを抱えなおす仕草をしてから再び眠りに入っていった。先ほどと同じ、規則正しい息遣いが聞こえてきてアオイの肩から力が抜けた。
 そのデュークの顔を、アオイはしばらく見つめていた。
 触れると起こしてしまいそうで恐くて、ただ息を詰めて見つめていた。
 ―――――デュー、ク・・・
 ただ一人、どうしても好きな人。
 かけがえのない、人。
 もし、あの人が来たら僕はどうするんだろう・・・・・・
 もしあの人が、デュークを傷つけるような事になったら。
「――――」
 僕は、どうしたらいい?
 船に迷惑をかけたくない。
 みんなに面倒をかけたくない。
 デュークに、傷なんかつけられない。
 ―――――僕は、どうしたらいい・・・?
 ただ好きで、ここにいたいだけなのに。
 ただ、それだけでいいのに。

 それはきっと、叶わない?




・・・・・




「ん〜トウヤの入れた紅茶はやっぱり美味いな」
 椅子にどっかに座って、デュークはトウヤが入れてケイトが運んで来た紅茶に口をつけた。ノンシュガーのアールグレイは、紅茶のみの甘さと香りが十二分に出されていた。
 ケイトはデュークの向かいの椅子に腰を下ろした。
「相変わらず綺麗に片付いた部屋だな。――――最近はナナが片付けてるのか?」
「半々、かな」
「ふ〜ん」
 デュークは少し目を細めて笑って、見知らぬ化粧品や鏡などに目を向ける。女の人が一人増えただけで、荷物は随分増えたようだ。
「で?」
「ん?」
「話、あるんだろう?」
 そんなどうでもいい話をするためにわざわざ部屋にやってきたのか?とケイトは少々冷たい視線を向けた。
 その視線を受けて、デュークは苦い笑みを浮かべた。
「―――――アオイの、名前だけどな」
 卑怯かもしれないが、言いにくくて視線は逸らせた。その横顔に、ケイトの視線ははっきりと感じていたけれど。
「聞き出せなかった」
「――――そうか」
 予想していたのか、ケイトは驚きも非難も表さなかった。ただ少し、苦笑が洩れたのを感じた。
「悪い」
「いや。―――という事は出身地もわからないよな」
「ああ」
「ふむ」
 ケイトが少し考えるように空を見た。名前も出身地もわからないとなると、まったく今までと状況が変わっていない事になる。結局、打開策は見出せていないのだ。
「どうするかな」
「とにかく、全速力で遠ざかっていくしかないな」
「そうだな」
 デュークの言葉にケイトが苦笑を漏らした。けれど、責めているわけではない。お互い甘いな、というただの笑い。それは、そんな自分達も嫌いじゃないなぁと思っていたりする自分に向けた笑みなのかもしれない。
「じゃあ、次の寄港はローエを通り越してボーレンローにするか?」
「そうだな。トウヤの話じゃあボーレンローまでならなんとかなるって言ってたし。外海に向けた準備をするのもあそこがいいだろう」
 デュークの言葉に、ケイトは改めてデュークの顔をじっと見つめた。それは、あまりにも淡々と進んでいるけれど、感慨深いものなのだ。
「―――とうとう、外海だな」
 僅かに、ケイトの目が開いた。
「ああ」
 若い頃からの夢。自分の船で外に出てみせる。そして俺は帰ってくる、そう疑いもしないで当たり前の事の様に言ったデュークに、ケイトは惹きつけられてここまで来た。
 随分前の様で、つい最近の出来事の様でもある。
「楽しくなるな」
「――――はい」
 不敵な横顔に、思わず声が改まってしまった。
「俺達は、2番目の帰船者になるのが悔しいが」
 デュークはゆっくり瞬きをして、ケイトを見てにやりと笑った。
「しかし、きっとこの海図にはない場所まで行ってみせるさ」
 その時、扉の向こうで小さくギシっと音がした。しかし、彼らの耳にはそれはいつもの船の音で、たいして気にも留めなかった。











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